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秋が終われば冬が来る。冬になると僕らの街には雪が降った。そしてその雪は冬休みが始まる日にどっかりと街中に積もった。朝起きて窓の外を見ると、そこには普段とは全く違う姿をした街が広がっていた。山も空も建物も道路も一面が白一色だった。僕らの街はいわゆる雪国で、毎年のように雪がどっさりと積もっていた。そしてその時の雪は冬休みの訪れを告げる、僕らのもとに非日常を連れてくる雪でもあった。
冬休みという長期休暇であったが、僕はしょっちゅうアスカと遊んでいた。友達を集め校庭で雪合戦をしたり雪だるまを作ったりした。校庭には他のクラスメイトや隣のクラスの人たちも来ており、その場で皆で遊ぶこともよくあった。遊んでる最中は寒さなどまるで感じなかったが、家に帰る頃には長靴の中はぐちゃぐちゃに濡れて足先はかじかんでおり、それは手の指先も同じことだった。
その頃僕が別の世界に来てから約三ヶ月がたっていた。僕は帰ることをほとんど諦めていた。雪が積もったということもあり、毎週のように井戸を探しに出かけることもなくなった。僕らはあまり帰るための行動をしていなかったし、それほど熱心でもなくなっていた。それは飽きというよりはあまりにもどうしようもない、どうすればいいかわからないという無力さからくるものだった。どうすれば帰れるのかほんの少しだってわからない。僕らの行為はことごとく空を切っていて、シャドーボクシングのようなものだった。シャドーボクシングの方が得るものがあるからまだいい。僕らは一つの結論としてただ待つしかないのだろうという考えで一致していた。どうすればいいかわからないのだから、待つしかない。
そうして迎えた冬休みにはクリスマスという九歳の僕にとっては心踊るイベントがあった。その時僕はすでにサンタの正体が親であることを偶然の事故により知っていたのだが(元いた世界の自分の家で探しものをしていた時、隠されていたクリスマスプレゼントを偶然見つけてしまったのだ。それはクリスマス用の豪華な包装がされていた)、サンタの正体が誰であろうと僕はプレゼントをもらうことができた。クリスマスケーキだって食べることができた。それに僕はクリスマスが近づくとテレビの中や街中で響くクリスマスソングがとても好きだった。あれらの音楽を聞いていると普段の生活とは違う特別なお祭りが近づいていることを体で実感することができ、心からワクワクした。クリスマスツリーや各種飾り付けもクリスマスソングと同様だ。こちらの世界にも僕が大好きなクリスマスはそのままの形でそこにあった。
クリスマスの日、僕らは友達同士で集まってちょっとしたクリスマス会のようなことをした。それは「会」などとはとても呼べない、お菓子とジュースとゲームに満ちたいい加減なものであったし、これといった特別なイベントを行ったわけでもない。クリスマスプレゼントだってありはしなかった。僕らはただ延々と対戦型のテレビゲームやトランプなどのカードゲーム、人生ゲームといったボードゲームをした。ただ遊ぶだけ遊びつくした。
けれども僕は自分のリュックの中にプレゼントを忍ばせていた。アスカに渡すプレゼント。月五〇〇円の僕のお小遣いではたいしたものは買えなかったが、それでも僕はアスカにプレゼントをあげなければと考えていた。あげたいと思っていた。日頃の感謝を込めて、あの時のお礼に。何より今日はクリスマスなのだから、と。
クリスマス会もどきは一番家が大きく部屋も広く、大きなテレビを持つ友達の家で行われた。そこには男子の友達も女子の友達もいた。まだ僕らは何の引っ掛かりもなく男女一緒に集まってクリスマスを過ごすことができていた。男女など関係ない単なる友達として。冬なので陽はかなり短くなっていて、午後の五時には完全に沈みきって街には夜の暗さが広がっていた。クリスマス会もお開きとなり、僕らは皆で片付けをしてからその友人の家を後にした。僕らは方向が同じ者同士で集まって帰り、途中で右へ左へと別れていった。僕は途中でアスカたちと別れ、家の前で友達と別れた。僕はオートロックのドアを開け家に帰るふりをし、少し待ってから外に出てその男子が見えないところまで行ったことを確かめると今一度冬の夜の街に向かって歩き出した。冬休みに入ったその夜に雪がどっさりと積もっていたので足場はとても悪かった。暗くなると氷つき滑ることも多い。僕は見えづらい足元をよく確認しながら慎重にアスカの家に向かった。
たっぷり時間をかけてアスカの家に辿り着いた僕は緊張しながらインターホンを押した。アスカの母親が出たので僕は「アスカさんいますか?」と訊ねた。アスカの母親はちょっと待ってねといい、しばらくするとアスカがドアを開けて顔を覗かせた。アスカは「とりあえず入りなよ」と言い僕を中に招いてくれた。外は寒すぎたし、ドアを開けていては家の中まで寒くなってしまう。僕は玄関に入りドアを閉めた。
「うち上がる?」
とアスカが訊いてきたので僕は「ここで大丈夫。ちょっと待ってて」と言い、リュックの中からプレゼントを取り出した。そしてそれをアスカに差し出し「これ、クリスマスのプレゼント」と言って渡した。ちゃんと言えていたかどうかはわからない。恐ろしく緊張していて舌が上手く動いている気がしなかった。アスカの顔もまともに見られなかった。それでもプレゼントはきちんと渡さなければ、と思っていた。
アスカは「ありがとう」と笑って言ってプレゼントを受け取ってくれた。なんてことはない、しがないハンカチだ。小学三年生の僕のお小遣いをためて買ったものなので安かったが、けれどもデザインはそれなりに良いものだった。派手ではなくシンプルで、それでいて綺麗でかわいらしい。
アスカがプレゼントを受け取ってくれると僕は「その、いつもありがとう。あの時もほんとありがとう。そのお礼」とたどたどしく言った。顔に熱を感じていた。とにかく恥ずかしくて顔を上げることがろくにできなかった。何がそこまで恥ずかしかったのか、今の僕にはよくわからない。わかることはわかるが、言葉で説明することはできない。ともかく素直になって堂々とできなかった、ということなのだろう、おそらくは。
プレゼントを受け取ったアスカは「ちょっと待ってて」と言いプレゼントを持ったまま家の奥へと行ってしまった。僕は顔を上げてその背中を目で追い、そのまま玄関で立ちすくんでいた。しばらくするとアスカは戻ってきた。その手には何かが握られていた。
「はい。私もプレゼント」
とアスカは言い、手に持っていた物を僕に差し出した。クリスマス仕様の包装紙に包まれた小さめの何か。僕は思わず顔を上げアスカの顔を見た。
「今度会った時渡そうかと思ってたんだけど、リョウくん来てくれたから。やっぱり今日中じゃないとだよね」
「……あ、うん」
僕は情けない相槌をうちプレゼントを受け取った。僕は驚いていて、まだ上手く状況が飲み込めずにいた。それは思ってもみないことだった。うまく実感が持てず、喜びがやってきたのは少し後のことだった。けれどもお礼はちゃんとしなければ、と思うことはできたので僕は顔を上げた。当たり前だが、そこにはアスカの顔があった。アスカは控えめに笑みを浮かべていた。それを見て僕はプレゼントをあげて本当に良かったと思った。
「ありがとう」
と僕は言った。恥ずかしくてたまらなかったが、ちゃんとアスカの目を見て言った。僕がなにより嬉しかったのは、彼女も嬉しそうにしてくれていることだった。
「こっちこそありがとう」とアスカは言った。
「うん……じゃあ、また今度」と僕は言った。
「うん。また今度ね。帰り気をつけてね」
とアスカは言った。僕はドアを開け外に出た。最後にもう一度だけアスカを見た。アスカは微笑み、小さく手を振った。僕も小さく手を振り返し、ドアを閉めた。アスカの姿は見えなくなった。明かりも消えた。僕は回れ右をし、すっかり暗くなった街へ戻った。そしてアスカの最後の言葉を噛み締めながらゆっくりと、気をつけて家まで帰った。その日はクリスマスケーキがあったし、いつもより豪華な夕食もあった。翌朝には枕元にクリスマスプレゼントもあった。けれども何よりも嬉しく、今でも心に残っているのはアスカからのプレゼントだった。彼女からもらったプレゼントというより、あの玄関での一時。アスカの嬉しそうな笑顔。それはあそこでのあらゆる物が手元から失われた今でも、はっきりと僕の中に残っていた。
冬には雪がどっさり積もっていたので、体育の時間には校庭でスキーが行われた。僕らの小学校では年に一度スキー場で行われるスキー教室があった。さすがに全校生がいっぺんに行くことはできなかったのでこれも二学年ずつだった。スキー教室は個人の技術ごとに班が分けられた。一班が一番上手いグループで、数字が大きくなるほど技術がない人達の班であった。完全に上達度によって分けられるので隣のクラスの人たちと同じ班になることも当たり前にあり、男女も一緒だった。僕は元いた世界でも小さいころからよく家族でスキー場に行っていたのでスキーはそれなりに上手かった。そしてアスカもスキーの経験は豊富であり、元々備わっていた運動能力もあってかなり上手い方だった。僕らはどちらも二班だった。二番目に上手いグループだ。僕はしめたと思っていた。それは一応は僕と彼女の技術によるものであったが、同時にかなりの幸運でもあった。僕は何事においてもよくアスカと同じ班になることがあったが、そのほとんどがただの運であった。何の理由もないたまたまの偶然。
スキー教室では各班ごとにその班の上達度に合った保護者たちがコーチとしてついた。数字が小さい班のコーチほどスキーが上手い、ということだ。僕らのコーチは誰かのお父さんで、とてもスキーが上手い大人だった。非常に滑らかに優しく、静かに滑る。それでいてコーチだからといって僕らに厳しく指導するようなことはなく、基本的に見える範囲内で自由に滑らせた。そうやって細部について「こうしたらもっとスムーズに滑れるよ」などと指導し、上達へ導いてくれた。
一つの班は大体六~八人で、僕らの班は七人だった。スキー場のリフトは基本的に二人乗りで、僕は大抵男子の誰かと乗った。僕としてはアスカと乗りたいという気持ちもあったが、みんなの前で自分からそれをするのはとても恥ずかしくてできるわけがなかった。けれどもたまに順番の関係などでアスカと乗れることもあった。リフトに乗るとスキーウェアが触れるほどに彼女は近かった。小さな二人乗りのリフトなのでそれは当たり前のことであったが、僕はたまらなく緊張した。リフトには屋根もなく壁もない。周りに何もない空中を長時間ぷらぷらと揺れながら漂っている。どこからだって見られる状態だった。僕は絶えず誰かに見られている気がして仕方なかった。後で誰かに何か言われやしないかと気が気でなかった。しかし何よりもアスカとの近さが僕に緊張をもたらした。リフトが不安定で風でギシギシと揺れるのも不安を煽った。
しかし一方でリフトの上から見る一面の銀世界はとても素晴らしかった。天気がよく、雪の白が太陽の光を反射して眩しかった。ただリフトに乗っていると恐ろしいほどの静けさも感じた。スキー場内には絶えずBGMがかかっていたが、雪が音を吸い込んでいるかのようにゲレンデは静けさに満ちていた。前にも後ろにも下にも人は大勢いたが、世界に僕とアスカ二人しかいないようにも感じられた。
「静かだね」とアスカは言った。
「うん。やっぱ雪と関係あるのかな」と僕は答えた。
「そうかもね。雪降ってる時ってすごい静かだし。あっ、足あと」
アスカはそう言ってリフトの下を指さした。彼女が指差す先には雪原につけられた動物の足あとがあった。
「ほんとだ。小さいからうさぎとかかな」と僕は言った。
「鹿とかかも。熊の足跡とかもあるんじゃない」
「でも熊がいるなら危なくてスキーなんてできないんじゃない?」
「熊は人がいない夜とか朝だけ来るのかもよ」
「熊もスキーしてたりね」
と僕は言い、お互い笑いあった。それから僕らは雪の上に動物の足あとを探した。たまにリフトの下から友達やクラスメイトらに名前を呼びかけられ、手を振られることもあった。僕らは思い切り手を振り、声をかけあった。それからは僕らの方から手を振ったり声をかけたりするようにもなった。堂々としていればいいのだ。胸を張って。
あのゲレンデの静けさの中、二人でリフトに乗っているとそれが永遠に続くかのように感じられた。リフトは長く、安全のためゆっくりと進む。地上から離れた空中に属する世界。天と地の間。リフトに乗って山の上へ向かっていると、そのまま空まで吸い込まれるのではないかと思えた。そこにはとても穏やかで永遠に限りなく近い幸福があった。
「なんかこのまま空までのぼって行きそうだよね」と僕はアスカに言った。
「そうだね。空ばっか見てるとすごくそんな感じする。でも一回くらいは空とんでみたいよね。飛行機とかじゃなくてさ、こういうリフトみたいな感じで壁とか屋根なしで」
「うん。どっかにそういうのあるかもよ。大人になれば乗れるかもしれないし」
と僕は答えた。当時の僕にとって、それは確かに有り得そうな話だった。世界はまだ広く、どこかにあるはずだと思えた。未来は科学で何もかもが可能であるはずだった。それに大人になればもっと遠くまでいけるしお金も沢山持てる。そうすれば何だってできるだろうと根拠もなく思っていた。
リフトを降りれば僕らは下までノンストップで滑り降りるだけだった。そこに言葉はない。僕らはただ全身で太陽の光と一面の白、雪の冷たさを感じながら滑った。全身に風を感じた。自分が風になったかのように僕らは滑った。そこに恐怖は少しもなかった。速度はどこまでも興奮と歓喜であった。お昼にはみんなで食堂のカレーを食べた。おそらく今食べたらたいして美味くもないカレーだと感じるだろうが、その時の僕らにとってそれは紛れもなくごちそうだった。口いっぱいに刺激が広がった。多分僕らは終始笑っていた。笑顔でなかった者の姿も自分が笑顔でなかった瞬間も僕の記憶の中にはない。そしてカレーを食べ終えた僕らは今一度白い雪で満ちた寒々しいゲレンデに繰り出し、飛ぶようにリフトに乗った。そしてそこでアスカと二人、永遠に続くかのように思える空への旅行を楽しんだ。
そしてまた、風になって斜面の下まで滑るのだ。
スキー教室が終わるとバレンタインがあった。当日の教室内には普段とは少し違う浮足立った空気が漂っていた。小学三年生くらいになると「チョコをあげる」という行為の中にもそれまでと違った何かしらの意味が付与されるようになっていた。もっともそれもまた人によって違うことではあった。みんながみんな同じなわけではない。特に男子の多くにとってはタダでお菓子がもらえるという、ある意味ではハロウィンとさほど変わりのない大変得な日でしかなかった。
僕にとってもそれは変わらなかった。僕らの教室では男子達による「チョコ狩り」のようなものが行われていた。数日前からチョコが欲しいチョコをよこせと予約というか脅しというか、ささやかな圧力のようなものがあちこちで女子たちに対してかけられていた。誰が一番多くのチョコを獲得できるかといった勝負のようなものすら行われていた。下心のようなものは一切ない単なるゲームとして。僕も単にチョコが欲しかったし、みんながやっているのでそうした遊びに混じった。そのことの意味など特に考えもせず、その時の僕にとってはドッジボールに参加するのとあまり変わりなかった。楽しそうだから、楽しいからするだけだった。
ただ僕はアスカにだけはそういったことをすることができなかった。僕にとって彼女からのチョコは特別なものであり、自分からいい加減に催促するようなことはしたくなかった。周りの男子たちがアスカに対しそうしたことをしているのを見ると恨めしくなった。同時に情けなくもなった。僕は彼女からそれをもらいたかったし、もらえたらどれだけ嬉しいだろうかとも思った。だからといって直接欲しいなどと言うことはできず、それをしてしまっては意味がないとも感じていた。結局のところ僕は自分の言葉にがんじがらめになって何もすることができなかったのだ。けれどもそんな僕の様子を見て取ったのか、アスカの方から「チョコいるよね?」と言ってきてくれた。僕は素知らぬ顔を作り「うん」などと素っ気なく返事をしたのだが、内心ではようやく自分の言葉のがんじがらめから解放され、ほっと一息つくことができていた。よかった、ちゃんともらえるのだ、と大きな安堵がやってきた。
当日、僕は友達と一緒に女子たちのところをまわりチョコをせがんだ。もらえたのはチロルチョコや袋入りの中の小さなチョコといったものだけであったが、チョコはチョコだったので僕らは満足していた。アスカも他の女子と同じように小さく安いチョコをクラスの男子たちにあげていた。僕もそれをもらった。確かにチョコはもらえたが自分もみんなと同じこんな小さなチョコなのか、と僕は内心でがっかりしていた。今思うと器が小さくみっともない反応だが、一人で勝手に期待していただけにショックはそれなりに大きかった。それでも僕は笑顔を作りありがとうと言った。
それから少し後の清掃活動前の移動時間、僕が自分の清掃場所に向かって一人で歩いているとアスカが後ろから小走りでやって来た。そして僕の隣に並ぶと「一緒に行こ」と言った。そして「今日放課後うち来てね」と続けた。僕は遊びの誘いだと思い「うん」と答えた。その時にはもうチョコのショックなど忘れていた。給食にバレンタインデーだからといってささやかなチョコレートケーキが出たおかげだろう。他にもその日の給食は僕の好物がほとんどだった。おいしいものを食べ、昼休みに楽しく遊べば些細なショックなど簡単に忘れてしまえるくらい九歳の僕は単純で素直にできていた。
放課後、僕は一旦家に帰ってから荷物を置き、アスカの家に向かった。インターホンを押すとアスカが出た。僕は挨拶をして家に上がり、居間に向かった。僕らは冬には居間にいることが多かった。そこにこたつがあるからだ。普段はアスカの部屋に行くことが大半だったが、冬の間は居間にあるこたつの中にいることが多かった。アスカの家のこたつの上にはいつもみかんがあった。僕はこたつに入りぬくぬくとしながらテレビを見、みかんを剥いて食べた。アスカは飲み物を取りに台所に行っていた。そして戻ってくると僕に小さな箱を差し出して「はい、チョコ」と言った。僕は驚いてその箱を見、アスカの顔を見た。アスカは笑みを浮かべていた。僕は目を丸くしたまま「ありがとう……」と言いそれを受け取った。
「それ私が作ったんだ。食べてみてよ」
とアスカは言った。僕はラッピングをとり箱を開けた。そこには小さな丸いチョコレートがいくつか入っていた。僕はそれを一つ摘み口に運んだ。口の中にチョコレートのけだるい甘さが広がった。それはまさしくチョコレートだった。僕が今まで食べてきたお店で売っているものと変わらない、正真正銘のチョコレートだった。僕は顔を上げアスカを見て「すごくおいしい」と目を丸くしたまま言った。
「よかった。味見はしたけど自分で作ったからちょっと不安だったんだ」
とアスカは言った。僕は慌てて「ほんとおいしいよ。ちゃんとチョコレートの味で。お店のとかよりおいしいよ」と言った。するとアスカは嬉しそうに「よかった」と言った。僕にとってもそれは良いことだった。
「学校であのチョコあげた時がっかりしてたでしょ」
とアスカはおかしそうに笑って言った。僕は図星をつかれて思わず俯いた。見透かされていたことが恥ずかしかった。僕は俯いたまま「ごめん」と言った。アスカにもわかるぐらい露骨に態度に出していたことが恥ずかしくて謝りたかったし、それを許してもらいたかったし、謝ることで自分を守ろうともしていた。けれどもアスカは「別に謝らなくていいよ。しょうがないだろうし、面白かったから」と笑って言った。僕は顔を上げ「それでもごめん。これ、ほんと嬉しかった」と言って今もらったばかりのチョコを指さした。
「そっか。私も喜んでもらえてよかった。それどうする? 家持って帰るなら冷蔵庫入れとこっか」とアスカが言ったので僕はそうしてもらうことにした。
「僕もホワイトデーちゃんとお返しするから」と僕は言った。アスカは「うん。楽しみにしとく。リョウくんもなんかお菓子作ってみたら? 楽しいよ」と言った。
「でもお菓子作るのとか女子がすることじゃん」
「そんなことないよ。男の人のパティシエだって沢山いるよ」
とアスカは言った。僕はテレビなどで見たことがあるお菓子作りの場面を想像した。それは確かに楽しそうだった。今までしたことがないので一回ぐらいはしてみたいとも思った。
「せっかくだし一緒に作ろうよ。面白いからさ」
とアスカは言った。僕は少し悩み、別に誰かに見られるわけでもないのだから、と思いアスカの提案に頷いた。それは確かに楽しそうだった。アスカが言うと何でも楽しそうに思えてくるのだ。それにアスカが一緒に作ろうと言ってくれたのだから、それを断ることは僕にはできなかった。
三月のとある土曜日にそれは行われた。アスカの家で僕らはクッキーを作った。一般的なプレーンクッキー。火傷の危険がありそうな危ない部分はアスカの母親が見守ってくれていた。僕らはエプロンをつけ並んで作業を行った。僕はまるっきりの初めてで勝手がほとんどわからなかった。けれども経験者のアスカが一つ一つの手順を実際にやって見せて教えてくれたのでそこまで困難な作業にはならなかった。僕はそれなりにスムーズに一つ一つの行程をクリアしていき、オーブンに入れて焼きあがるのを待った。焼きあがったクッキーはこんがりとしたきつね色で、部屋中に香ばしい匂いが充満した。それはどこからどう見てもまぎれもなくクッキーだった。けれどもそれはあくまで外見の話で、食べてみるまでは安心はできない。僕らはクッキーが程よく冷めるのを待ち、一緒にクッキーを口に運んだ。硬すぎず柔らかすぎず、丁度いい焼き加減だった。肝心の味もまさしくクッキーのそれであった。僕らは笑顔でお互いの顔を見合った。そして小さくハイタッチをした。僕らは成功したのだ。二人でそれを成し遂げたのだ。もっともほとんどがアスカのおかげであったが、僕は自分たちで作ったクッキーをアスカに贈ることができた。それは多分生まれて初めて何かを自分の手で作り上げた経験であった。そしてそれはアスカという明確な相手がいる行為であった。彼女のために、彼女がいるから。彼女と一緒だから。彼女がいたから。そういう一人では決して出会いようのない体験であった。僕らはクッキーの香ばしい香りが充満した部屋で笑ってそれを食べ続けた。