3日目午後
しばらくの沈黙。……そして、先に口を開いたのはわたしだった。
「そんなこと突然言われても、困る」
日野はわたしの言葉に困った顔をして、そうだよなと呟いた。……わたしが黙ったままでいると、もう一度そうだよなと呟いた。
どうして。わたしは思う。どうしてこの男はそんな小さかったころの初恋を、未だに抱いて生きているのだろう。よくいえばピュアで、悪くいえば馬鹿だ。
多分わたしの初恋はさくら組のしょうくん……いや、もしかしたらひまわり組のかけるくんだったかもしれない。初恋なんてそのぐらいアバウトなものだとわたしは思っていた。
なのに、日野と言う男はわたしのことを好きだと言う。……もしや、わたし騙されているのか?
適当にまぁくんであることをこじつけて、わたしを騙そうとしているのか?日野は。有り得る。大いに有り得る。……有り得るのに。
どうしてだか、わたしはそれはないような気がした。
わたしを包んでいる腕の震えが、そうでないと告げているような気がするのだ。
「……わたしはお前が嫌いだ」
ぽろり、と零れた本音に日野は狼狽したのか――普通は離すところなのだが――先ほどよりも強くわたしを抱きしめた。
黙っていると、耳元でずずっと鼻を啜る音が聞こえてくる。……まさか、泣いてるわけじゃないよな?……いや、まぁくんなら有り得るぞ。
そう思いながら、わたしは再び口を開いた。
「女の子からもらったチョコレート踏みつけるとか最低だし、笑顔とか胡散臭いし、正直お前の行動は猫被って媚うってるようにしか見えない」
自分も猫被っておきながら何を言ってるんだと言われたらおしまいだが、わたしの場合媚うってるようには見えないだろうと思われるので許してほしい。
ずばっと、わかりやすくはっきりと日野に言うと、首元になにか温かい液体が降り注いだ。……ああ、こいつ泣いてるよ。耳元の鼻の啜る音うるさくなってるし。
正直言うと、めちゃくちゃかっこ悪い。……かっこ悪いけど、色気ムンムンにかっこつけてる日野よりかは好感が持てた。
……本当は思いっきりずたぼろに悪口を言ってやろうと思ったけど、止めてあげよう。
わたしは、小さな頃よくまぁくんにしてあげたように、優しく頭を撫でた。
「……泣かないの、まぁくん」
そして、あの頃のように優しく名前を呼んであげた。正直、めちゃくちゃ恥ずかしい。穴があったら入りたいぐらいに、恥ずかしい。
けど、ほぼ縋りつくように泣いている日野のほうが恥ずかしい……というよりも情けない思いをしているだろうから、どっこいどっこいだ。
「猫被るなとは言わない。でも、人として最低な行為はするな。人からの好意を踏みつけるなんて以ての外だ。……わかったな、日野」
「……まぁくんって呼んでくれないのか?」
……鼻声で言われると、どうもあの頃のまぁくんを思い出す。わたしは深いため息をつくと、まぁくんと言い直した。
そしたらこの男は嬉しそうにぎゅっとわたしを抱きしめるから、しょうがなしにわたしも抱きしめ返す。
今のこの男はあの頃のまぁくんだ。そう自分に言い聞かせながら、ぎゅっと。
……別に、耳元で嬉しそうにちぃちゃん、ちぃちゃんって呼ぶ声が少し可愛かったなんて、そんなこと思ってないぞ!
◇ ◇ ◇
『 お久しぶりでございます、飯塚千奈美様。日野正昭様。 』
しばらくぎゅーっとしていると、突然最初の謎の声がわたしたちに声をかけてきた。……びっくりして日野を押しのけると、日野は不貞腐れた顔をした。わたしはぎろりと一睨み。
『 現実逃避の空間はどうでしたでしょうか?いい現実逃避はできましたか? 』
……現実逃避がしたくなることはいっぱいあったが、現実逃避できた気分は何もしない。が、あえてなにも言わないでおこう。
『 現実の世界へ戻る時間がやってきました。名残惜しいとは思いますが、ここでお別れです。二度と会うことはないとは思いますが、お元気で。 』
マニュアル通りの台詞のような謎の声を聞きながら、ちらりと日野を見ると、目を細めて微笑しながらこちらをじっと見つめていた。……胡散臭い笑みとは違う、自然な笑みだとどうしてだかわたしは思った。




