約束
◆前編-約束
――ひと目あなたに会いたくて、長い長い坂を上る。
賑やかな繁華街。誰も私に目を合わさない。
視線を合わせようとしても、通り過ぎていくだけ。
私、何か悪いことをしたのかしら。それとも変な格好をしているのかな?
大きな交差点。信号が変わっても、隣に立つ人は私を見なかった。
どうして私を無視するの?
風が吹き抜け、髪が頬にかかる。その感触だけが確かだった。
歩きながら思い出す。
あの日のあなたの嬉しそうな顔。
「見つけたんだ、君にぴったりの詩集を」
本を胸に抱いて、子どものように輝いていたあなた。
「君に読んでもらうために買ったんだよ。きっと気に入ってくれる」
「今度の土曜日、時間ある? 一緒に読もう」
あなたの笑顔が、心に焼きついている。
ひと目あなたに会いたくて。
長い坂を上り切る。
今日、約束を果たしに来たよ。
遅刻してしまったけれど。
ほら、見えた。馴染みのある家。
窓から温かい光が漏れている。
そっと覗き込むと、あなたがいた。あなたとあなたの家族の小さな黒猫。
名前はクロエだったっけ。
机の上に、小さな写真立て。
その前に開かれた詩集。
あなたは静かに声に出して読んでいた。
「『湖面を渡る風は、緑色をしていて歌のように軽やかだった』……君もこういう詩が好きだったよね」
写真に向かって、悲しげに微笑む。
「一緒に読めたらよかったのに」
――写真に写っていたのは私。
あなたと並んで笑ってる。
「ほら、ここにいるよ。ねぇ私、ここにいるんだよ!」
でもあなたには聞こえない。
「君なら、この行をどう読むかな」
指先でそっと文字をなぞるあなた。
私も同じ文字を目で追った。
同じ言葉を、同じ時に。
あなたは振り返った。
私の顔を見るように。
でも視線は私を通り抜けて、空を見つめている。
ふと、彼の足もとで小さな影が動いた。
黒い猫。
琥珀の瞳が私を見上げた。
ネコは時々、何もないところをじっと見ていることがある。
ああ、そうなんだ。
あなたたちは、これを見ていたんだね。
いつものように、何もない空間を見つめている。
いいえ、何もなくない。
――私がいる。
私は彼に微笑みかける。
その微笑みが彼に届くことはもうないのだけれど。
「ずっと大好きだよ」
私は彼に言葉を投げかける。
その言葉が彼に届くことはもうないのだけれど。
と、ふいに、黒いネコがにゃあ、と鳴いた。
私をじっと見つめて。
うん、そうだね。
できることなら彼に伝えて。
わたしは約束を果たしに来たよって。
ずっとずっと大好きだよって。
◆後編-にゃあ
にゃあ、と私は鳴いた。
その声にふたりが顔を上げ、視線が交わる。
ほんの一瞬。けれど、確かに互いを見ていた。
――がらんとした、誰もいない空き部屋。
でも、その時、私の目には二つの風景が重なった。
むかし、ご主人とわたしが暮らしていたころのあの部屋。
まだ家具も片付けられていない、がらんとした空き部屋。
ネコの目は昔と今の両方を見ることができる。
詩集を囲み、声を重ね、笑い合っていた記憶の部屋。
そして今の、がらんとした空き部屋。
家具が残っているだけの、誰の気配もない現実。
ご主人が死んで、もう随分経つ。
あの人がなくなって、すぐのことだ。
ご主人は花が枯れるように生きる力をなくしていった。
――それからしばらくのこと。
ご主人は、その影はこの部屋に現れるようになった。
ご主人は悔恨を重ね、この部屋から動けずにいる。
写真立ての前に座り、詩集を広げ、声に出して読む。
返事がないことを知りながら、なおも毎日。
そこに、あの人がやってきた。
白い指で文字を追い、柔らかく微笑んでいる。
きっと自分の死をまだ信じられないのだろう。
でも、もう苦しみから解き放たれている。
その姿は透けるように淡く、けれど確かに目の前にあった。
生きているのは、この小さな私だけ。
写真立ては動かず、詩集は閉じられたまま。
声など、どこにも響いてはいない。
「にゃあ」
わたしは小さく鳴いて、二人の注意を引いた。
二人の視線がわたしを通して交わり、お互いを認識する。
「え?」
「え?」
驚く二人の声が重なった。
「会いたかった! 君に、ずっと!」
「約束を果たしに来たの!」
二人はゆっくりと近づき、きつく抱きしめ合う。
二度と離れることがないように。
私にしか聞こえない会話だけれど、確かに聞こえた。
――本当は、ご主人を渡すのは悔しい。
私を撫でてくれる手は、もうこの人しかいなかったのだから。
でも、それが一番いいことだとわかっている。
二人は、ようやく約束を果たせるのだから。
――今私の目には二人が並んでいる。
同じページを覗き込み、静かに微笑んでいる。
もう悲しみはない。
もう一人ぼっちじゃない。
ふたりとも、ずっと一緒。
ふたりは抱き合った。
温かい光に包まれて。
やっと、本当にやっと、一緒になれた。
にゃあ。
それは誰にも届かない声。
けれど、これでいい。
二人はやっと一緒になれたのだから。
私はただ、その傍らに生きている。
さよなら、ご主人さま。
わたしは最後に、また小さくにゃあと泣いたのだった。




