見知らぬままの私へ
「おはようございます」
朝の通所先で、スタッフが声をかける。
真白は軽く会釈した。
この「おはよう」が、まだ少し浮いて聞こえる日もある。
でも今日は、胸の奥で「届いた」感覚があった。
週に数回通うこの場所は、回復期の人たちが集う場所だった。
年齢も背景もバラバラな人たちが、手作業をしたり、お茶を飲んだり、ときどきぽつりと話をしたりしていた。
真白は、少しずつここで人と向き合う練習をしていた。
***
その日、初めて「自己紹介ゲーム」が行われた。
紙に「いま、わたしが好きなこと」を書いて、輪になって回す。
「こんなの書けないかも」と思っていた。
でもふと、手帳に書いたばかりの一言が頭に浮かんだ。
「陽だまりの中で目を閉じると、心が少し溶ける」
真白はそれをそのまま書いた。
誰にも伝わらないかもしれない。
けれど、今の自分がたしかに感じたこと。
隣の席にいた女性が、紙を見て、ふっと表情を緩めた。
「なんか、わかるかも」
そうつぶやいたその声が、遠くで鳴っていた風鈴の音のように、胸に残った。
***
家に帰って、真白はふと鏡を見た。
鏡の中の自分は、以前より少し穏やかな顔をしていた。
けれど、まだ「見知らぬ誰か」のようにも見える。
「わたし、誰なんだろう」
そう問いかける日々は、終わってはいない。
でも――
「誰だかわからないままでも、一緒にいてあげよう」
そんな気持ちが、最近は少しだけ生まれてきた。
***
夜、ベッドに横たわって、真白は手帳を開いた。
今日のページに、こう記す。
「わからないままの私を、好きになろうとしている」
「それはたぶん、始まりの感情」
***
世界は、完全には戻っていない。
でも、欠けたままの風景のなかに、小さな光があることを、真白は知りはじめている。
見知らぬままの私。
それでも、生きている私。
そうして今日も、新しい一歩を重ねていく。