表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
短編集  作者: カクナノゾム


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/9

天の気分

一、灰色の十年


「えぇー、毎度馬鹿馬鹿しいお笑いを一席……。

 高いところから失礼をいたします。いや、物理的にこれ以上高いところ(高座)もございませんが」


 嵐山らんざんは扇子で、凍りついた東京の街並みを指した。

 余裕だ。足元で特務課員が雷撃に吹き飛ばされているというのに、彼はまるで寄席の演芸場にいるかのように語り出す。


「世の中には『怖いもの』というのがあふれております。

 嫌いなもの、苦手なもの。人それぞれでございますな。

『あたくしはヘビが駄目です、あのニョロニョロを見るだけで鳥肌が立つ』とか。    

『いやいや、俺は毛虫が駄目だ』『俺は高所恐怖症だ』なんてね」


 彼の耳には、満座の観衆の姿と、賑やかな出囃子の音色が確かに聞こえていた。



 世界が灰色に塗り込められてから、もう十年が経つという。

 かつて人々が「空」と呼んだ場所は、今や分厚い鉛の板のような雲に閉ざされ、地上は終わらない氷河期に沈んでいる。


 全ての始まりは、二〇四五年にケンブリッジ大学から発表された論文だった。『古代儀式における音響共鳴と大気干渉の相関』。


 かつての雨乞いは、神への祈りではない。特定周波数の「歌」や「語り」で大気中のナノ粒子を共振させ、地球の大気圏知性体――通称<天>の機嫌をとるための、物理的な干渉手段エンターテインメントだったのだ。

 人類には観測不能だったそれは、進化したAIによって、その存在を確認された。


 人類は歓喜した。これぞ「気象制御の黄金時代」の幕開けであると。

 世界各国は直ちに「芸能特務局」を設立。


 ニューヨークではスタンドアップ・コメディアンがハリケーンをジョークで散らし、ロンドンでは風刺作家がブリザードを皮肉で鎮め、そして東京では――「噺家はなしか」が高座に上がった。


 芸で天の気分を読み、操る者たち。

 人々は言語やジャンルを超えて、彼らを畏敬の念と共にこう呼んだ。

 ――『天気てんき』、と。


 だが、その黄金時代は、人類のおごりによって崩れ去った。

 効率至上主義が生み出した「対気象用生成AI」の、魂のない完璧すぎる芸に、<天>は絶望し、心を閉ざした。

 それが、十年前に始まった「大鬱だいうつ」だ。


 以来、太陽は物語の中だけの存在となった。

 かつて新宿と呼ばれた場所は、今や地下四階まで水没した巨大なドブ川だ。

 その湿った暗闇の片隅、廃棄された地下鉄車両の中に、肉塊のようなものが転がっていた。


 三遊亭嵐山さんゆうてい・らんざん

 かつて扇子一本でスーパーセルを消滅させ、日本最強の『天気』と謳われた噺家のなれの果てだ。


 今の彼に、往年の面影はない。

 油と埃で固まった白髪は雑巾のように縮れ、痩せこけた頬を髭が覆っている。


 だが、何より異様なのは、その喉元に食い込む無骨な黒い金属の輪――『発声制御首輪リミッター』だった。


 彼が咳払い一つすれば、局地的な乱気流が発生する。十年前、彼はその鋭すぎる芸で空を暴走させ、都市一つを壊滅させた。

 ゆえに、声を奪われた。英雄から、大量殺人犯へ。

 人々は彼を『天気』ではなく、『天災てんさい』と呼んで蔑んだ。


「……三遊亭。起きているか」


 車両のドアを叩く音がする。気象庁特務課の工藤だ。

 その声は、悲鳴のように震えていた。

「頼む、ドアを開けてくれ。今日の正午、シカゴの伝説的コメディアン、ボブ・ミラーがやられた。成層圏で、雷に打たれて黒焦げだそうだ」


 嵐山は、震える手で一升瓶を抱きしめたまま、うずくまっていた。

 ボブか。あの陽気な男も死んだか。

 今の<天>は、もう誰の声も届かない狂気の中にいる。


「これで最後だ。パリのパントマイムも、中国の京劇役者も、全員空の藻屑になった。……残っているのは、世界でお前一人だけだ」

「……帰れ」

 嵐山は、錆びついた鉄のような声で呻いた。首輪がジジと警告音を立てる。

「俺は人殺しだ。これ以上、何を殺させたいんだ」


 錆を含んだ声が呻くように響く。


二、十年遅れのファンレター


「……郵便だ」

 工藤は諦めず、ドア越しに言った。

「AIが、配送不可データの深層から発掘した。差出人は『相田陽菜あいだ・ひな』。……あんたの、娘さんだ」


 嵐山の心臓が、早鐘を打った。

 陽菜。十年前に絶縁した、一人娘。

 家庭を顧みず、落語に狂った俺を憎んで出て行ったあの子が、なぜ。


 ガチャリ、と鍵が開く。

 隙間から突き出された泥だらけの手が、封筒をひったくった。

 消印の日付は、十年前。あの大災害の日だ。

 封筒の裏には、拙い文字でこう書き添えられていた。

 『代筆:さくら《7さい》』


 ……さくら?

 聞いたことのない名前だ。俺に、孫がいたのか。


 震える指で封を切る。中から出てきたのは、画用紙の切れ端だった。


『てんきのおじいちゃんへ。

 はじめまして。さくらです。

 ママは、おじいちゃんのことがキライだっていいます。

 テレビにおじいちゃんがうつると、すぐにけします。

 「あの人は、かぞくをすてて、空にこいをしたのよ」って言います』


 嵐山の胸に、鈍い痛みが走る。

 当然だ。俺は妻の死に目にも会わず、高座に上がっていた。娘に恨まれて当たり前だ。


『でもね、わたしはこっそり、おじいちゃんの落語のデータをききました。

 “死神”のおはなし、すごくおもしろかった。

 おじいちゃんのこえをきくと、雷さんがなっても、こわくなかったよ。

 だから、わたしは、おじいちゃんのことがすきです』


 視界が滲む。画用紙に落ちた涙が、十年前のクレヨンの青を溶かしていく。

 俺を否定し続けた娘の、その子供が。

 俺の血を引く孫だけが、世界で唯一、俺の芸を認めてくれていたのか。


『きょう、すごく寒いよ。ママがないてるの。

 おじいちゃんは、空とおはなしできるんでしょう?

 おねがい。空になかないでって言って。

 ママをたすけて。

 

 さくらより』


 嵐山は、獣のような嗚咽を漏らした。

 俺は何をしていたんだ。

 世界を救うだの、名声だのと浮かれて。一番近くにいた家族を不幸にし、そして最後には、その孫の祈りさえも、俺自身の芸《暴走》で踏みにじったのか。


 ドンッ!!

 車両のドアが、内側から蹴り開けられた。

 工藤が驚いて飛び退く。


「……工藤。この『さくら』という子は、そこにいるのか」


 嵐山が、地を這うような声で尋ねた。

 薄汚れた前髪の隙間から、ギラついた眼光が工藤を射抜く。


「あ、ああ。第9居住区だ。母親である陽菜さんは……残念ながら、10年前の寒波で亡くなっている。さくらさんは、一人で生き延びた。今は17歳になっているはずだ」

「生きているんだな」

「だが、時間の問題だ。あと48時間で寒波が直撃すれば、シェルターごと凍結する」


 嵐山は、孫の手紙を懐ではなく、帯の間にキツくねじ込んだ。

 それは、腹を切る覚悟のようにも見えた。


「用意しろ。……スカイツリーだ」

「え?」

成層圏あんなとこじゃ遠すぎる。客の目の前まで行ってやる。

 スカイツリーのてっぺんを空けろ」


 嵐山は歪に笑った。

 それは英雄の笑みではない。ごうを背負った修羅の笑みだ。


「死んだ娘には詫びようがねえ。地獄で土下座するしかねえ。

 ……だが、さくらだけは。

 あいつの明日だけは、俺の命に代えても晴れさせてやる」


三、東京の墓標


 出発の1時間前。嵐山は身支度を整えた。

 伸び放題だった髭を剃り落とす。カミソリが走るたび、やつれてはいるが、彫刻のように鋭い顎のラインが露わになる。


 ボサボサの白髪は椿油で撫で付けられ、まげこそ結っていないが、美しい銀の流線を描いて背後に流された。

 そして、作業着を脱ぎ捨て、袖を通したのは――

 カビ臭いロッカーに十年間封印していた『黒紋付』だ。

 背中と両袖に染め抜かれた「三つ組橘」の紋が、薄暗い部屋で白く浮き上がる。


 そこにいたのは、薄汚れた浮浪者ではなかった。

 三遊亭嵐山。

 背筋を剣のように伸ばし、青白い鬼火のような瞳を宿した、伝説の噺家の姿だった。


 凍りついた東京の墓標、東京スカイツリー。

 特別仕様の雪上エレベーターが、軋んだ音を立てて最上階へ到達した。

 扉が開いた瞬間、鼓膜を破るような轟音が襲いかかった。


 ゴオォォォォォォ!!


 地上634メートル。そこは、人間が存在してはいけない領域だった。

 秒速50メートルの暴風雪。気温はマイナス60度。手すりはねじ曲がり、床は鏡のように凍結している。


 その屋上の中心に、緋色の座布団が一枚、ボルトで固定されていた。


「……ひでえ会場だ。客席《空》が近すぎる」


 三遊亭嵐山は、黒紋付の襟を合わせながら呟いた。

 強風で体が吹き飛ばされそうになる。だが、彼は一歩も退かない。帯にねじ込んだ孫の手紙が、彼の重石アンカーだった。


 隣に立つ工藤が、部下たちに絶叫した。

「展開しろ!! 円陣隊形! 嵐山師匠を中心防衛だ!!」


 5人の特務課員たちが、嵐山を取り囲むように展開する。

 彼らが構えたのは、武骨なジェラルミンケースのような装置――『携帯型・対雷撃偏向シールド』だ。

 本来、軍事施設を守るための装置を、彼らは生身で背負っていた。


「いいか三遊亭!」

 工藤がゴーグル越しに怒鳴る。

「あんたは前だけ見てろ! 風も、雪も、雷も、全部俺たちが止める!

 あんたのはなしを、一言だって風の音に邪魔はさせねえ!!」


 嵐山はニヤリと笑った。

 10年前、自分を犯罪者として追い回した男たちが、今は盾になろうとしている。

 悪くない。


「へっ、とんだ大名商売だ。……なら、特等席で聞いてな!」


 嵐山は座布団に座った。

 頭上数メートル。そこには、世界を絶望させている鉛色の雲の腹が、どす黒く渦巻いている。


四、決死の高座


 パァンッ!!


 嵐山が扇子を鳴らした。

 暴風の音が、一瞬だけ遠のく。音響共鳴が始まったのだ。


「えぇー、毎度馬鹿馬鹿しいお笑いを一席……」


 嵐山が語り出す。演目は『太陽怖い』。

 だが、<天>は即座に敵意を剥き出しにした。

 

《また人間か。懲りないことだ》

 嵐山の耳には声が聞こえる。

 天の声が。

 雲海が紫色に発光する。雷の予兆だ。


「来るぞッ!!」


 工藤が叫ぶ。


 ドガァァァァァァァンッ!!!


 太さ1メートル近い雷撃が、嵐山の脳天めがけて直撃する――寸前。

 工藤たちが展開した見えないシールドが、プラズマを弾いた。

 バチバチバチッ!!

 衝撃で隊員の一人が吹き飛び、フェンスに叩きつけられる。


「ぐあっ……!」

「構うな! 陣形を維持しろ!」


 火花が散る中、嵐山は眉一つ動かさない。

 目の前で人が吹っ飛ぼうが、雷が落ちようが、今の彼は「噺家」だ。高座の上では、噺以外の現実は存在しない。


「……で、お前さんは何が怖いんだい? ヘビか? クモか?」

「俺ァそんな可愛いもんは怖かねえ。……俺が怖いのはな」


 嵐山は空を睨みつけた。

 その視線だけで、渦巻く雲を射抜く。


「俺は、『お天道様《太陽》』が怖くて怖くてたまらねえんだ!!」


 ピタリ、と風が止む。

 <天>が困惑した。


 《……は?》


 周りの人間にもそんな声が聞こえるような気がしていた。

 いや、だが嵐山の耳にだけは、その声が明確に聞こえている。


 《太陽が、怖い?》


 戸惑ったような声。

 その隙を、嵐山は見逃さない。

 彼は立ち上がり、空に向かって大袈裟に震えてみせた。


「あの光! あれを浴びると目が潰れる! 肌が焼ける!

 頼む、絶対にここを開けるなよ!

 間違っても、雲の隙間から『日差し』なんてモンを、俺にぶっかけるんじゃねえぞ!?」


 ――挑発。

 ひねくれ者の<天>にとって、これ以上の煽りはない。


 ゴゴゴゴゴゴ……!!


 雲が激怒する。


《生意気な。そんなに嫌なら、浴びせてやる!》


 バリバリバリバリッ!!


 怒りの雷撃が、雨あられと降り注ぐ。

 それは狙い澄ました砲撃のように、守り手を襲った。


「ぐああああッ!」


 二人目の隊員がシールドごと黒焦げになり、倒れる。

 三人目、四人目。


 シールドのバッテリーが爆発し、工藤の左腕が焼け焦げる。


「課長! もう限界です!」

「耐えろ! まだ噺の途中だ!!」


 工藤は血を吐きながら、片腕で嵐山の頭上にシールドをかざし続けた。

 その背中を見て、嵐山は腹の底から声を張り上げた。


 命を賭けて舞台を作ってくれる裏方スタッフがいる。

 なら、主役おれがトチるわけにはいかねえだろう!


「うわあああ! やめてくれ!

 太陽だけは! 直射日光だけは勘弁してくれぇぇぇ!!」


 嵐山はここぞとばかりに声を張った!


五、太陽と、命のオチ


 嵐山の絶叫演技に、<天>のサディズムが頂点に達した。


 カッ!!!!


 雲が裂けた。

 ほんの隙間ではない。空が、自らその腹を割いたのだ。

 そこから放たれたのは、十年分のエネルギーを凝縮した、純度100%の太陽光ビームだった。


 それは、嵐山を守っていた工藤のシールドさえも貫通した。


「がはっ……!」


 工藤が吹き飛ばされ、嵐山は無防備になる。


 ――直撃。

 

 黄金の奔流が、嵐山を飲み込んだ。

 熱い。熱いなんてもんじゃない。全身の水分が一瞬で沸騰するような激痛。


 だが、嵐山は倒れない。

 光の中で、皮膚が焼け、髪が燃えながらも、彼は座布団の上で仁王立ちになっていた。


 彼は、光の彼方で呆気にとられている<天>に向かって、ニカっと笑った。

 焼け爛れた顔で。けれど、世界で一番晴れやかな顔で。


「……ひぃーっ、怖い怖い!

 こんなにたくさんの太陽を見せられて、俺ァ震えが止まらねえや!」


 嵐山は、燃え尽きる寸前の扇子を閉じ、パンッ! と膝を叩いた。


「ああ、怖かった……。

 お天道様をこんなに浴びちまったら、喉が渇いてしょうがねえ」


 彼は、黒焦げに倒れた工藤たち、そして地上のシェルターで震える孫娘に、最後のウィンクを投げた。


「今度は、一杯の『お茶《雨》』が怖いや」


 パァァァァァァァンッ!!!!


 扇子の音が響き渡り、オチがついた。

 <天>が、満足げに笑おうとした、その瞬間だ。


 消えゆく嵐山の目が、ギロリと空を睨みつけた。


「……おい、天!!!」


 それは芸人の声ではなかった。

 一人の人間としての、血を吐くような咆哮だった。


「笑ったな? 満足したな!?

 だったらもう、二度と人間に愛想なんて振りまくんじゃねえ!!」


 <天>がビクリと震えた。

 嵐山は、空に向かって指を突き立てた。


「俺たちはテメェの玩具じゃねえ!

 機嫌ひとつで凍らせたり、笑ったり……そんな甘ったれた関係は、ここで終いだ!

 この『三遊亭嵐山』という極上のネタを最後に、二度と人間に期待なんざするな!!」


 嵐山の体が、光の粒子となって崩れていく。

 だが、その怒号だけは雷鳴よりも強く、大気圏のコアへ突き刺さる。


「ただの風に戻れ! ただの雲に戻れ!

 誰の声も聞くな! 誰の顔色も窺うな!

 あるがままに晴れて、あるがままに降らせろ!


 ……あばよ!! 達者でな!!」


六、出囃子


 その一喝が、世界を変えた。

 嵐山の消滅と同時に、空から「意思」の気配が霧散したのだ。

 まるで、憑き物が落ちたように。


 光が、世界を満たした。

 雲海が連鎖的に崩壊し、青空が爆発的に広がっていく。

 スカイツリーを覆っていた氷が、宝石のように砕け散り、降り注ぐ。


 工藤は、薄れゆく意識の中で空を見上げた。

 眩しい。目が潰れるほど眩しい太陽。

 そこに、もう<天>の気配はない。

 ただの、物理現象としての美しい青空があるだけだった。


 その光の中に、座布団が一枚。

 その主は、凜と背筋を伸ばし、焼け焦げた紋付き袴を纏ったまま正座していた。

 もう、その身体に命の気配はない。


「三遊亭師匠……」


 工藤は呟き、嵐山に近寄る。

 その死に顔は穏やかな笑みを浮かべていた。

 生涯最高の寄席を演じることが出来たという、満足の笑みだった。


「ありがとう……嵐山」


 工藤の呟きに合わせるかのように、ヒョウと風が吹いた。

 燃え尽きた扇子の骨組みだけが、風に飛ばされていく。

 まるで、天へ昇る龍のように。


 地上。第9居住区。

 通気口から差し込む強烈な光に、さくらが目を細める。

 暖房が止まっていたシェルターの気温が、ぐんぐんと上がっていく。

 人々が泣きながら抱き合う中、さくらは一人、モニターに映るスカイツリーの頂上を見つめていた。


 そこにはもう誰もいない。

 けれど、彼女には聞こえた。

 風の音に混じって、楽しげな三味線の音が。

 

「……お爺ちゃん。上手だね」


 さくらは涙を拭い、太陽に向かって拍手を送った。

 それは、世界を救い、そして世界を「普通」に戻した大名人への、最初で最後のカーテンコールだった。


 彼女の目には見えていた。

 あの青空の向こう、陽炎のように揺らぐ高座の上で、黒紋付の男がニカっと笑って頭を下げている姿が。

 「へっ、お後がよろしいようで」という、照れくさそうな声が。


 風が吹いた。

 どこからともなく、三味線の音が聞こえてくる。

 それは世界で一番陽気で、けれどどこか切ない、伝説の『天気』の出囃子だった。


 それから、半年が過ぎた。


 世界は劇的に、そして静かに変わった。

 スカイツリーの頂上から放たれた太陽光が氷河を溶かし、地球に四季が戻ってきたことは、ほんの序章に過ぎなかった。


 最も大きな変化は、<天>が沈黙したことだ。


 あの日以来、気象庁の観測モニターから「大気圏知性体の脳波」を示す波形が消失した。

 どんなに凄腕のコメディアンが空に向かってジョークを飛ばしても、どれほど精巧なAIが最適化された音波を送っても、空はピクリとも反応しなくなった。

 雲はただ風に乗って流れ、気圧は物理法則に従って上下するだけ。


 科学者たちは頭を抱えたが、特務課の工藤だけは、その理由をなんとなく理解していた。

 あの男が――最後の『天気』が、あまりにも完璧な「オチ」をつけてしまったからだ。

 最高の笑いで空を満足させ、そして「もう構うな」とばかりに、幕を下ろして逝ったのだ。


 人類は再び、天候をコントロールする術を失った。

 台風が来れば備え、日照りが続けば雨を願う。そんな、不便で当たり前の時代が帰ってきた。


 東京、第9居住区跡地。

 復興が進む街角を、さくらは歩いていた。

 ポツリ、と頬に冷たいものが当たる。

 見上げると、灰色の雲から雨粒が落ちてきていた。


 周囲の人々が、慌てて鞄から折り畳み傘を取り出す。

「あーあ、予報外れだよ」

「まったく、今日の天気は気まぐれだなあ」


 誰かが愚痴をこぼす。

 かつてなら、「芸人を呼べ!」と怒声が飛んだ場面だ。

 けれど今は、誰も空に文句を言わない。ただ諦めて、傘をさすだけ。


 さくらは傘を持っていなかった。

 濡れるに任せて、空を見上げる。

 それは、怒りでも悲しみでもない、ただの水滴。

 冷たくて、どこか優しい、天然の雨。


「……あーあ」


 さくらは、濡れた髪をかき上げながら、悪戯っぽく空にウィンクした。

 あの日、スカイツリーのてっぺんで、大好きなお爺ちゃんがしたように。


「お天道様をたくさん浴びたから、一杯の『お茶《雨》』が怖いや」


 彼女の呟きに応えるように、雨脚が少しだけ強くなった気がした。

 もちろん、気のせいだ。空にもう心はない。

 あるのは、美しく、ままならない自然だけ。


「お後が宜しいようで!」


 さくらは弾むように笑って、雨の中を駆け出した。

 世界は元の姿を取り戻した。

 もう『天気』と呼ばれる英雄はいらない。


 ただ、移ろう空と、生きていく人間がいる。

 それだけで十分だった。


《完》


お題「天気」で書いた短編です。

天の気分で天気。まんまですね。

中編にした方がきっと面白かったんでしょうけど、某肉食海産物さんのリクエストでこの形で掲載です!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ