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永遠のyouth  作者: 涼木行
【第一部】 あの世界で君を失い、この世界で君と出会った
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4

 

 待ち合わせ場所は外に面した渡り廊下だった。渡り廊下は二階部分にあり、南校舎から中央校舎、北校舎まで繋がっていた。そうした作りもまた不思議なことに僕が元いた世界の小学校とかなり似ていた。


 アスカは渡り廊下の一番端にいた。そこは三年生の教室から一番離れた場所だった。とても天気が良く、空は晴れ渡っていた。気持ちのよい朝だ。その時の僕にはそれを堪能するだけの余裕はなかったが、それでも緊張をいくらかほぐしてくれる空だった。


「おはよう」と僕はアスカに挨拶した。


「おはよう」とアスカも返し「昨日のリョウくん?」と続けた。それはつまり僕がこの世界に元々いた僕ではなく別の世界から来た僕であるか、という質問だった。僕は「うん。昨日の僕」と答えた。


「そっか。もう一人のリョウくんは帰ってこなかったんだね。やっぱり君がいた場所に行っちゃったのかな」アスカは少し心配そうに言った。


「かもね。ちゃんと僕の家に行ってご飯とか食べられてればいいけど」


「そうだね、多分大丈夫だよ。リョウくんこれ」アスカはそう言い大きめの写真を取り出し僕に見せた。「これこの前の遠足の時のクラスの集合写真。顔とか名前全然わかんないでしょ?」


「あ、うん。ありがとう」


 僕はそう言って写真をよく見た。そしてすぐに僕を発見した。僕の顔を。そこには紛れもなく僕自身の顔があった。けれどもそれは僕ではない。この世界に元々いたもう一人の僕だ。思えば僕がもう一人の僕の姿を見たのはこれが初めてだった。写真の中のもう一人の僕の顔はどこまでも僕と同じもので、僕は目眩がした。


「――ほんとにいたんだね、僕」


 僕は呟くように言った。写真に写っているもう一人の僕はどこかに消えてしまっていた。今この世界にいないことはほぼ間違いないことだった。僕は彼になるのだ。彼を乗っ取るのだ。彼の人生を、隅から隅まで乗っ取るのだ。写真の中とはいえ、もう一人の僕の姿をその目で見ることで僕は初めて自分がこれからしていかなければならないことの恐ろしさを知った。彼は空想上の人物なんかではない。僕の頭の中にしかいない人間なんかじゃない。そして彼はもう一人の僕なんかじゃない。それは確固たる代替不可能な人生を歩んでいた一人の人間なのだ。僕とは全く別の人間として存在していた者なのだ。


 それでも僕は僕が生きるために彼の人生を奪わなければならなかった。一時的に借りるだけだ、確かに無許可だがそれはしかたがないことだ、彼だって今頃きっと僕の人生を借りているはずだ。僕は自分にそう言い聞かせ、納得させようと試みた。少しでも罪の意識を減らしたかった。僕は自分を許したかった。


 僕が沈黙し嗚咽を堪えているとアスカが声をかけてくれた。


「今は君がリョウくんだよ。君もリョウくんなんだし。しょうがないじゃん。もう一人のリョウくんには私も一緒に謝ってあげるから」


「――ありがとう」


 僕は顔を上げた。なんとか涙を押しとどめ、鼻を思い切りすすり、ツバを飲み込んだ。そうして一度空を見上げ、しっかりと胸を張った。


「そうそう、泣いてる暇なんてないしね。今から誰が誰だか教えるから、がんばって覚えてね」


 アスカはそう言って僕の前に写真をつきだし、左上の顔から指さしていった。なんでアスカはここまでしてくれるんだろう、という疑問はあったが、それを考えている余裕も訊く暇も僕にはなかった。僕はアスカが教えてくれることを聴くのに集中した。アスカは名前だけではなくもう一人の僕がその人のことをどう呼んでいたかまで教えてくれた。もちろん本人ではないのでそれは「多分」とか「確か」がつくことが多かったが、それでもその時の僕にとっては大いに助かった。呼び方だけではなく僕との関係のようなものまで教えてくれた。誰と特に仲がいいとか、いつも誰と一緒にいるとか、誰とはあまり仲が良くなさそうとか、そういうことまで。もちろんどうしてそんなことまで知ってるのだろう、という疑問もあったが、その時は覚えることで必死だった。


「後で今言ったこと全部紙に書いてあげるから。この写真にあわせて。それまではなんとかうまくごまかしてがんばって。いつも通りにしてれば大丈夫だよ」


 アスカはそう言って僕の肩を叩いた。体に熱が戻ってきた。体の内から力が湧いてきた。僕にはアスカがついている。この知らない学校でも教室でも僕は独りじゃないのだ。彼女の存在はとても心強かった。アスカは学校生活などにおいて気をつけたほうがいいことや知っておいたほうがいいことなどを書いたノートも僕の机の中に忍ばせておいてくれた。周りに気付かれないように授業中とかに読んでね、と言われた。僕は何度もお礼を言った。どれだけありがとうを言っても足りなかった。僕はなんとかしてこの感謝をきちんとアスカに伝えたかったが、九歳の僕には上手く言葉が見つからなかった。今だって見つからない。けれども僕がどれだけ感謝していたか、どれだけアスカの存在が知らない世界で助けになったかは今でもはっきりと覚えている。その喜びや感動は、今でも僕の中に当時のままに残っている。


 僕らは別々にクラスに戻った。緊張や不安はほとんどなくなっていた。とにかく胸を張ること。堂々とすること。ここが自分の居場所だと思いながら歩くこと。アスカがいる、という思いはそれらの助けになった。僕は独りではないのだ。


 僕はランドセルから教科書などを取り出し、机の中に入れた。ランドセルは後ろのロッカーにしまった。ロッカーには名前が書かれていたので間違うようなことはなかった。僕は席に戻り、今一度時間割と持ち物を確認した。それからノートや教科書の中身を。そうしてもう一人の僕の記憶とすりあわせていった。これも不思議であったが、もう一人の僕の字は僕のものとかなり良く似ていた。ほとんど同じと言っていいほどに。


 そうしていると先程アスカに教わった僕の友達らしい男子が隣の席に来て話しかけてきた。途端に僕の緊張は舞い戻り心臓が高鳴ったが、僕はとにかく堂々としようと努めた。それから余計なことは言わないこと。自分からは極力喋らないこと。はっきりと断定することは避け、曖昧な返事をすること。しかしそっけなくはならないように笑顔で相槌などを打つこと。わかることには自信を持って答えること。僕はボロを出さぬよう力を尽くす。その知らない教室の中で生きるために、僕は力を尽くそうとした。


 やがてチャイムがなり担任の先生がやってきた。クラスメイトたちは一斉に自分の席につく。昨日アスカは僕と同じ班だと言っていたが、確かに席はとても近かった。けれどもアスカは斜め二つ後ろであり、僕は後ろを向かない限り彼女のことを見ることはできなかった。彼女の姿が常に視界に入っていればとても安心できるのに、とも思ったが、彼女が後ろにいることも十分心強かった。その目で絶えず確認することはできなかったが、僕は独りではなかった。


 朝の学活が始まる。先生の名前はアスカから教わっていた。どういった先生なのかも少しだけ教わっていた。僕は朝の学活を注意深く観察した。その流れや教室の様子なども。それは僕もいずれやらなければならないことかもしれなかった。


 僕はとにかく絶えずあらゆるものを観察した。何よりも「知ること」が知らない世界で生きるためには大切なことだった。知らない世界での「無知」はそのまま恐怖や不安に直結した。それは九歳の僕が頭で考えたことではなく、体で感じていたことであった。


 僕は安心するために知ろうとした。知るために観察した。絶えず観察していることで僕は恐怖や不安をある程度忘れることができた。することがあるというのは恐怖や不安に対して何よりの特効薬であった。アスカの言うとおり、僕には泣いている時間などないのだ。恐怖や不安のことを考えている時間もなかった。休み時間はそのほとんどを観察にあてた。と言ってもじっと席に座り教室中を凝視しているわけではない。それがどれだけ怪しいことかはわかっていた。観察とは真面目に見ることだった。真面目に聴くことだった。見るべきものを見るべきように見、聴くべきものを聴くべきように聴く。


 もちろん友達らしいクラスメイトたちと話すことも観察の一つだった。彼らは他のクラスメイトたちより僕と関係が深かったのでより早くより多く知る必要があった。僕は彼らの言葉や言動を一つも逃さぬよう会話をした。この時ほど常時集中して過ごしていた時期はない。絶えず気を張り詰めておかなければならず、それでいて極力平静を装っていなければならない。正反対に近いことを一度に行い続ける。それはとてつもない疲労を伴う行為だった。けれどもそれは当時の僕にとって生きることに直結していた。僕は僕を守るために、生きるためにそれらをする必要があった。それを一人で成し遂げなければならなかった。誰にも代わることはできない。僕が僕のために僕の責任で、僕一人で成し遂げなければならなかった。アスカはそれの手助けをしてくれたが、けれどもアスカがそれをするわけではないのだ。それをするのはいつだって僕だった。僕以外の誰かにできることではなかった。


 授業の進み具合は僕がいた世界とほとんど変わらなかった。小学三年生で習うこともおそらくほとんど同じだった。けれども僕は授業も集中して受けていた。元いた世界ではそんなことはあり得なかったが、それもまた生きるために必要なことだと感じていた。知らない世界において知らずにいること、知ろうとしないことは死以外の何ものでもなかった。やることなす事に恐怖や不安がついてまわるのだ。僕は臆病で怖がりで弱虫だったのでそんなことは耐えられなかった。知ることを放棄することなど、知ろうとしないことなど考えられなかった。そうしてしまえればどれだけ楽だろうとも思えたが、だとしても絶えず「知らない」という恐怖はついてまわり、そこから逃げ延びることは不可能だっただろう。そういう意味で、僕は知らない世界に迷いこんだことによって初めて学ぶとはどういうことなのかを身に迫る体験として知ったのかもしれない。


 授業中に並行してアスカからもらったノートにも目を通した。隣の席の人間などに見られないように、教科書などで精一杯隠しながらそれを読んだ。そこには沢山の役立つ情報が書かれていた。僕が学校でしなければいけないこと、した方がいいこと、してはいけないこと。そういったことの大半がそこには書かれていた。アスカのお陰で学校での僕の不安はそのほとんどがなくなったし、学校に馴染む速度もより早まった。


 初めての給食の時間が来た時は心からホッとした。疲労に加えて空腹もかなりのものだった。集中するというのはこんなにもエネルギーを使い空腹をもたらすものなのか、と僕は思った。僕はその週の給食当番の一人ではなかった。おかげで僕は勝手の知らない給食当番の仕事を行う必要はなかった。給食が運ばれてくる前に僕らは机をくっつけあい班をつくった。机を六つずつ向かい合うように一つの長方形にする。そうすることで僕の右斜め前にアスカが来た。席からは窓の外も見ることができた。僕は久しぶりに緊張を解いた。観察を怠るわけにはいかなかったが、あまりにも疲れすぎていた。


 僕はなるべく喋ることなく給食を食べた。話しかければ答えたが、班のみんなの話を聞くことに集中していた。他の人に習っておかわりもした。とてもお腹が空いていたのだ。給食の時間では久しぶりにアスカと話すこともあった。席は少し遠くアスカと一対一で話したというよりは班のみんなとの会話の中でのものであったが、それでも言葉をかわすのは朝の時間以来で随分と久しぶりな気もした。僕は同じ班の一人に「今日なんか元気ないね」と言われたが「お腹減ってたんだ」と答えた。班のみんなに笑われたが怪しまれるようなことなく上手く交わすことができた。そしてそれは「普段の僕はもう少し元気がある」ということであるはずだったので、貴重な情報だった。それからの僕は少し声を大きくしたし動きもつけたし言葉も増やした。朝の時点では不安は山ほどあったが、実際にそうして午前の時間を乗り越えるとそんなに心配する必要はないのではないか、という気持ちになっていた。


 それは給食後の昼休みの時間により強いものとなった。アスカからもらったノートのおかげで僕が昼休みに誰と何をして遊んでいるかは知ることができた。しかしその必要もなく給食の時間が終わると同時に僕は友達の男子の一人に「行くぞ」と声をかけられた。彼は各教室に一つずつ配られているドッジボール用のボールを持つと校庭に向かって駈け出した。僕も慌ててその後に続いた。もう一人の僕は昼休みには大抵校庭でドッジボールをしているらしかった。


 僕らは校庭に向かい、急いで場所を取ると足で地面に線を引きドッジボールのコートを作った。準備をしていると他のクラスメイトもだんだんと集まってきた。その中にはアスカも含めた女子の姿もあった。僕はアスカに近寄り小さめの声で「アスカもやるの?」と訪ねた。アスカは「うん。いつもね」と答えた。僕はもう一人の僕とアスカが何故仲が良かったのかがわかった気がした。二人はいつも一緒にドッジボールをしていたのだ。そしてそのおかげで僕もアスカと昼休みを一緒に過ごすことができた。周り全てが知らない人という中でドッジボールをするはめにはならず、僕はほっとした。


 女子と一緒に昼休みにドッジボールをする、というのは当時の僕にとってはそんなに不思議なことではなかった。元いた世界でもそういうことはそれなりにあった。小学三年生くらいだと男女の体力差、体格差のようなものはそこまで大きくはなかった。むしろ女子の方が体の成長は早かったりする場合もあった。そして異性と遊ぶ、仲良くするということにそこまでの抵抗もなかった。それはもちろん環境や個々人によって違ったが、アスカがいた学校やクラス、学年にはそうした風潮はまだあまり見受けられなかった。そのおかげで僕は知らない世界に来たあの初めての夜にアスカに助けてもらうことができたし、その後も支えてもらうことができた。一緒に遊び、話し、仲良くなることも。


 ドッジボールは楽だった。友達と多くの言葉を交わす必要はなかったからだ。そこには知らないことはほとんどなかったし、体を動かしていればそれでよかった。僕は観察からも開放され、久しぶりに心から楽しく遊ぶことができた。ドッジボールは大体一〇~一二人で行われ、各チーム五、六人ということが多かった。日によって誰かが加わったり抜けたりすることがあった。まれに同じ学年の別のクラスの人が参加することもあった。ともかく僕が実際に見て感じた限り、その学校や学年にはそこまで境界のようなものは感じられなかった。掃除や行事の際の縦割り班によって学年間の交流もあったし、隣のクラスとの交流も多かった。違うクラス、ということに対する壁はほとんどなかった。


 ドッジボールではアスカと同じチームになることもあったし違うチームになることもあった。けれどもどちらにせよ彼女は近くにいたし、同じ時間を共に過ごすことができた。同じチームにいる時はとても距離が近く、共に戦うこともできたし助けあうこともできた。内野と外野でボールを行き来させることもできた。アスカは運動が得意でドッジボールもかなり強かった。スポーツテストの際に行うソフトボール投げでも男子の平均とほぼ同じくらいの距離を投げ、それは同学年の女子の中でも一、二を争う記録だった。反射神経も良くボールを避けるのは特に上手かった。跳んだり身を捩ったりしながら実に華麗に避けたし、どれだけ体勢が悪くてもボールを避けることができた。しかし避けてばかりというわけではなく、捕りやすいボールに対しては確実にキャッチすることができた。ボールを怖がるということはまずあり得ない。コントロールもよくボールは速い。味方となれば実に心強い相手だった。つまり敵にすればそれだけ手強い相手でもあったということだ。彼女が敵のチームにいる時彼女は確かに敵であったけれど、僕らは楽しく互いにボールを投げ合った。僕は運動は際立って得意というわけではなく平均よりは少し出来る程度であったが、ドッジボールはしょっちゅうしていたのでそれなりに強かった。けれども僕が投げるボールは大抵の場合アスカにはなんなく捕られたし、捕りにくい箇所に投げてもなんなく避けられた。僕も僕で彼女のボールはほぼ確実に捕ることができたが避ける方はそこまで得意ではなかったので体の端に当てられることが多かった。けれども大抵の場合僕らの投げ合いはキャッチボールに近かった。僕にはそれが楽しかった。彼女は大抵最後までコート内に残っていた。だから僕も最後まで彼女と共に戦うために、もしくは彼女と一対一で戦うために最後までコート内に残るため力を尽くした。僕のドッジボールの技術はアスカのおかげで格段に上達したといえよう。


 ともかく僕は昼休みのドッジボールのおかげで言葉ではなく体で知らない友達やクラスメイトらに溶け込むことができた。例え知らない人たちとやっているとはいえ、それが小学三年生が学校の昼休みに校庭で行うドッジボールであることには変わりなかった。そしてなにより僕は体を動かし楽しむことでとてもリラックスすることができた。休むことではなく、体を動かし思考や言葉から解放されることによって得られる安らぎがそこにはあった。


 昼休を終えると清掃の時間になった。皆が自分の清掃場所に向かう中、僕はどこへ向かえばいいかわからなかった。急いでアスカに追いつき小声でどうすればいいか訪ねると「教室に行けばわかると思うよ」と言って一緒に教室まで戻ってくれた。教室には各自の清掃場所が書かれた表がかけてあり、それを見ることで僕は自分の清掃場所を把握することができた。


「場所わかる? 私掃除場所近くだから一緒行こっか」


 とアスカが言ってくれたので僕は遠慮なくその申し出を受けた。清掃前の校舎内は移動する生徒たちでいっぱいだった。一年生から六年生まで全ての学年の生徒が学校の端から端へと移動する。そういう学校中がシャッフルされるような時間だったので僕がアスカと二人で歩いているのはそこまで目立つようなことではなかった。アスカは歩きながら「今日放課後どうする?」と僕に言った。


「どうするって?」


「元いたとこに戻るために色々調べたりする必要あるじゃん。私も手伝うよ」


「あ、うん。そうだね。でもどうすればいいかな」


「とりあえず一旦家帰ったらうち来なよ。場所わかるよね? そこで作戦会議しよ」


「わかった。ありがとね」


「どういたしまして」アスカはなんでもないことのように笑ってそう言った。


 アスカは僕を僕の清掃場所まで連れて行くと「ここだよ。掃除がんばってね」と言い早足で自分の清掃場所に向かった。清掃場所には同じ縦割り班の生徒たちがいた。班によって人数は違ったが全ての学年が最低一人はいるように配置されていた。そこでも初めて会う人達に話しかけられたが、僕はなるべく聞きに徹することでボロを出さずに切り抜けた。掃除が始まってしまえば黙々とそれを行うだけだ。そうしていれば余計に話す必要はない。


 その頃には僕は知らない学校を楽しむ余裕ができていた。人はともかく、校舎内はどこも見たことがなく新鮮で楽しかった。何事もそういう目で見れば変わるかもしれない、とも思った。知らないというのは恐怖でもあったが、同時に楽しい事でもあった。好奇心がそそられる。見るもののほとんどが新しい。九歳の僕はまだ一人で遠いところまで行くことはできなかったので、一度も見たことがない場所に行くのはあまり経験のないことだった。そうだ、僕はこの知らない世界を楽しめばいいんだ。知らないからこそ楽しめるんだ。そういうことを考えるようになっていた。その頃僕はまだそのうち元いた世界に帰れるだろうと無意識に思っていたのかもしれない。思っていたというより信じていた、と言った方が適当だろう。信じて疑わなかった。昨晩の一番の不安を乗り越え、僕の心理状態はそういうものに変わっていた。


 掃除を終え五時間目の授業も終えると三年生の僕らは放課後となった。僕は友達から遊びに誘われたが用事があると言って断った。実際アスカの家に行かなければならなかったし、さすがに初日から学校の外で遊ぶというのはハードルが高かった。その時の僕はまだ彼らについてほとんど何も知らなかった。せめてもう少し彼らのことや彼らとの関係性、それにこの世界について知ってからにしたいと僕は考えていた。




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