底に書かれた名前と、伝えそびれた手紙
その日の夕方、こよみは梅屋の表に立っていた。
木戸は閉じられたまま、軒先の鉢植えだけが風にゆられている。
おとよは足元で、じゃれもせず、ただちんまりと座っていた。
「……ばあちゃん。風はね、鳴るだけじゃなくて、“届く”もんでもあるんだよ」
こよみは静かに戸を叩いた。
一度、二度、そして間をおいて、三度目。
「……どなた?」
裏の引き戸がかすかに開いて、皺の深い顔がのぞいた。
「……月岡こよみでござんす。ちょいと、割れもんを届けに参りまして」
湯呑の包みをそっと差し出すと、ばあちゃんの顔が、ぴくりと動いた。
「それは……あのときの……」
「“しんいち”って名前、底に見えました。知り合いですか?」
ばあちゃんは、しばらく何も言わず――
そのまま、引き戸を開けた。
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座敷に通されたこよみは、煎茶をもてなされた。
ばあちゃんの手は、ゆっくりで、でも丁寧だった。
「……あの湯呑はね。うちの人が、戦地に行く前にくれたものなんだよ。
“無事で帰ってきたら、一緒にお茶を飲もう”って言って」
「しんいちさん、って……」
「うん。夫になるはずだった人。……でも、帰ってこなかった。
それでもね、不思議と、その湯呑だけは、ずっと手元にあったの」
ばあちゃんは、お茶をひと口すすり、目を閉じた。
「ずっと、言えなかったのよ。店に立つたびに、あの人が見てるような気がして……
でも、湯呑が割れたとき、なんだかね――“もういいよ”って言われた気がしたの」
こよみは、黙って頷いた。
言葉を差し込む隙間が、ちょうど良い“間”になるように。
「だから、今日で決めたの。店、閉めることにするよ。
……残してた手紙も、ようやく焼けそうだ」
その手紙を、ばあちゃんは仏壇に供えて、ろうそくを灯した。
火の揺らぎに、こよみはひとつ、三味線の音を思い浮かべる。
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帰り道。夕焼けが路地を染めていた。
こよみはおとよを抱えて、ゆるりと歩いた。
「……おとよ、名前ってのは、不思議なもんだねぇ。
言葉にしないで置いておくと、ずっとそこに残っちまう」
おとよが、にゃあと一声鳴いた。
こよみはふと立ち止まり、風の中で空を見上げた。
「ま、たまには、鳴らない音を聞くのも、悪くないよねぇ」
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了