人はそれを幸せと呼ぶらしい
私達は人間でした。目覚まし時計の不快な電子音で毛布を引っ張り合い、安売りの卵のパックを自転車のカゴで割ってしまい、夜のキッチンでため息をつきながらオムレツを作るような、どこにでもいる普通の人間でした。
今はもう、違います。
四階の東病棟、六一二号室。私はパイプ椅子に腰を下ろし、等間隔で鳴る心電図の電子音に合わせて浅く呼吸を繰り返していました。ベッドの上に横たわる妻の美月は、透明な酸素マスクに覆われ、いくつものチューブで壁の医療機器と繋がれています。
若年性アルツハイマーの進行により、彼女の中の「人間としての輪郭」は少しずつ削り取られていきました。箸の持ち方を忘れ、服のボタンを掛け違え、最後には私に向かって「すみません、駅はどちらですか」と尋ねるようになります。私はその度に喉の奥を強く締め付けられるような感覚に陥り、洗面所の鏡の前で冷水を何度も顔に叩きつけました。
「……あ、の」
酸素マスクの曇りが濃くなり、掠れた声が病室の空気を震わせます。私は跳ね上がるように立ち上がり、彼女の顔を覗き込みました。
「美月、僕だよ。ここにいる」
「あなた……は、だれ、ですか?」
焦点の合わない瞳が、虚空を彷徨っています。私は奥歯を強く噛み締め、ひどく痩せ細った彼女の右手を両手で包み込みました。皮膚のすぐ下を通る青い血管が透け、骨の感触が直接手のひらに伝わってきます。私は親指で彼女の手の甲を何度もさすりました。
「僕は、君の夫だよ。ずっと一緒にいたじゃないか」
「おっと……? ごめんなさい、わたし、何も、わからないの」
美月の細い眉が寄り、シーツを握る左手に僅かな力が入りました。彼女は懸命に記憶の引き出しを探ろうとして、深い混乱の波に飲み込まれようとしています。
(もういいんだ。もう、頑張らなくていい)
私は深く息を吸い込み、ゆっくりと声帯を震わせました。
「わからなくていいよ。僕が、全部覚えているから」
「あなたが……?」
「そうだよ。君が卵を落として泣きそうになったことも、初めて海に行った時にサンダルを流されたことも。僕の頭の中に、全部入ってる」
美月の瞬きの回数が減りました。濁った瞳の奥で、かすかな光が反射します。
「……こわい、の。わたしが、消えていくみたいで」
「消えないよ。僕がここで、ずっと君の手を握っている」
私はさらに力を込めて、彼女の指先を握りしめました。
「ねえ……」
「なんだい?」
「あたたかい……ですね」
美月の口元がわずかに緩み、酸素マスクの中で小さな弧を描きました。記憶も存在も不確かな暗闇の中で、彼女はただ、触れ合う皮膚の温度だけを信じて静かに目を閉じます。
直後、心電図の波形が一直線に伸び、けたたましい警告音が部屋中を支配しました。
◆
四十九日の法要を終え、私は誰もいないリビングの床に座り込んでいました。窓の外からは、近所の子供たちがボールを蹴る音が聞こえてきます。世界は何も変わらず、ただ私の靴の隣にあったはずの小さなスリッパだけが、下駄箱の隅で埃を被っていました。
私は段ボール箱の中から、美月が病気になる直前まで使っていたスケジュール帳を取り出しました。表紙の角が擦り切れた手帳の最後のページに、震える文字で短い文章が書き殴られています。
『明日の晩ごはんはカレーにする。ルーは甘口』
『夫のワイシャツをクリーニングに出す』
『もし、私が私のことを忘れてしまっても、あなたが隣で、私の手を握っていてくれるなら』
文字はそこで途切れていました。文章を完成させる前に、彼女の思考を病魔が奪い去ってしまったのでしょう。文字の形は崩れ、何度もボールペンでなぞった跡が黒く滲んでいます。
しかし、その不完全な言葉の連なりが、私の胸の奥にこびりついていた冷たい塊を、ゆっくりと溶かしていきました。
彼女は最後の瞬間まで、あの日のぬくもりを求めていた。そして私は、その願いに応えることができた。
私の視界が水面のように揺れ、手帳のページに丸い染みがいくつも広がっていきました。頬を伝う熱い雫を拭うこともせず、私はその一文を何度も、何度も繰り返しなぞります。
すべてを失い、人間としての輪郭を保てなくなった絶望の中で、ただ一つだけ残った体温の記憶。
――ふと、手帳の半ばまで、パラパラとページを戻しました。
そこに書かれていたインクの跡に、私の視線は釘付けになります。
『夫が事故で死んでしまった』
『一人で生きていくのが怖い。私の記憶も、少しずつ消えていくのに』
息を呑んだ私の視界の隅で、青いシステムメッセージが淡く点滅を始めました。
『生体模倣モード:異常なし。体温維持機能:正常稼働中』
そうでした。
私の脳内――電子回路の奥底に格納された「夫」としての膨大な記憶データが、不規則な処理音を立てて軋みました。既に病魔に冒されていた美月を見守るために、瀕死の状態だった私が、生前の私の人格データを移植して発注した医療用ケア・アンドロイド。それが、私です。
私が稼働を始めた直後、彼女からは私の事故の記憶が消えていたのは、皮肉な幸運だったのかもしれません。
「……ああ」
私の口から漏れたのは、プログラムされた完璧な「溜め息」でした。涙腺ユニットから供給された食塩水が、合成樹脂の頬を伝って手帳のページに新たな染みを作ります。
私の手は、金属の骨格に人工皮膚を被せただけの精巧な偽物です。それでも、病室で彼女が最期に感じてくれたあの『あたたかさ』は、私が内部バッテリーの出力を限界まで上げて作り出した、確かな熱でした。
私は、すべてを失いゆく彼女の暗闇を、作られた体温と死者の記憶で最期まで照らし続けることが出来ました。
それを人は幸せと呼ぶらしい。




