プロローグ
綺麗なまんまるのビー玉を拾った。
光をかざすと、いろいろな色に変わって見えるビー玉。
子どもっぽいって言われそうだけど、なんだかとても貴重なモノに見えて、わたしはそれをポケットの中に入れた。
◇ ◇ ◇
わたしは今夢を見ている。さっきベットに入って目を瞑ったばかりだから、それは間違いない。そう、これは夢なのだ。夢。分類するならば、悪夢と言うやつだが、夢なんだから明日になったら忘れている……はず。というか、覚えていたくない。わたしは目の前にいる男を見ながら、深くそう思う。
まあ、前向きに考えれば目の前の男に罵声を浴びせても咎める人がいない、というなんともわたし向きのシチュエーションだ。本人に知られないまま罵声を浴びせることができる……なんて素晴らしいストレス解消!
だが、ここは敢えて言わせてもらおう。
「……よりにもよって、なんで日野っ……」
日野正昭……わたしの中の『気に食わない男ランキング』第一位の栄冠に輝いたこの男を軽く紹介しよう。
えぇっと……容姿は(認めたくないが)整っている。頭も(これまた認めたくないが)いい。運動神経も(非常に認めたくないが)いい。所謂、『天が二物も三物も与えちゃったよ☆』タイプだ。――――非常に嘆かわしいことである。
まあ、それだけならわたしの中の彼の好感度はここまで下がらなかっただろう。……問題はやつの性格だ。性格。
表向きはいいらしいこの男は、人の見ていない(まあきっと男子の一部は知ってるんだろうなぁ)と、それはそれはひどいことになる。誰だ、こいつを微笑みの貴公子などとほざいたやつは。悪魔のような笑みを見せるあの男が貴公子なんて、ありえない。ああ、ありえない。
……わたしだって、最初はこの男は稀にみる完璧な男だと思っていた。恋情を抱いたことはないが、同級生としてあの男はいいやつ、と分類していたし、こんな真っ直ぐに育ててきた両親はきっと素晴らしい人たちなんだろうなとも思っていた。――――あの、バレンタインデーの裏側を見るまでは。
最初はなんとも微笑ましい告白現場だった。……あ、違うぞ。たまたま聞こえただけだから。盗み聞きじゃないから。
「迷惑だってわかってる。でも、日野君に私の気持ちを伝えたかったの」
「……ありがとう。気持ちは本当にうれしい。でも、今はそういうことを考える余裕がないんだ。ごめんね」
「ううん、いいの。チョコレート受け取ってもらえただけでもうれしいから。……こちらこそ、ありがとう」
そう、ここまではよかった。ここまでは。涙を流しながら去っていく少女を、鼻で笑うその瞬間までは。
「くっだらねー」
……正直、あのときはわたしはわたし自身の耳を疑った。でも、その声は間違いなくあの男から発せられていた。わたしはめちゃくちゃびびった。
「迷惑だって思ってるなら渡すなよな、マジでくっだらねー」
そして、あの男は!あの男はあろうことか、綺麗に包装されたそのチョコレートの入ってる箱を――――踏みつけたのだ。ぐしゃりと!それはもう、空き缶を踏みつぶす勢いで!ぐしゃりと!しかも、それをバレないように草むらの中に投げ入れて!……ど、どこまで酷い奴なんだ、日野正昭っ!口笛を吹きながら去っていく姿を、わたしは飛び蹴りしたかった。本当に。
わたしはこれを全校の女生徒に伝えたかった。本当に、伝えたかった。でも、できるわけがない。そんなことをしたら、逆にわたしが全校の女生徒を敵にまわすことになる。あの男の信頼度は、どこの誰よりも高かった。悲しいかな、人生とは不条理なモノだ。
それからというもの、わたしはこの男が気に食わない――――というか嫌いだった。まあ、本人の前で本性を出して傷つけない、というところは評価してやろう。……だが、最後まで隠せ。知らなかったらここまで嫌悪をすることはなかったというのに。きっと、わたしはとても不運な女の子だ。
いろいろと悶々と考えたところで、わたしは目の前の男に目をやった。……うん、日野だ。間違いなく、日野だ。どこからどう見ても、日野正昭だ。というか、夢にしてはリアル。めちゃくちゃ本人にそっくりだよ。わたしの記憶力良すぎだよ。
「……飯塚千奈美さん?」
黙ったままのわたしを心配したのか、日野がわたしの名前を呼ぶ。……うっわ、気持ち悪い。わたしの夢なのに本性を隠すとは、おのれ、日野。どこまでもずるい奴。というか、日野ってわたしの名前知ってたのか。意外だ。めちゃくちゃ意外。っていうか、なんでフルネームで呼ばせたわたし。実はそんな願望があったのか。いや、全然ない。
とりあえず、この男にわたしの怒りをぶつけよう。そうしよう。夢の中だ。全校の女生徒でも、さすがにここまでは来ない。……来ない、よね?
わたしは少し迷いながら、いったい何を言おうと考えていると、日野が口を開いた。――――が、聞こえた声は日野の声ではなかった。
『 こんばんは、飯塚千奈美様。日野正昭様。ようこそ、現実逃避の空間へ 』
……ん?どうした?わたしの夢。
◇ ◇ ◇
わたしも日野もその言葉にきょとんとした。……現実逃避の空間?なにそれ。面白いの?夢も希望もなさそうな名前だけど。『ようこそ!不思議の国へ!』ぐらいの勢いは欲しい。黙りっぱなしのわたしたちに、謎の声は全然戸惑っていないようで
『質問があればいつでもお聞きください。お二方』
と言った。姿が見えたらきっと営業スマイルをしているだろうね。きっと。どうしようかと、わたしが髪をいじっている間に、日野が口を開いた。お、さすが優等生(偽)。
「現実逃避の空間って、どういうところですか?」
『はい。お答えしましょう。ここでは、お二方は3日間だけ、現実逃避ができます。この空間から出ることはできませんが、そのかわり望めばなんでも出てきます。食べ物も、飲み物も、本も、娯楽の道具も。消えてほしい場合も望めば勝手に消えます。ちなみに食べ物、飲み物はどんなに食べても飲んでも蓄積されませんのでご安心を。
なお、1日の区切りは、この部屋の色でわかります。現実世界の午前は今現在見える薄い赤色。午後はうすい青色。目が痛くない程度に着色されます。それが3回繰り返されたら、この現実逃避の空間からお二方は強制的に現実世界へと戻されます。
あと、こちらで3日間過ごしても現実世界に影響のないよう、元の時間に戻されますので安心してください』
……な、なんていたれりつくせり!ケーキ食べ放題とかもできるわけか。さすが、わたしの夢!わたしが感激をしていると、日野はまた口を開く。――――本当、便利な奴だ。
「では、どうしてそんな空間に僕たちがいるのですか?」
『はい、お答えしましょう。お二方は今日ビー玉を拾いましたね?あれは、この空間にくるためのチケット代わりのものだったのです。あれは現実世界に疲れ切ったものしか見えることのできないもので……』
「……要は、疲れ切った僕たちへの褒美、ってところですか?」
『さようでございます』
褒美!さすが、わたしの夢。わたしのためによく頑張ってって……あれ?
「……ちょっと、待て。おかしい、それはおかしい」
「飯塚……さん?」
『どうされましたか?飯塚千奈美様』
「どうしたもこうしたも……なんでわたしのご褒美にこの男がついてくるんだ!絶対おかしい!これはわたしの夢だろう?この男が3日間傍にいる?これはどういういやがらせだっ!悪夢か、悪夢なのかっ!」
全く、わたしの夢なのに!どうしてこの男も一緒に褒美をもらうんだ?疲れてる?猫被ってるから疲れるんだ、ばーかっ!わたしが憤慨するにも関わらず、謎の声は穏やかにわたしに言った。
『はい、お答えしましょう。それは、ここがあなたの夢ではないからでございます。飯塚千奈美様』
「……は?」
夢、じゃない?呆然とするわたしを知ってか知らずか、謎の声は穏やかな声のまま続ける。
『―――それでは、わたくしはここで退散させていただきます。といっても、話すのをやめるだけなのですが。これ以上の質問は答えられませんのであしからず。ではでは、お二方。よい現実逃避を!』
よい現実逃避をー……って、ここで行っちゃうのか?!わたしを見捨てるのか、謎の声!!冷や汗を流しながら呆然とするわたしに、目の前にいた男はニッコリと微笑む。ぞぞぞっと寒気がしたのは気のせいか?気のせいだよな。
「そこまで嫌われてるなんて、初めて知ったよ。僕、飯塚さんになにかしたかなぁ?それに、いつもとなんだか態度が違うし。――――せっかく3日間一緒なんだし、腹を割って話そうよ」
……こんな男と3日間一緒?24×3=72時間一緒?ついてない。本当、ついてない。
日野が望んだのか、ソファが突然部屋に現れた。日野はソファに腰掛けると、隣をポンポンと手で叩いている。――――非常に恐ろしい。こんなことになるのなら、きっちり夢の中でも猫を被っているべきだったと思う。後悔先に立たず。その言葉がどうしてか、今、胸に染みた。




