最後の一粒
冬の風は、狭い路地を抜けるたびに刃のように細く尖った。暖簾はその度にふわりと持ち上がり、しんとした店内へ冷気をひと匙だけ運びこむ。
ここは無愛想な初老の大将が一人でやっている、ざっけない街の寿司屋だ。
白木のカウンターは、長年の布巾の軌跡でやわらかく艶を帯び、湯気と酢の香りを薄く吸っている。壁際では小さなストーブが乾いた金属音をときどき鳴らし、火屋の内側で橙色の炎が猫のように丸く身じろぎした。出汁の鍋が微かにコトコトいって、湯気が灯りをやわらげる。
暖簾がまた持ち上がり、老女が入ってきた。背丈は小さく、黒いコートの襟を喉もとまで詰め、手提げには毛糸の手袋が覗く。
初めての客だな、と大将は思う。
彼女が席に腰をおろす所作は軽いが、骨のきしみが内側でそっと鳴ったように見えた。カウンターの内側で大将が布巾を絞り、台をすべらせる。節目に沿って布が音を立て、拭き終えた面は水気を飲みこんでさらりと乾く。
「らっしゃい」
「……いくら丼を。小でいいわ」
彼女の声は細いが、芯があった。大将は返事を短く、炊きあがったばかりの酢飯を飯切からしゃもじでふわりと起こす。米の肌は白磁のようで、ひと粒ひと粒がたしかに立っている。茶碗の底に最初の一匙を落とし、空気を含ませるようにゆっくり重ねていく。
桶の隣で、醤油に浸した鮭の卵が小さな湖のように揺れた。赤い球の膜が灯りを抱いて、奥から光る。小さな杓で掬えば、粒はころころとぶつかり合い、かすかな鳴き声のような音を立てる。海苔を細く刻んで散らし、わさびを隅に、最後に赤い粒を山の稜線みたいにふくらませて盛り上げる。
丼が老女の前に置かれると、彼女は手袋を外し、両の手を茶碗の温かさでそっと温めた。湯気は白い指の間をすり抜け、顔の皺の谷をやわらかく照らす。
箸をとる。米の上で粒が少しころんと転がり、光が動く。老女はひと口、ゆっくり口へ運んだ。薄い膜が舌の上で破れて、海の匂いが広がる。酢飯はやさしく温かく、海苔が香りの縁を結ぶ。
ふた口、み口。食べ進めるたび、肩の力がほどける。やがて器の底が見えはじめると、老女は箸先を止め、赤い粒をひとつ残して、静かに丼を押しやった。
――その夜はそれで帰った。暖簾が揺れて、外はまた刃のように寒い。
翌晩も、老女は来た。
同じ席、同じように手袋を外し、同じように丼を受けとる。ひと口ごとに目を細め、最後に一粒を残す。
また翌晩も、その次の晩も。
残される一粒は、いつも同じ場所にいるわけではない。器の縁でちょこんと震えたり、海苔の影に半分身を隠したり、白い米粒に抱かれていたり。けれど必ず、一粒だけが、灯のように残る。
茶を差し出しながら、大将は心の内で小さく問うた。
(なぜだろうな……どうして一粒だけを置いていく?)
訊ねようと思えば、いくらでも機会はあった。けれど、問いは熱い茶の湯気でいつもほどけてしまう。人の話は、出汁の火と同じで、沸点を急がせるものじゃない。
日が二つ、三つと過ぎるごとに、老女の頬は少しずつ色を取り戻し、肩の丸みも心持ちふくらんだ。コートの襟は少し下がり、首もとに細い銀の鎖が光る。
ある晩、丼の底が白くのぞき始めたところで、老女は箸を置き、器を両手で包んだ。ストーブが小さく鳴って、外を風が通る。
「……もう、これで来れないわね」
大将は手を止めた。布巾からしみた温もりが指の腹に残る。
老女は、丼の底に残した一粒を見つめて、やさしい顔で笑った。
「一粒だけ残してね、また来ようって願をかけていたの。今日食べきれなければ、明日も生きて、もう一度ここへ来なさいって、自分に言い聞かせるみたいに。……変だわねえ」
笑い声は小さく、けれど店の木目に吸われず、まっすぐ届いた。
老女は続けた。
「ずっと一人でやってきたのよ。黙ってると、声って小さくなるのね。ごはんの味も、だんだん薄くなる。でもここは、米の匂いがして、湯気があって、音がある。……それで、もう来れないって、今夜は言いに来たの」
大将は黙って頷く。声を急がせない。
老女は、丼の底の一粒に視線を落としながら言った。
「孫がね、言ってくれて。『一緒に住もう』って。私の部屋の鍵も、一緒に持って歩くって。あの子、朝が早いから、もう夜ふらりと出てくるのはやめなさいって。……だから」
だから、と言葉はそこで細くなった。
老女は箸を取り上げ、震えの少ない手つきで、残った一粒をつまむ。ゆっくりと口に運ぶ。
薄い膜が静かにほどけ、塩の甘さが舌でやわらかく広がる。その味は、ここに通った夜の数だけ重なる記憶に似て、温かく、少し、しょっぱかった。
器は空になった。老女は目を閉じ、ひとつ深く息をついた。
「……ありがとね。おいしかったわよ。もう、大丈夫」
大将は冷蔵庫から小さな杓を取り、いくらの湖面を静かに掬った。赤い粒が三つ、四つ、杓の内側でころころと触れ合う。ひとつだけを選び、白い器の底にそっと落とす。
コロン、とやさしい音がした。灯りが粒の内側でゆらぎ、底に小さな赤の月が生まれる。
「ほら」
大将は丼を老女に押し戻し、いつもの短い太い声で言った。
「これで、また来れるな。今度は、お孫さんと一緒にな」
老女は顔を上げた。目じりに湯気の反射がやわらかく光る。
彼女は深く頭を下げ、手袋を両手にはめ、立ちあがる。コートの襟を整える指先に、先ほどより少しだけ張りがあった。
暖簾が持ち上がる。外の空気は冷たいまま、けれど背筋はまっすぐに伸びている。白い息が二度、三度、路地にほどけた。
「ありがと。きっとまた来るわ」
カウンターの内側で、大将はまた布巾を絞った。木目をなぞる布は、さっきよりも軽い音で走る。
「……毎度あり」
火屋の中で炎が小さく丸まり、出汁の鍋がコトンとひとつ鳴った。
空になった器の底では、赤い一粒が、店内のすべての温もりを小さく集めるように、静かに光っていた。




