逃げ場が消えた夜
夜は、深かった。
砦の窓から見える空は、雲ひとつなく澄んでいる。
月は高く、白く、冷たい光を落としていた。
風は弱く、木々の葉が触れ合う音すら、遠い。
静かすぎる。
それが、逆に分かりやすかった。
「……」
ベッドに腰掛けたまま、私は動けずにいた。
逃走三回目が失敗してから、どれくらい経ったのか。
時間感覚が、少し曖昧だ。
ドレスは、まだ運び込まれていない。
けれど、部屋の隅には、白い布が掛けられた箱がいくつも並んでいる。
見ないでも分かる。
――花嫁衣装。
「……」
喉が鳴る。
私は、ゆっくり立ち上がった。
足音を殺し、窓に近づく。
鍵は、かかっていない。
……あれ?
手を伸ばしかけて、止めた。
鍵がない。
柵もない。
見張りも、目に見える位置にはいない。
なのに。
逃げられない。
その確信が、胸の内側に、冷たく沈んでいる。
窓の外を覗く。
月明かりに照らされた中庭。
石畳。
植え込み。
通路。
すべて、いつも通り。
――いつも通り、すぎる。
「……あ」
気づいた瞬間、背中が冷えた。
音が、ない。
警備兵の足音がない。
交代の気配もない。
呼吸するような、あの生活音が、まるごと消えている。
隔離されている。
閉じ込められている、のではない。
世界から、切り離されている。
その中心に、私がいる。
「……うそでしょ」
小さく呟くと、その声すら、やけに響いた。
振り返る。
部屋の扉は、閉まっている。
だが、鍵は――見えない。
試しに、手を掛ける。
開く。
「……」
開くのに、意味がない。
廊下に出ても、きっと同じだ。
人は、いない。
音も、ない。
私は、理解してしまった。
これは、逃走を防ぐための檻じゃない。
選択肢を、消すための夜だ。
――逃げても、意味がない。
――探す人間が、いない。
――追う必要すら、ない。
「……完全に、囲われてる」
胃の奥が、きりっと縮む。
怖い、というより。
逃げ道が“存在しない”と理解した時の、あの感覚。
崖の縁に立って、下を見た時みたいな。
私は、ゆっくりベッドに戻った。
布に触れると、昼間の温もりが、まだ残っている。
――さっきまで、ここに誰かがいた。
その気配だけが、消えずに残っている。
「……ルイ」
名前を呼んだつもりはなかった。
ただ、口から落ちただけ。
返事は、ない。
けれど。
返事がないこと自体が、答えだった。
彼は、近くにいる。
でも、姿を見せない。
必要なら、すぐに現れる。
必要がなければ、現れない。
完全に、掌の上。
私は、仰向けに寝転がった。
天井を見上げる。
白い石。
均一な模様。
少しの歪み。
砦の天井は、こんなにも無機質だっただろうか。
胸の奥で、心臓がゆっくり打つ。
逃げたい、という衝動が、少しずつ薄れていく。
代わりに。
「……受け入れたら、楽なんだろうな」
ぽつりと漏れた声は、やけに正直だった。
王妃。
女神。
囲い込まれた存在。
全部、嫌なはずなのに。
拒む理由を、言葉にしようとすると、詰まる。
助けられた。
守られた。
選ばれた。
それは、事実だ。
「……ずるい」
誰に向けた言葉か、分からない。
ただ。
この夜が、境界線だと分かっていた。
明日になれば、
私は“逃げようとする人”ではなくなる。
逃げ場が、消えた夜。
私は、目を閉じた。
扉の向こう。
見えない場所で。
きっと、彼は息を整えている。
私を迎える準備をしながら。
――静かな夜だった。
あまりにも、静かで。
もう一歩も、引き返せないほどに。




