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さようなら、が好き

作者: よん

「ねぇ、田中さんはさ、人が一番人にやさしくなれる瞬間って、いつだと思う?」

 教室の花瓶の花が凛と咲いている。

 日も長くなった夏の日。

 今日は日直だからと朝早くから学校に来ていた。教室には私ともう一人の日直である斎藤君だけ。そんな二人だけの静かな教室で斎藤君は唐突にそんなことを私に尋ねてきた。

 普段は接点などない彼からの質問に驚きながらも視線を向ける。

 彼は、自分の座席である窓際の一番後ろの席に座り、空のどこか遠くを眺めていた。

 彼の問いかけに合わせたはずだったピントが、シャッターチャンスを定められないまま徐々にぼやけていく。

 彼の横顔だけでは質問の意図を読み取れない。私はとても緊張していた。だってあの人気者の斎藤君だもの。

 人が一番人にやさしくなれる瞬間なんて考えたことないし…。

 こんな時、いつも斎藤君を囲んで楽しそうに話している江口くんなら「え?そりゃ、可愛い子が目の前にいたら今までの何十倍も優しくなるでしょ。」とか、冗談交じりに答えてみせるのだろうか。

 私には到底見切り発車の発言などできそうにない。

 斎藤君は私の答えを待っているようにも見えるし、何も考えずに空を見ているだけにも思えた。

 私はこの沈黙から早々に根をあげた。

「…えっと、人に親切にしてもらった時とか、かな。ほら、人にやさしくしてもらえば、自分もその人にこれまでより親切にしたり親身になろうってやさしくなるんじゃないかな。」

 なんとか思い浮かんだ言葉を懸命に紡ぐ。

「そっか。じゃあ、相手によってやさしさは変わるってこと?」

「…そう、なるかな。自分に嫌なことしてくる人にやさしくしたいとは思えないし…。」

「なるほどね。」

 彼は納得がいったのかいってないのかわからないようなトーンの声でそう言った。そして続く沈黙と、一向にこちらを向こうとしない視線に私の焦燥感だけが大きくなっていく。

 この場所が、後数分もすれば騒がしさで溢れかえる教室だという感覚さえ、この静けさの中では忘れてしまいそうだった。

「…正解は、どんな時、なの?」

 その静けさから先に根をあげたのはやっぱり私だった。

 ぴんと張った空気に、弱弱しく発した私の声がはねる。この空気感にあてられて早くなった鼓動までもが彼に伝わってしまいそうだ。

「正解なんてないよ。その人が思ったことが正解なんだ。つまり、これといった正解はないってこと。」

 彼は窓の外を見つめながらそう言った。

 なんとも曖昧な返事だと思った。私だけが変に警戒しているからだろうか、彼が何を言いたいのかを探って投げかけたはずの言葉で進歩どころか益々分からなくなっている。

 私は彼と同じように窓の外を見た。今日は晴天だ。雲一つない青い空がどこまでも続いている。綺麗だと思う。しかしそれだけだ。

晴れ切った空の他には何も見当たらない。斎藤君がそんなに見つめる何かがあるようには思えなかった。

 空の青さが緩やかな風にのって教室の色にまで移り込んでいる。

 ミーン。ミーン。

 夏の音が私の耳に入ってきた。今見ている光景で夏という題名の写真がとれそうだ、と思う。きっとそれは、斎藤君という人物もふくまれて感じる夏だった。

 そんなことを考えていると、彼が、大きく伸びをしているのが横目に入ってきた。

「今日はまた一段と暑くなりそうだよな。」

「…うん、そうだね。」

 そう答えてからはっとした。横目に映った彼に違和感がある。

 そっと、彼には気づかれないように眼球だけを彼の方に動かす。

 あんなにこちらを向こうとしなかった目線が、今度ははっきりと私の姿を捉えている。

 彼は私の方をまっすぐ見ている。

 私を見ている。

 そう思うと、今朝見つけたおでこにできたた大きなにきびが急に恥ずかしくなって、慌てて風に飛ばされてしまっていた前髪を必死に指で呼び戻した。

(ばさっ)

 教室にさっきよりも勢いよく風が入ってくる。

 風が彼の髪を揺らし、そこから名残惜しそうにその周りを泳いで下降していく。

 長いまつげがぎっしり敷き詰められた大きな瞳から、すぐにでも風と一緒にここではないどこか遠くに飛び立ってしまいそうな、そんな感じがした。

 スポットライトが彼にあたる。

 彼の周りだけが急に特別な何かになったみたいに思えた。こんなシーン、誰が見ても主役の演出だ。そう思った頃にはもう、自分の前髪なんてどうでもよくなっていた。

「そろそろ真面目に仕事しなくちゃね。」

 そういって彼は椅子から立ち上がると、「職員室に日誌とってくる。」といって早々と教室から出て行ってしまった。

 取り残された私は、しばらくあっけにとらわれていたが、すぐに持ち上げようとしていた花瓶をやっと手にもった。そして花瓶の水を変えるため、私も教室を出て水道に向かう。

 だれもいない教室にまた静寂が訪れる。

 変わらず残るのはあの広い空だけだった。


 一時間目の国語の授業が始まり、私は自然と今朝のことを思い返していた。

 あの後は、二人とも日直の仕事を黙々としていたため、彼との話はあれっきりで終わってしまった。そのためか、私の中にはまだうまく呑み込めない気持ちが残っていた。

 彼は私に何を言いたかったのか。そもそも質問の意図だってよく分からないままだ。

 人が一番人にやさしくなれる瞬間かぁ。

 彼は、その質問に答えはないと言っていたけれど、彼自身はどんな考えをもってあの質問をしたのだろうか。

 非の打ちどころのない彼を表す言葉といえば、文武両道、眉目秀麗。誰から見ても彼はクラスの中心的人物だ。

 だから、決して彼が約二か月前に転校してきた転校生だとは想像もしないだろう。

 始めは彼の優れた容姿に惹かれて人が集まった。そして、次第に周囲がはやし立ててもそれを鼻にかけない彼の内面に心を完全に動かされていく。

 彼は、あっという間に見かけだけでなくその内側からも人を引き寄せる存在になった。

 そんな彼ならあの質問に対してどんな答えを持つだろう。

 ふと外の空に目を向けた。誰もが一度は手を伸ばしてしまいそうな空の青さに目が離せなくなる。

 なぜだろうか。

 あの質問に対しての彼の答えはこれから先も知ることはできない気がした。それに、その答えを知れたとしても、今朝のあの緊張感のある雰囲気には二度となりたくないというのもあった。

 そうだ。それならいっそ、彼の答えを想像してみようか。

 私は、開いただけでろくに黒板の文字を写していなかったノートの一番後ろのページを開いた。そのページの隅から自分の想像したことを書きだしていく。

 噂によれば斎藤恭介という人物は、今までに家族の仕事の都合で何度も転校を繰り返しているらしい。

 今までの転校先でも良好な人間関係を築いていただろう光景が今にも鮮明に想像できてしまう。

 誰からも好かれる彼なら、きっと誰に対しても優しさをもって接してきたはず。そのためには少なからず努力だってしてきたことだろう。

 努力?

 彼は、今の自分を努力して創っているのだろうか?

 彼ほどのすぐれた容姿ならば、すこし性格に難があっても近寄ってくる人間などいくらでもいるだろうに、それだけでは不十分であるかのように周囲を虜にしていった彼の今まで姿がフラッシュバックする。

 これまでは、彼の周囲にいる人間が彼に執着しているように見えていたのに、逆に彼が周りに執着している結果が今の状況をつくり出しているのではないかと思えてきた。

 彼が今の自分の立ち位置を望んでいなかったら、こんな短期間でクラスの中心人物になるのは極めて困難だ。彼がなるべくして今にいたっているのなら、とてつもない執念だ。

 彼はきっと人に執着しているんだ。

 誰にも知られない、自分の頭のなかにしか存在しない考えであることをいいことに、私の想像はどんどんとエスカレートしていく。

 彼が人に執着しているのにはなにかきっかけがあるはずだ。

 例えばそう、過去に最も身近な存在だった人に裏切られた、とか。そこから彼は人との関わり方を変えた。誰も自分を裏切らないように、裏切ることができないように、誰からも好かれる存在になりきり、周囲をコントロールしていく。

 人が一番自分に優しくしてくれる「自分」を創り上げたのだ。

 それに、転校し続けているのにも違和感がある。別れを利用して、人に自分の存在をより刻み込もうとしているのか。

 誰からも好かれる人物の正体は、自分の欲を満たそうとする歪みの塊だった。そんな彼が行きつく先は…。

 私の想像は、気づけばノートの端にはおさまらないくらいに広がっていた。

 胸が高鳴っているのを感じる。

 私は、彼を勝手に弱みのある悪役に解釈してワクワクしていた。

「では、今日はここまでにします。先ほど出した宿題は次回の授業までにやってきてね。」

 先生の声がまともに聞こえてきた時には、もう授業の終わりが告げられていた。

 私は50分という授業のほとんどを使って彼のことを想像していたことになる。あわてて黒板の文字をノートに写そうと試みるが、すでに黒板を消す係の生徒が文字を消し始めたところだった。

 先生が教室から出ていく。

 先生が出ていった教室は、我慢していたものが一気に弾けたように騒がしくなる。

 教室の空気が変わった。徐々に私の良く知っている空気間にまかれていく。

 それと同時にさっきまでの高揚感が嘘だったかのようにどこかに溶けて消えてしまった。

 私はその雰囲気を察知し、まぶしくなった光の強さに反射するように、机の横にかけていたかばんから一冊の本を取り出し読み始める。

 私は今、本を読んでいるから一人でいるという人物になりきっている。

 一人は嫌いではない。むしろ一人になりたい時のほうが多い。昔から人と話すのが苦手だった私の性格は、そのままか細い声色に変わり、本音を語れない言葉に変わり、そして自分を守るのに必死な態勢に変った。

「田中さんといると、自分だけ必要な時に利用されたいる感じがする。」

 中学のクラスメイトに言われた言葉を思い出す。私は、彼女に与えてもらうだけの受け身態度で、彼女に何かを与えられる存在にはなれなかった。

 一度貼られた「空気の読めないやつ」というレッテルは、波のような速さでクラス中に伝わった。誰もが無関心ではいられないのが教室という空間特有の常識であったのだ。

 みんな私から少しずつ、そして着実に離れていった。

 人とわだかまりができるたびに、早くクラス替えの時期になればいい、早く卒業したい、早く関係を断ち切ってしまいたい、そう思うようになった。

 この教室という場所は、一人でいる私を「ぼっち」扱いしてくる。一人の時間がすきなのに、そんな自分の姿がみじめに思えて、誰かがそんな私を見てあざ笑っているのではないかと恐怖する。

 飲み込まれてはいけない。

 この二酸化炭素を信用してはいけない。飲み込まれてしまえば最後、自分が見えなくなってしまう。

 そう思うようになった日から私は必ず本を読むようになった。本を読んでいれば、周りが少しだけ気にならなくなった。

 しかし、本の文字を目で追っていても、段々と目線は机の木目をたどって、下に、また下にと下がっていく。

 ひとりが好きだった自分を嫌いにさせる空気感が私の頭を重くさせていた。

 はたから見たら惨めに映っているだろう自分の姿を想像するのが恐ろしかった。

 そうだ。

 机の下から空が見えればいい。そうしたら、見えてくるのは肩身を狭めた自分ではなく、どこまでも続く、すべてがどうでもよくなるような空だったらいい。

 空を飛んでいく鳥を目で追いながら、「ねぇ!私も連れてってよ!」なんて叫んじゃってもいい。

 思えば、自分の想像だけが「自分の存在」を明確にしてくれた。

 自分の頭の中でだけなら誰の目も気にせず、好きなだけ一人でいられる、すきな自分でいられた。

 これがいわば現実逃避の類でもよかった。

 それは、私を幸せにするのだから。

 変わることには勇気が必要で、新しいことほど恐ろしいことはない。

 私は自分の日常を守るのに必死だった。

「あっはははは!」

 誰かの大きな笑い声がして思わずビクンと肩があがる。

「お前なにしてんだよ!」

 誰にも気づかれないように目線だけを声のした方に向けた。

「おい、恭介もなんか言ってやれよ。」

 江口君が斎藤君の肩を組みながらそう言って何やらはしゃいでいるのが見える。

 斎藤君は綺麗に口角をあげて笑っている。

 彼の周りにはやっぱりいつも人がいて、にぎやかでまぶしい。

 私が、彼の過去を「最も身近な存在に裏切られた」と想像したのは、あんなに完璧な彼でも、弱みのある私と同じ人間なんだと感じたかったからだと思う。

 彼が私のような立場にいたらどんな行動をとるのだろうか。

 彼の考えていることが分からないからなのか、どうも彼のことが気になってしまう。こんなにも彼が気になるのは、同じ日直である今日という日だからに違いない。

 

「田中さんっていつもどんな本読んでるの?」

 斎藤君がそう私に尋ねてきたのは、放課後、生徒たちが帰った教室でのことだった。

 彼は黒板の雑巾がけをしていた手を止めずに軽く私の方に振り向きながらそう言った。

 私は確かにいつも教室では本を読んでいるが、その内容が頭に入ってくることはほとんどない。

 だって、あくまで私は本を読んでいるから一人でいる、という演技をしているからだ。

「…色々と読んではいるんだけど、実は何を読んだとかすぐに忘れちゃうことが多いの。」

 私はそう答えながら、息を吸って、はいて、吸って、はいてを意識的に続ける。

 斎藤君がぴたりと黒板を拭いていた手を止めた。

「へぇー。なんで忘れちゃうの?」

「…なんでだろう。あんまり心に残っていないからかも。」

「じゃあ、心に残っている話とかあるの?」

「それは…どんな話かなぁ。」

 これ以上何か言うと嘘がばれてしまいそうだと思って言葉を濁す。

「よく思い返してみてよ。」

 彼はそういうと、今度は目線も黒板に向けて雑巾拭きをやり始めた。

 また静寂が続く。

 私は、この手の沈黙がどうも苦手らしいということを今日一日で嫌というほど知った。

 そして、なぜ私はこんなに必死になって彼と話をしているのか、と考えたのがいけなかった。

 ふと悪知恵が働いてしまった。

「…あー、あれかな。タイトルは忘れちゃったんだけど、一人の少年が主人公の話が面白かったかな。」

 私は、斎藤君の過去を想像して自分でつくり上げた話をしてやろうと思った。

 「へー。」と斎藤君は軽く返事をする。

 今から自分がしようとしていることに抵抗はあっても、私の心はもう引き下がれないところまできていた。

 私は彼が自分の方を見ていないことをいいことに話を続けた。

「その少年はね、とても性格の良い青年に成長していくんだけど、それにはある秘密があったの。」

「秘密って?」

「実は、その少年は周りから愛される自分を演じていて、実際は自分の存在を受け入れてくれる人たちを増やす目的があったの。」

「…ふーん。」

「そ、そんな目的をもったのにもきっかけがあったんだ。突然裏切られたの。信頼していた人から。」

 そこまで話すと斎藤君の手がぴたりと止まった。

 そしてこちらの方を向く彼の横顔が映画のワンシーンのようにスローモーションに見えた。

 彼と目があった瞬間、メデューサに睨まれたみたいに体が硬直したのが分かる。

「面白そうな話だね。その少年は誰に裏切られたの?」

 彼は静かにそう尋ねた。

「え、えっと…。」

 そこまで深く考えていなったことを聞かれてしまった。

 冷汗が背中をつたう。

 さっきみたいに忘れてしまったと言えばいいのに、それを言ったら今度こそ嘘だとばれてしまう、と直観が言っている。

 彼が私を見ている。

 何か言わなくちゃ。

「…あ、そうそう!母親に裏切られたの!」

 ぱっと思いついたありきたりな名前を私は精いっぱい元気な声で答えた。

 何とか乗り切ったと思った矢先、彼の顔が、私の答えと共にみるみる変化しているのに気づく。

 それがとても恐ろしくて、彼の顔ははっきり見えているのに、彼が今どんな感情なのか私には読み取れない。

 嘘だとばれた?

 何か変なこと言った?

 それとも、彼の話を想像してたのがばれた?

 ありえないことまで不安になって、そこまで言えればもういいのに、一度動かした口が止まらない。

「そ、それで、裏切られた少年は変わっていくの。誰も自分を裏切ることのできない完璧な人間に。それから…。」

 気づけば、必死に自分の妄想を言葉にしていていた。

 目を合わせるのが怖くて、手元にあった日誌に目を向けながら話した

 斎藤君は何も言わずにただ私の話を聞いていた。

 私の妄想もそう長くは続かず、すぐにまた沈黙が訪れる。

 この静けさが嫌なのにもう何も言葉が出てこない。

 斎藤君の表情を見たくない。

 この場から今すぐ逃げてしまいたい。

(カタン。)

 黒板の方から音が聞こえて思わずばっと顔を向ける。

 斎藤君はもう私の方を向いていなくて、黒板をまた拭き始めていた。

 ほっとした私は、まだドキドキとしている自分の心臓をなだめるのに必死になった。

「あ。」

 斎藤君の一言に一瞬息ができなくなる。

そしてまた早くなった鼓動が主張し始めた。

「なんか知ってる話だと思ったんだ。俺も知ってるかも、その話。」

「…ぇ。」

 彼の口から出た言葉に唖然とする。

 そんなことはありえない。だって、これは私のつくった話なわけで…。 

 動揺が隠し切れずにうまく返事ができない私をよそに、斎藤君は話を続けた。

「俺の知ってるその本もさ、少年が主人公なんだ。家が貧乏で、母子家庭だった。でも、少年は自分が貧しいことを嫌だとは思ったことがない、心のきれいな少年だった。それは、その貧しさよりも大きな母親からの愛情が彼の心を満たしていたからだ。だから、自分に父親がいないことも別に気にならなかった。

 母親はいつも笑顔がたえない人で、少年にとって彼女は幸福そのものだったんだ。」


「母さん、ただいま!」

「お帰り!」

 乱雑にドアを開ければいつも台所に立つ母親がいた。

「今日はね、しょうくんと小学校の中を探検したんだ!」

「そうなの。よかったわね。」

 少年は、毎日学校でのことを母親に話した。

 住んでいたのはお世辞にもきれいとは言えない小さなマンションの一角だったが、母と話しながら食べるふわふわのオムライスがあればそこは少年にとってどんな豪邸よりも輝かしい場所に思えた。

 母がいれば、新しい服だっていらないし、友達が楽しそうにやっているゲームもほしくはなかった。

 もう十分心が満たされていたからだ。でも突然、二人の世界が三人になった。蒸発したはずの父親が現れたのだ。 少年は今まで母親を苦しめてきた父親を好きになんてなれなかった。

 二人で幸せなんだから。

 だから、帰ってきてもなお自分を殴り、罵声を浴びせてくる父親のことを母に言えばきっと自分の味方をしてくれる。

「また二人で暮らそう。」

 そう言ってくれると信じていた。

 だから、こんなのはおかしいんだ。

「転んで、ケガしちゃったんだよね?」

 母は少年の肩をぐっと掴んでそう言った。

 確かに母親は少年を見てそういったのだが、少年にはそれは母自身が自分に言い聞かせているように聞こえた。

 思いもよらない大好きな母からの言葉。

 母につかまれた肩が痛いのか、殴られた傷が痛いのかも分からなくなった。

 自分の目に写っているのは紛れもない大好きな母なのに、今はそれがとてつもなく恐ろしかった。

 今まで大事にしてきたものすべてが嘘なんじゃないか。

 少年は体と心が離れていくのを感じた。

 自分の足が地面を踏みしめている感覚だけが今の自分を支えているようだった。

 皮肉なことに、これが母親の本当の心に初めて少年が触れた瞬間だった。

 少年は恐ろしくて思わず母親を突っぱねた。

 そして、そのまま家を飛び出した。

 後ろから自分の名前を呼ぶ母の声が聞こえてきたが、少年は、無我夢中で走った。

「はっはっはっ。」

 自分の肩にべっとりとついたそれをとにかく吹き飛ばしたくて。息が切れて苦しくて、足の感覚が徐々になくなってきても、もう走れないとは思わなかった。むしろ、もう止まれないと思った。

 ずっとまっすぐ、そして右に曲がって次は左に、そしてまた右に曲がった。目の前に公園が見える。学校に行くとおりにある小さな公園だった。

 この街に自分の日常がまだ残っている。そう思うと、あんなに止まれずにいた足がいつの間にか公園の前で止まった。

 夜の公園は、昼間の雰囲気とはずいぶん違う。

 公園を照らす一本の電柱の弱弱しい光が、余計にこの場の雰囲気を不気味に演出していた。時計を見ると短い針が10時を指している。

 少年は、自分の目から次々に溢れてくる涙を止められないほどには絶望していた。

 溢れてくる涙を手荒くぬぐう。

 ふと空を見上げた。

 ぬぐったはずの涙がまた徐々に少年の瞳を覆い隠しては、空に浮かぶ星々を幻想的に彩っている。

「あの星は、私たちの生きている場所からとても遠く離れた宇宙という場所にあるんだ。」

 いつかの授業で担任の先生が言っていた話を思い出した。

「だから、あの星から私たちのところまでその光が渡ってくるのにもとても時間がかかっているんだよ。あの星は今僕たちの目には光って見えているけれど、もう光を失ったただの石の塊になっているかもしれない。光を失っている星でも、私たちには綺麗だと思えるように光って見えるんだ。あの輝きも永遠ではないと思うと、大事なもののように感じるよね。」

 光を失った星。

 少年は、今自分の目に見えている星はどうだろうか考えた。

 あんなに綺麗な星々は光を失っても人々に綺麗だと見上げてもらえるんだ。

「僕も…星になりたい。」

 少年はその時初めて、限りのあるものの美しさを知った。限りのあるものだから美しく、そして大切に思える人間の心理を理解したのである。


 いつの間にか曇り始めた空の薄暗さが斎藤君の顔に影をおとしている。

 私は静かに彼の話を聞いていた。

 斎藤君の話は、確かに私の想像に羽をつけたような話だったが、私の想像よりも随分現実味のある話だった。

「ね、田中さんの話と似てるでしょ?」

「そ、そうかな。」

「うん。驚いたよ。こんなに似ている話なんだから、同じ本を読んだのかもね。」

 まるで、同じものだと確信しているような彼の口ぶりに焦りを覚える。

「…でも、そんな風に、そんなかたちで人に依存して生きて、結局何になるのかな。」

 私はそれを口にしてからはっとした。彼の話を聞いて、想像と現実が混合してしまっている。思った言葉が飲み込む前にそのまま出てきてしまった。

「何って、それを田中さんが言うの?田中さんも同じでしょ。人と関わらないようにしているけど、人の目が気になって、意識して。その感情と少年の人に対する執着になんの違いがあるのさ。今日だってずっと俺と距離を置きたいのに、結局気になって自分から関わろうとしてる。それだって人への執着でしょ。田中さんの俺に対する興味は絶対とされてる卒業式っていう別れがあるから生まれるんだよ。ずっと一緒ならこんな本の話、田中さんは俺にしてないと思うよ。」

 斎藤君は珍しく真面目な顔でそう言った。

 普段の私ならすぐに視線をそらしてしまうのに、今はむしろ彼の目をずっと見ていないといけないもののように感じた。

「…じゃあ、斎藤君は、そんなに出会って別れてを繰り返して、どうなりたいの?」

 私は、彼の目を見てはっきりと尋ねた。

「…旅行ってさ、なんで楽しんだと思う?非日常だからだよ。明確な始まりと終わりがある。だから特別な日に感じるし、その分他の日よりも記憶に鮮明に残るんだ。特別で大切なものになる。田中さんと俺の考え方は似ている気がするよ。日常が大事だから定期的にしたい別れと日常だけじゃない、もっと深い関係をつくるためにしたい別れ。」

 彼の言葉は私の中にすとんと落ちてきて、すぐになじんだ。確かに、私の記憶の中で今日という非日常は忘れることのできない刺激になったことだろう。

「少年の言葉を借りるなら、星になりたい、なんてな。」

 彼はいつの間にかいつもの雰囲気に戻っていて、さわやかにそう言った。

「斎藤君のいうその別れを続けていけば、斎藤君は自分が望む何かになれんだね。」

 私がそういうと、彼は、「俺、もうすぐ転校するんだ。」とおだやかに笑った。

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