割れた湯呑と、おばあちゃんの願い
その日は風がつよくて、商店街ののぼり旗が右へ左へ忙しく泳いでいた。
こよみは、いつものように甘味処「竹の湯」の縁台で三味線を膝にのせていたが、音は鳴らさなかった。風の音に勝てるほど、今日の音は重たくなかったから。
「……おかしいねぇ、梅屋のおばあちゃん、三日も店、開けてないよ」
呟いたこよみの前に、八百屋の大将が通りかかる。
「まったくだ。昨日の朝も覗いたんだけど、戸には“都合により休みます”の紙がペタリ。風でめくれそうになってた」
「おばあちゃん、どこも悪いとこない人だったのに……ねぇ?」
「うーん、ただなぁ……あの日のこと、気にしてるのかもな」
「“あの日”? なんだいそれ?」
「知らないのかい。三日前の夕方さ、店の前で、手ぇ滑らせて湯呑を割ったんだよ。それも、ずっと使ってた茶碗をな。拾おうとしたけど、手が震えて、しゃがめなかったらしい」
八百屋の大将は、肩をすくめて去っていく。
こよみは立ち上がり、縁側の下――風に飛ばされないよう挟んでおいた、白い包みを取り出した。
その中には、湯呑の破片が三つ。
梅屋のおばあちゃんが落としたあと、こよみがそっと拾っておいたものだった。
「……たかが湯呑、じゃないんだよねぇ。
でも、それだけでもない気がする。なんかさ――“言いそこねた”顔してたんだよ、あのときのばあちゃん」
破片のひとつを光にかざすと、底のほうにうっすらと、手書きの文字が見えた。
――“しんいち”と、読めた。
「……へぇ、“しんいち”さん、ねぇ」
おとよが足元で小さく鳴いた。
こよみは風でゆれるのぼりを見あげ、ふっと笑う。
「おいで おとよ、今度は“音”じゃなくて、“名前”を追いかけようか」