こよみとおとよ、最初の午後
昭和三十年代、東京・向島。
風鈴が鳴り、ラジオが流れ、煎餅を焼く香りが町角に残る、そんな下町。
古い長屋と石畳の路地裏には、今日も誰かの声と誰かのため息が交差している。
三味線をたしなむ町娘・月岡こよみは、そんな町の“変わり目”に敏い子だ。
人の口には出ない思いも、商店街の騒がしさの中に混ざれば、ふっと風にまぎれて流れていく。
そしてある日、こよみの三味線に誘われて、子猫がやってくる。
名前は“おとよ”。音に寄ってきた、お女将候補。
今日も、こよみとおとよは――
誰かの胸にそっと残った「ちいさなひと騒動」に、耳をすませる。
縁側に座って、こよみは膝の上で三味線を構えた。
昼餉も終わって、路地裏は風鈴の音がゆらりゆらり。
おばあちゃんは奥で昼寝中。「起こさないように」と言われたが、音は出したい。だから、控えめに――ぽろん、と。
木と絹が鳴る音が、薄い空気に染み込んでいく。
こよみの目は細くなり、つま弾く指先も、どこか遠い記憶をなぞるよう。
「……やっぱりさ、音ってのは“間”だねぇ」
そうつぶやいたときだった。
――カサ、カサッ。
路地の向こう、小さな物音。
目をやると、黒と白のまだら模様の子猫が、頭ひとつぶんの高さで顔をのぞかせていた。
「あらま、そこの若旦那、三味線がお好きと見たねぇ?」
子猫は返事の代わりに、ぴょこんと飛び出すと、ちょこちょこと縁側の下まで来て、前足でちょいと地面をたたく。
「こいこい、ってか。いい耳してるじゃないの。名前、つけてあげよっか?」
こよみは三味線を膝からおろして、しゃがみこんだ。
「“はちわれ”は月並みだし、“たま”じゃ安直すぎるし……。
よし、“おとよ”だ。音に寄ってきた、女将さん候補!」
子猫はこよみの鼻先まで来て、ぴとりと座った。
その目は、まるで「それでいい」とでも言いたげで。
午後三時。陽ざしがすこし、柔らかくなってきた。
風鈴が鳴った。
こよみはまた三味線を抱えて――ぽろん、と。
「おとよさん、聞いておくれよ。
この曲はね、あたしが“誰かを待ってた日”に覚えたやつさ」
子猫は身を丸めて、こよみの足元で目を細める。
ぽろん。ぽろんぽろん。風が抜けていく。