言い出せなかった日常
表具屋「とみや」は、町の通りの少し奥まったところにある。
戸は開いているが、中からは静かな紙の匂いだけが流れてきた。
「ごめんよ、とみやさん。……ちょいと、おじゃまさせてもらうよ」
こよみが声をかけると、障子の貼り替えをしていた店主の善蔵が顔を上げた。
六十を越えた細身の男で、町一番の無口として知られている。
「……三味線かけてる時間に、うちに来るとは珍しい」
「今日は音じゃなくて、間を聞きに来たんだ」
そう言って、こよみは手ぬぐいをほどく。
現れた柿の実に、善蔵の目がふっと和らいだように見えた。
「……干し柿の話かい?」
「うん。今年は、誰も“やろう”って言わなかったね」
善蔵は、ふぅと長く息を吐き、座ったまま天井を見た。
「……うちのばあさんがさ、去年まで柿の皮むき、いちばん張り切ってやってたろ。
でも春に腰を悪くしてから、ずっと気にしててね。
“私がやれないなら、始めちゃいけない気がする”って」
「とみやさんが止めたわけじゃないんだ?」
「うん……逆さ。始めたかったけど、“やれない人を置いてはできない”って思っちまって、な」
こよみはしばらく黙って、障子の貼り具合を見ていた。
空気に、米糊の甘い香りが混ざる。
「なるほどねぇ。……でも、それってさ、“始めたかった”ってことでもあるよね?」
善蔵は、小さく笑った。
———
その晩、こよみは掲示板の下にもう一度、そっと手を伸ばした。
落ち葉の隙間に、小さな柿の実が三つ、寄り添うように転がっていた。
誰が置いたのか、こよみは言葉にしなかった。
けれど、指先に触れたぬくもりで、すべてを察していた。
指先でなぞると、まだ固い実のくせに、来るべき日の甘さだけは、もう知っているようだった。
こよみは、ほんの少しだけ目を細めた。
それをひとつずつ――三軒の軒先に、ひとことも言わずに置いていった。
⸻
数日後、商店街の軒先に、干し柿が吊るされ始めた。
誰が言い出したわけでもない。
でも、誰かが置いた“声にならない返事”に、三軒がぽつりぽつりと応えたのだ。
紅葉まじりの風が、渋柿の列をくぐり抜けて、どこかほっとした匂いを運んできた。
縁側に戻ったこよみは、三味線に指を添えながら、おとよの寝息に耳を澄ませた。
「おとよさん。干し柿ってのは、渋いまんまじゃだめなんだよ。
手をかけて、時間をかけて、甘くなるんだ」
ぽろん。
三味線の音がひとつ、冬の気配をなでて消えた。
⸻
了