イクラ宇宙論
私はイクラが好きだ。
この季節、秋鮭からとれたばかりのイクラをのせたいくら丼なら、いくらでも食べられる。会社帰りの私にとって、屋台寿司の暖簾をくぐり、それを注文する瞬間は、一日のご褒美のようなものだった。
――今日は星が綺麗だ。
屋台の寿司屋は、こんな風に空が見えるのもまた醍醐味だと思う。
その日もカウンターの端に腰を下ろすと、隣には先客がいた。五十を越えたあたりか。よれた背広の襟は黄ばんで、指先は酒に焼けて赤く膨れている。頬は落ち窪んでいるのに、眼だけは異様に冴えていた。
なんだろう、危ない感じがする。あまりお近づきにはなりたくないな、と思いながら着丼を心待ちにイクラ丼を大将に注文する。
「大将、イクラ丼一つ! 大盛りで!」
「あいよー!」
――とその瞬間、男の目が私を捉えた。
なんだ? 何か気に触ることでもしてしまったのか?
やがて私の前に、山盛りのイクラ丼が置かれる。ほの暗い照明に照らされ、透明な橙の粒が星座のように瞬いていた。
勢いよく置かれた丼から、一粒のイクラがポロリと落ちる。
その時だ。隣の男がふいに口を開いた。
「君は知ってるかね。イクラ一粒が、ひとつの宇宙だということを」
冗談だと思い笑いかけた。だが、男の目は真剣だった。
「宇宙はなぜ球体か。エネルギーは常にいちばん楽な形へ収束する。それが球だ。水滴も、卵も、星も。……すべては重力と表面張力の法則に従っている。イクラも同じ原理でできている。なぜなら、宇宙と同じ仕組みだからだ」
へりくつめいた理屈を並べながら、男は箸先で落ちたイクラの一粒を摘み上げた。
「見ろ。この薄膜。これは単なる皮じゃない。宇宙論で言うブレーンだ。次元を仕切る境界だよ。破れれば内部は崩壊し、噛み潰す一瞬はちいさなビッグクランチになる」
くだらない。そう言いかけて、私は言葉を失った。
男の声には酔いといよりも、狂的な熱がこもっている。私はその熱に圧されるように僅かに男から身を引いた。
「魚は川をさかのぼって産卵する。あれは回帰の儀式だ。海という外宇宙から、川という始原に戻って宇宙を産み落とす。イクラはその縮図なんだ。数え切れぬ宇宙が、こうして一度に放たれる」
額に汗を浮かべ、手を震わせながら、それでも視線は丼から離れない。
「顕微鏡で覗けば細胞にしか見えない。だが真理を知って覗けば銀河が広がる。お前も見てるがいい」
男の勢いに押され、私はイクラを一粒つまみ上げた。
つやつやと輝くイクラを、思わずのぞき込む。
――光を透かした橙の奥に、赤い雲が渦を巻いていた。星間ガスのように輝き、銀河の腕のように延びていく。
呼吸を忘れる。そこには確かに、極小の宇宙があった。
「どうだ。見えるだろう」
男は低くささやく。
「スプーンを入れるたびに、幾千の銀河が滅びる。人間はずっと、知らぬまま宇宙を食べ続けてきたんだ。寿司屋の大将も、神さえも気づいちゃいない」
丼の表面がざわめいた。橙の粒々が星々の群れに見え、たゆたうたびに無数の囁きが泡立つ。悲鳴か祈りか判然としない声が、頭蓋を震わせた。
笑い飛ばそうとした。けれど喉は乾き、声が出ない。
私はただ仕事帰りにイクラ丼を食べに立ち寄っただけだったのに、いつの間にか男の狂気に呑まれていた。
私は曖昧な笑いを浮かべながらも、せっかく注文したイクラ丼にスプーンを差し込む。食べるとプチプチという食感と共に口いっぱいに広がる芳醇な旨み。
ああ、やはりイクラは素晴らしい。
が、その時、気づいた。
空に、銀色の影が落ちている。
それは、巨大な、スプーン。
男が驚喜の表情を浮かべ、空を見上げた。
スプーンは、ゆっくりとこの世界に降りてくる。
銀河をすくい上げるほどの大きさで、冷たく光りながら、それは私たちの世界に迫ってきていたのだった。
スプーンはあっという間に視界一杯に広がり、そし――。




