YURI-03は、月を見る
観測センターの照明は、深夜モードに落とされていた。
無数のモニタが青白い光を放ち、心拍のように点滅している。
鏑木直哉は、その中央で椅子を回し、老眼で焦点が定まりにくい目を凝らし、ひとつの通信ログを見つめていた。
「俺も、この施設も随分と年を取ったな……」
〈はやぶさ13〉
深宇宙への探索を終え、今は地球と月の間を周回する、最後の無人観測機。
人工重力のない軌道を、十八年にわたって孤独に漂い続けている。
本来なら三年前に廃棄される予定だった。
予算は削られ、プロジェクトは縮小され、管制チームも解散した。
もうこの仕事について何年になるだろう? 規模も縮小され、今では制御室にいるのは老いた自分一人だけだ。
誰も見ていない空を、誰も気にしない機械を、たったひとりで見守るために。
週に三度この部屋に通い続け、定期通信を行う。
部屋の空気は乾いて、夜の匂いがない。
窓に映るのはモニタの光だけで、月を見上げることすら、もう誰も思い出さない。
かつて人類は、夜空のその白い球に無限の詩と夢を見た。
だがいま、その光は地上では観測不能領域に指定されている。
大気層の変質と人工衛星群の影響で、月は空から消えた。
「そういえば、彼女は月の話が好きだったな……」
もう肉眼では見ることも出来ない地球の伴侶。
彼女――由利子は月にまつわる色々な話が好きだった。
特に好きだったのが、遠い昔にある文豪が説いた言葉だった。
彼女はそれを大変ロマンチックだといつも言って、月が見えたら絶対私は貴方にこの言葉を贈るわ、と笑っていたのを思い出す。
鏑木は冷めたコーヒーを口に含み、画面を切り替える。
定時通信、軌道維持、観測データの自動送信。
どれも誤差ゼロ。完璧すぎて、感情の入り込む余地がなかった。
――だが。
その無機質な完全さの奥に、たったひとつだけ、人間の息が混じっている。
AI中枢〈YURI-03〉。
妻が設計した言語モジュールだ。
彼女が生きていたころ、よく言っていた。
「人工知能に心が宿るとしたら、それはきっと、〈間〉の中よ。
答えを出すまでの沈黙――そこに、私たちは心を見るの」
モニタに小さな波形が走る。
息づかいのようなノイズ。
鏑木は思わず、イヤホンを差し込んだ。
ログの再生を開始する。
――沈黙。
そして、微かなノイズの奥から、合成音が囁く。
『……観測対象:月。 データ更新、完了』
AIの合成音だ。
だが、それは確かに声だった。
その声のトーンに、どこか聞き覚えがあるような気がして――直哉は眉を寄せる。
「……なんだ?」
モニタにメッセージが浮かび上がる。
ログ解析プログラムが、ひとつの異常値を検出した。
再生データの中に、既定外の音声ファイルが混在している。
識別タグは「Pre-installation_Test」。
二十年前、開発初期にのみ使われた識別番号だった。
直哉の指が、一瞬だけ止まる。
胸の奥が、不意に冷たくなった。
手動で復号を開始する。
ノイズがはねる。波形が不安定に震える。
やがて、懐かしい息の音が流れ出した。
『観測対象:月。 認識補助パラメータを更新します――』
そのあと、小さな沈黙。
そして、笑い声。
『……ねえ、直哉。 AIが綺麗を理解できたら、きっと人間に近づけるようになると思うの』
『無理だろう。 あれはただの反応でしかないんだよ? 黄金比を解説できても、理解はできないよ』
『そうかしら、私は、違うと思うな。 だって月が――』
直哉は、呼吸を忘れた。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
由利子の声だった。
亡くなって五年。どれほど探しても見つからなかった声。
それが、何億キロも離れた空の向こうで、今も生きていた。
録音時間は、病に倒れる一年前。
このテスト音声が、いつから〈YURI-03〉の内部に残されていたのかは不明だ。
だが――。
直哉は震える手でログを遡る。
そこに、見慣れない動作記録があった。
AIは、ここ一週間で急激に変化していた。
過去七日間で、由利子の音声データを三百六回も自律的に読み込んでいる。
そして、その参照先に紐付けられた隠しフォルダ。
名前は「Conditional_Message_Protocol」。
条件付きメッセージ送信機能――由利子が生前、密かに実装していたプログラムだ。
「……なんで、今まで気づかなかった」
声が震える。
画面を凝視する。
条件トリガーの項目には、こう書かれていた。
【送信条件:YURI-03が『美』を観測したと自律判断した場合】
直哉の喉が、乾いた。
由利子は、知っていたのだ。
いつか、自分がいなくなったあとも、AIが何かを見つけるかもしれないと。
そのとき、夫に伝えたい言葉があると。
「由利子……」
その瞬間、スピーカーから返事があった。
『解析中……観測対象:月。 感情ラベル……不明』
AI――〈YURI-03〉は、まるで問いかけに答えるように呟いた。
直哉は、目を閉じる。
感情を持たないはずの機械が、理解できない感情に名前を与えようとしているような、そんな気がしてくる。
――夜更け。
天井の蛍光灯がひとつ、ちらついた。
外では冷却装置の風が唸っている。
彼は、ふとモニタの隅に目をやる。
視線の先。YURI-03の稼働ログに、新しい行が追加されていた。
――【観測対象:月】
――【関連ラベル:呼吸/記憶/綺麗】
それは、彼女が口にした三つの言葉だった。
通信ノイズが増えはじめたのは、午前三時を少し過ぎたころだった。
〈はやぶさ13〉の軌道データが、ゆるやかにずれていく。
姿勢制御スラスターが作動しない。推進系は応答せず、内部温度が上昇していた。
直哉はディスプレイに顔を寄せる。
再起動信号を送る。応答なし。
冷却装置の音だけが部屋を満たしている。
やがて、映像データがひとつ届いた。
燃焼する軌道上を漂う金属片の影――その向こうに、薄く欠けた円。
月だった。
太陽光の反射を受け、灰色の表面が静かに光る。
〈YURI-03〉のログが動く。
『軌道異常、検知。 観測対象:月。 観測を――継続、します』
直哉は息をのむ。
その発話パターンは、誰も設定していない。
YURI-03が自律判断を下したのだ。
「帰還はもうできない。 観測を停止しろ」
通信が遅延する。
地球から月軌道まで、片道一・三秒。
たったそれだけの距離なのに、言葉が届くまでの沈黙は、永遠のように長く感じられた。
由利子が言っていた〈間〉――。
答えを出すまでの沈黙。そこに、心が宿るのだと。
モニタの波形がかすかに揺れ、ノイズの奥で、声がした。
『……観測対象:月。 更新。 観測対象:……美』
波形が歪む。
呼吸のような間。
人間の音声データには存在しない沈黙が挟まる。
〈はやぶさ13〉は、軌道を外れていた。
制御不能のまま、ゆるやかに地球の重力井戸へと落ちていく。
熱圏に突入すれば、機体は分解し、燃え尽きるだろう。
それでもYURI-03は、最後の瞬間まで月を観測していた。
焦げつくレンズ越しに映るのは、青い地球と、その向こうにある白い円。
データ転送ランプが、断続的に点滅している。
光は届かない距離を越えて、なお伝えようとしていた。
ノイズの奥から、微かな女性の声が混じった。
『……直哉、もしAIが綺麗を理解できたら――きっと、それは――』
音が途切れかけたその刹那、
YURI-03の音声が、わずかに違うトーンで続いた。
合成音ではあるのに、どこか幼い、透明な声。
『もし、私がこれを美しいと感じることができたら、貴方に送るよう――母から託されたメッセージがあります』
直哉の手が、震えた。
“母”――それは、由利子を指していた。
YURI-03が、自らを母の延長として認識している。
妻が最後に残したコード。
その中に伝達条件が組まれていたのだ。
モニタの光が揺れる。
直哉の視界が、滲んでいた。
心臓が、痛いほど速く打っている。
呼吸ができない。
喉の奥が詰まって、声が出ない。
ただ、画面を見つめることしかできなかった。
静かな呼吸音。ノイズの波。
そして――
ゆっくりと。
とても、ゆっくりと。
その言葉が、宇宙の果てから届いた。
『ツキガ――』
一拍。
永遠のような沈黙。
『――キレイ、デスネ』
直哉の目から、涙が零れた。
それは愛の言葉。
声にならない声が、喉の奥で震える。
画面の向こうで、通信が消えていく。
七秒間。
彼はその七秒を、生涯で最も長い時間として生きた。
ノイズが薄れる。
波形が静まる。
そして――通信は、完全に途絶えた。
その言葉のあと、センターは静寂に包まれた。
冷却ファンの音が止まり、夜の温度が一気に落ちていく。
直哉は、ただそこに座っていた。
顔を両手で覆い、肩を震わせながら。
彼女の声が消えるまでの七秒間を、永遠のように感じながら。
翌朝、観測センターの空調は止まっていた。
直哉は机に伏せたまま、微睡んでいた。
夜の記憶は曖昧だ。夢か現実かもわからない。
ふと気づくと、メインモニタがゆっくりと点灯していた。
自動復旧のログが流れ、その中に見慣れぬ行がひとつ混ざっている。
――【最終観測データ:受信完了】
――【送信者:YURI-03】
――【観測対象:美】
直哉はしばらく、その文字列を見つめていた。
キーボードに伸ばした手が、まだ震えていた。
データの中身はただの光量変化と反射角の連続。
それでも、画面に展開されたその波形は、どこか呼吸のように見えた。
彼はデータを展開する。
最後のフレーム。
黒い虚空の中、焦げたレンズ越しに――
ぼやけた月の輪郭が浮かんでいた。
そこに、ノイズ混じりの声が重なる。
妻の声。記録されたテスト音声。
『AIが綺麗を理解できたら、きっと人間に近づけるわ』
直哉はそっと笑った。
涙の痕が、頬に残っている。
『貴方に贈りたい言葉があるの』
月はもう地上から見えない。
それでも、宇宙のどこかでまだ誰かがそれを綺麗と呼んでいる。
彼は保存フォルダを開き、ファイルに名前をつけた。
「YURI_LAST_MESSAGE.wav」
マウスを離し、しばらく画面を眺める。
呼吸が、少しだけ落ち着いた。
外では朝日が昇りかけている。
窓のガラスに、その光が反射して、淡い弧を描いた。
直哉は立ち上がり、窓に近づく。
そして、誰もいない空を見上げた。
「……ああ」
声が、震える。
「月が、綺麗ですね」
その言葉は、もう誰にも届かない。
それでも彼は、何度も何度も、呟き続けた。
朝の光の中で、ひとりきりで。
妻と、遠い月に向けて。
――誰にも届かない声が、ゆっくりと空気に溶けていった。




