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走るな! フィリッピデス

作者: 索☆創

本歌は御存知、あの有名な作品です。

 フィリッピデスは決意した。必ずかの偉大なる将軍の期待にこたえねばならぬと。

 フィリップデスには状況がよくわからぬ。

 フィリップデスは一兵卒である。

 あそこへいけと命じられればノロノロと移動し、戦えと言われればいやいやでも剣をふるった。けれど仰ぎ見る将軍に対しては人一倍に尊敬していた。

 今日、フィリップデスは未明に出発し、野を越え山を越え、十里ははなれた()の戦場へとやって来た。フィリップデスの家族構成はわからない。ウィキペディアに載ってないからだ。


 一時の狂乱も今は昔。汗と血の臭い漂う戦の地でフィリップデスは膝まづいていた。


「頼んだぞ、フィリップデス」

「はっ」

 フィリップデスが辛うじて発せられたのは、短い一言のみだった。膝が、手が震えている。

 それを見てミルティアデス将軍はそっと北叟笑(ほくそ)んだ。

 この男はきっとやりとげる。人はこれだから信じられる。この感情が体にでる正直な男が任務を果たし再開したなら、わしは満面の笑みを浮かべ抱き締めた背を叩こう。


「少しなら歩いて良いぞ。無理はするな」

「なに、何をおっしゃいますか!」

「はは。いのちを大事にな。おまえのこころはわかっているが」

 フィリップデスは歓喜し、地団駄(じだんだ)を踏みたくなった。もう何も、言うことはない。

 フィリップデスはすぐに出発した。初秋、満天の星である。

 フィリップデスはその夜、一睡もせず路を急ぎに急いで、とある村へ到着したのは、翌あくる日の午前、陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。よろめいて歩いて来るフィリップデスの、疲労困憊こんぱいの姿を見つけて村人らは驚いた。そうして、うるさくフィリップデスに質問を浴びせた。


「なんでも無い」フィリップデスは無理に笑おうと努めた。走る理由は告げていいのか聞いていないのでそうとしかできない。


 「答えるわけにはいかないが私は吉報を携えている」

 村人は色めき立った。

「うれしいか。だがもう走れぬ。水と休憩場所を」

 フィリップデスは、また、よろよろと歩き出し、案内された部屋に入るやいなや、神々の祭壇に捧げられた水を止めるのもきかずごくごくと飲み干し、間もなく床に倒れ伏して、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。


 目が覚めたのは夜だった。

 祭壇の明かりを頼りに、捧げ物の半ば干からびかけた食物を、継ぎ足されていた水で流し込むと、フィリップデスの耳に雨が地をたたく音が届いた。フィリップデスは、このままここにいたい、と思った。この痛む全身を癒していたいが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。ままならぬ事である。フィリップデスは、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。またちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、なんて考えは捨てた。

 雨が小降りになるまで。

 それでも誘惑は次々に訪れた。少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。フィリップデスほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。それでも休憩する場所を貸してくれた村人への感謝で泥濘のような思いを断ち切り、さて、フィリップデスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。

 私は、今宵、死ぬかもしれない。覚悟の上、走るのだ。戦友に走るのだ。将軍の信頼にこたえる為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私はたおれる。若い時から名誉を守れ。さらば。若いフィリップデスは、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、隣村に着いた頃には、雨も止やみ、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。フィリップデスは額ひたいの汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや生への未練は無い。私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。まっすぐに目的地に行き着けば、それでよいのだ。できるだけ早く。もはや足取りは歩きと変わらず、歌を歌う拍子で足を進めると楽だと思い出せば、好きな小歌を頭の中で歌い出した。ふらふら歩くように二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降って湧わいた災難、フィリップデスの足は、はたと、とまった。見よ、前方の川を。きのうの豪雨で山の水源地は氾濫はんらんし、濁流滔々とうとうと下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木葉微塵こっぱみじんに橋桁はしげたを跳ね飛ばしていた。彼は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、繋舟(けいしゅう)は残らず浪に浚さらわれて影なく、渡守りの姿も見えない。流れはいよいよ、ふくれ上り、海のようになっている。フィリップデスは川岸にうずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した。「ああ、(しずめ)たまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。祭壇の供物を食べたことはあやまります。日がが沈んでしまわぬうちに、王城に行き着くことが出来なかったら、あの戦いが無駄になるのです」

 濁流は、フィリップデスの叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を呑み、捲き、煽あおり立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。今はフィリップデスも覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。ああ、神々も照覧あれ! 濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。フィリップデスは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻かきわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神もまあいいかと思ったか、ついに憐愍(れんびん)を垂れてくれた。押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである。ありがたい。フィリップデスは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先きを急いだ。一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前が光輝いた。

「まて。」

「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ。」

「どっこい放さぬ。この馬車をお使い下さい」

 西日を受けていたのは二頭立ての見事な馬車だった。

 艶やかに朱に染まる馬体ははちきれんばかりで、一度鞭を入れれば、飛ぶように走るだろう。

「私には馬を操るすべは無い。走るだけが取り柄だ。その、たった一つの取り柄で、これから王に会いに行くのだ。」

「その、走りがじゃまなのだ。」

「さては、悪魔、妖魅のたぐいか。ここで私を待ち伏せしていたのだな。」

 そうきいた者たちは、ものも言わず一斉に棍棒こんぼうを振り挙げた。フィリップデスはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、その棍棒を奪い取って、

「気の毒だが正義のためだ!」と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ隙すきに、さっさと走って峠を下った。一気に峠を駈け降りたが、流石(さすが)に疲労し、折から午後の灼熱しゃくねつの太陽がまともに、かっと照って来て、フィリップデスは幾度となく眩暈(めまい)を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も撃ち倒し韋駄天いだてん、ここまで突破して来たフィリップデスよ。真の勇者、フィリップデスよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。戦友は、おまえを信じているのに。おまえは、稀代(きたい)の期待を背負っているのだぞ、と自分を励ましてみるのだが、全身萎なえて、もはや芋虫いもむしほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐(ふてくされた)根性が、心の隅に巣喰った。私は、これほど努力したのだ。命令に反する心は、みじんも無かった。神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。私は不信の徒では無い。捧げ物は貪ったが仕方なかった。ああ、できる事なら私の胸を截たち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。私は戦友を、将軍を(あざ)むいた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運命なのかも知れない。ミルティアデス将軍よ、ゆるしてくれ。貴方は、一兵卒の私を信じた。私も将軍の命令に従った。こういう言い方が許されるなら、私たちは、本当にいい部下と上司であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、貴方は私を無心に信じているだろう。ああ、期待しているだろう。ありがとう、ミルティアデス将軍。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。階級の差はあれど共に戦った信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。ミルティアデス将軍、私は走ったのだ。貴方を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破した。妖魅の誘惑からも、するりと抜けて一気に峠を駈け降りて来たのだ。私だから、出来たのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。将軍は私に、ちょっと歩いてもよい、と耳打ちした。少しおくれたぐらいなら、私を許してくれると約束した。私は将軍に言い返した。けれども、今になってみると、私は将軍の悪い予想どおりになっている。私は、ここで終わるだろう。都に着いた将軍は、ひとり合点して苦笑し、そうして事も無く私を忘れるだろう。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。戦に倒れた戦友よ、私も死ぬぞ。君達と一緒に死なせてくれ。君たちは私を受け入れてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。故郷には私の家が在る。羊も居る。村人は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉かな。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。ふと耳に、潺々(せんせん)、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々(こんこん)と、何か小さく囁ささやきながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるようにフィリップデスは身をかがめた。水を両手で掬すくって、一くち飲んだ。ほう、と長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復かいふくと共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。

 走るな! フィリップデス。

 歩いても、這っても進むのだ!

 私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。フィリップデス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! 私は、正義の士として死ぬ事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、アポロンよ。私は生れた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。

 路行く人を押しのけ、跳はねとばし、フィリップデスは黒い風のように走った。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴けとばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。一団の旅人と颯さっとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「まだどちらに兵をおくるか決めかねているようだ」ああ、その決定、その結論のために私は、いまこんなに走っているのだ。その会議は適当ではならない。急げ、フィリップデス。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。フィリップデスは、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、アテナイの市の塔楼が見える。塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。

「ああ、フィリップデス様。」うめくような声が、風と共に聞えた。

「誰だ。」フィリップデスは走りながら尋ねた。「名乗るほどではない者でございます。貴方に走り抜かれては困る者でございます。」そフードを目深くかぶり得体のしれない者が、フィリップデスの後について走りながら叫んだ。「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう」

「いや、まだ陽は沈まぬ。」

「ちょうど今、軍議は終わったところです。ああ、あなたは遅かった」

「いや、まだ陽は沈まぬ。」フィリップデスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。

「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。い。もう遅いのです会議は終わったのです。」

「それでも、走るのだ。吉報を携えているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命の問題なのだ。私は、この世で、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。消えよ! 亡者よ。」

 フードの者達は溶けるように居なくなった。言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、フィリップデスは走った。フィリップデスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、フィリップデスは疾風の如くアテナイの郊外に突入した。倒れた。

「マラトンの戦いは我が軍の勝利。勝った・・・ぞ」

 もはや目の前の人が男か女かもわからぬ。

 自分が抱き起こされているかいないかもわからぬ。

 ただそえられた手のぬくもりに報告を終えたフィリップデスは深い深い闇へと沈んだ。


 ーーー


 これがマラトン~アテナイ間の伝令物語、いわゆるマラソンの始まりの一部始終である。

 19世紀にイギリスの詩人であるロバート・ブラウニングが書いた詩によって世間に広まったが、本当に、(・・・・)余計なことを(・・・・・・)してくれたもの(・・・・・・・)だ。


 名前も定かでないくせに。

(フィリップデスの他にテルシッポス、エウクレス説、有り)


 何で走ったかなー。

 別に馬で良いじゃん。

 乗ったことないけど、馬で四十キロ競争の競技の方が楽で、見ごたえあると思うんだけどなー。


 マラソンの戦いの結果によって、軍の差し向け先が変わったって話があったような? だけど調べてもそんな話し、無いし。


 みんなでゆっくり凱旋すれば良いじゃん。


 とはいえ、この感動話が元になり、四十キロひた走る陸上競技が生まれたのは確かである。


 分水嶺で隔たれた水滴は川を成し、やがて海へと至る。


 つまり、嶺のどっち側に流れても結局最後は一緒になるんだから、マラトンまで走んなくても、たぶん別の地名で長距離走はできたんだろうけど。


 運動が苦手な人(作者)にしてみれば、タイムスリップできるなら、阻止したい歴史の分岐点ナンバーワンの史実? です。 

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