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永遠のyouth  作者: 涼木行
【第一部】 あの世界で君を失い、この世界で君と出会った
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 ともかく僕はひとまずはこちらの世界の僕、もう一人の僕になる必要があった。僕が彼になりきるためにとりあえず何よりも重要だったのは、喋らないことだ。もう一人の僕をこの僕に付け加えていく、というよりはマイナスを減らす、という考えだった。そちらの方が楽だし、安全なことに思えた。喋らないでいればボロを出すことも少ない。僕自身のことを外に漏らさずに済む。


 僕はとにかく黙っていた。そしてひたすらに観察した。家の中を観察した。そこにあるあらゆるものを観察した。テレビのニュースなどを観察した。新聞も読んだが、これは両親に驚かれた。僕は「社会の授業で必要なんだ」と説明した。新聞やカレンダーの日付を見る限り年月日は僕が元いた世界と同じであった。そうして僕は主にテレビや新聞からこの世界、この社会のことを知ろうとした。

 そして何より重要だったのは全く知らない三人の家族を観察することだった。彼らはもう一人の僕のことをよく知っていたが、僕は彼らのことを全く知らない。だというのに僕はしばらくこの家でこの家族と暮らさなければならなかった。元いた世界に帰ることができず、もう一人の僕がこの家に帰ってこない限りは、であったが。


 ともかく、ある程度の時間彼らと共にいなければならないと考えておくべきであった。この世界の住人ではない僕にとって、この家に居続けることは生きるために何より重要なことだった。そこでならご飯が食べられたし、風呂にも入れた。雨風はしのげたし、柔らかい布団で寝ることもできた。九歳の僕が知らない世界で生きるためには、それらを手放すわけにはいかなかった。そこで生きるためには家族に秘密がバレるわけにはいかなかった。僕がその世界の僕でないと知られてしまったら、もしくは頭がおかしくなったとか記憶がおかしくなっているとか、そういうことを思われてしまったら。その後にどうなってしまうかは当時の僕には上手く想像できなかったが、それがろくでもないことであることは容易に想像できた。今まで送ってきた普通の生活が送れなくなる可能性が高いことは嫌でもわかった。だから僕はとにかく家族のことを知ろうとした。


 両親の名前はテーブルの上に置いてあった手紙などで確認した。やはりどちらも名前が違った。けれども名前はさほど重要なことではない。問題なのは呼び方だった。こちらの世界の僕は家族のことをなんと呼んでいるのだろうか? まさかそれを訊くわけにはいかない。とりあえず僕は元いた世界と同じように「お母さん」「お父さん」「お姉ちゃん」とそれぞれ呼んだ。特に変な顔はされなかったので以後もそう呼び続けた。


 それから僕は僕の持ち物を細かく知ることにした。幸いこの家では僕と姉の部屋は別々であった。元いた世界では違う。マンションは部屋の数が少なく、僕と姉は部屋を共有していた。この家も部屋の数自体は同じだったが、両親の考えや姉の要求が違ったのかもしれない。ともかく僕はひょんなことからずっと欲しかった自分の部屋を手に入れた。それはもちろん厳密には僕の部屋ではなくもう一人の僕の部屋であったが、その時僕はその部屋をある程度自由に使うことができた。もう一人の僕への申し訳なさはやはり感じたが、背に腹は代えられない。僕にはその部屋も彼の持ち物も生きるために必要だった。僕はこの世界に一つとして僕の持ち物を所有していない。最初に着ていた服と靴、それに記憶以外は。他には何一つだって持っていない。僕には色んな物が必要だった。そして僕にはそれらを自分の手で手に入れる術はなかった。お金がないので買うことはできない。もちろん作ることはできず、もらうこともできない。盗むのは言語道断だ。


 僕はありものでなんとかするしかなかった。もう一人の僕の持ち物。現在は一応僕の物であるそれら。僕に使えるものはそれしかなかった。使っていいものは、借りることができるものは。それは無許可の借用だ。本人はここにおらず、本人の許可無く勝手に使う。それは盗むのとさほど変わらない。僕は罪の意識を感じずにはいられなかった。申し訳ない、なんて感情では留まらない。僕はそれを明確に犯罪だと感じていた。人として絶対にしてはいけないこと。正しくないこと。九年間の短い人生の中で覚えた最大の罪悪感だった。僕はこの時初めてほんとうの意味での「罪」というものを、自らの体験によって感じていた。それでも、僕はそれをするしかなかった。しないことには生きられないのだ。正しいこととは思えなかったが、するしかなかった。けれどもそこに僕なりになんとか公正さを保ちたかった。正しくないことであったが、その中で少しでも何かしらの正しさを守りたかった。けれどもどうすればいいのかわからない。僕はその部屋の真ん中に正座した。そして神に祈るように合掌し、目を瞑った。そうして小さな声で「もう一人の僕。すいません。君の持ち物を少しの間使わせてもらいます。勝手に使ってすいません。でもしょうがないんです。もし君が今僕がいた世界にいるのなら、そこにある僕の持ち物を自由に使っていいです。だから君の物を僕に使わせてください。お願いします。本当にすいません」と言い、想像上のもう一人の僕に対し頭を下げた。一人で部屋の中でそんなことをするのは馬鹿馬鹿しい気もしたが、その時の僕にとってそれはとても重要なことだった。そうしなければ呪われてしまうという思いさえあった。いや、「バチが当たる」という方が正しいかもしれない。どこかで神様が見ている、お天道様が見ている、だから悪いことはできない。そういう思いが当時の僕には切実なものとしてあった。九歳の僕はまだ、目に見えず存在するかもわからない「神」のようなものを恐れていた。真剣に神頼みだってしたし、謝罪だってした。そういう点で当時の僕にとって「神」は見えなくとも間違いなく存在したものだったのかもしれない。


 またそれはどこかお墓の前で目を瞑って合掌し、頭の中で死者と会話することに似ていた。僕には僕が生まれてすぐ亡くなった祖父がいて、その人とは一度も会ったことがなかったのだがお墓参りに行くことはよくあった。顔は写真などで知っていてそれが祖父なのだとも教わっていたが、なにせ一度も会ったことがない相手だったのでまるで実感がわかない。知らない人間、僕にとっては存在しないも同然の相手だった。けれども僕はお墓参りの時はお墓の前で合掌し目を瞑らなければならなかった。僕はその間頭の中で一度も会ったことがない知らない祖父と会話した。そうしなければならないような気がしたからだ。多分誰に教わったわけでもない。子供の僕はそういう切迫を感じ、自らそれをしたのだと思う。僕はそこで死者と話していた。存在しない者と、頭の中で話していた。何を話したかはその時によって違うが、大抵は報告とかそういうものだったと思う。でもともかく僕は何かしら話した。それはしなければならないことであり、必要なことだった。僕があの時もう一人の僕に無断で借用することを頭の中で報告し、謝罪し、許可と許しを得ようとしたのもそれに近いものであるように感じた。ともかく、僕はそれをしなければならないと強く感じていたからしたのだ。


 僕はタンスの中の服を調べた。机の上の教科書やノートを調べた。机の引き出しの中も詳しく調べた。そうしてもう一人の僕やこの世界に繋がるような情報があれば必死に見て覚えようとした。僕はその部屋にもう一人の僕の痕跡を探した。彼の記憶に繋がるもの。彼の性格や言動、趣味趣向に繋がるようなものを。そうしてそれらをできるだけ自分のものにしようと努めた。


 けれどもすぐにタイムアップはやってきた。どうやらもう一人の僕はいつも九時には寝ているようだった。それは不思議な事に元いた世界での僕の就寝時刻と同じだったのだが、ともかく一〇時まで起きていると母親が部屋のドアを開けて「早く寝なさい」と言った。それに逆らうことはできない。全く知らない別の世界で九歳の子供が一人で生きるためには、兎にも角にもその世界に従う必要があった。郷に入っては郷に従え。自分や自分の既知などに執着するのは危険なことだった。知らない世界に従うことは確かに不安であったが、それは生きるために必要なことだった。僕は歯を磨きベッドに入った。僕のものではないベッド。今日の朝までもう一人の僕が寝ていたはずのベッド。けれどもそこは不思議とよく知った匂いに満ちていた。元いた世界の僕のベッドと全くと言っていいほど同じ匂いだった。それで僕は「僕は僕なのだ」と思い安心した。世界が違ったところで、名前は同じだった。顔も同じらしい。そして匂いも同じだった。もう一人の僕もまた、間違いなく僕なのだ。そう思うと全身に暖かさが満ち、すぐに眠くなった。元いた世界とは違い二段ベッドではなく開放感に溢れていて落ち着かなさもあるにはあったが、眠気はすぐに僕の意識を包み込み夢の世界へと沈み込ませた。


 夢を見たかどうかは覚えてない。深い眠りだった。僕は疲れていたのだ。朝はあっという間にやってきた。僕を起こしたのは母親の声だった。それはいつもの朝とは違った。僕は目を覚ますと二段ベッドの天井がないことを不思議に思った。そして夢を見ているのかとも思ったが、すぐに自分が今どこにいるのかを思い出した。当たり前だったが、僕が別の世界に紛れ込んでしまったのは夢ではなかった。寝て朝を迎えたからといって元の世界に戻っているということもなかった。僕は目覚めと同時にたまらない不安感に襲われた。眠るという一つのリセットを挿むことで、それは変え難い現実として再び目の前に表れた。それはどこまでも紛れもない現実だった。夜が来れば暗くなり、朝が来れば明るくなる。そうして新しい一日が始まる。そういう類の、現実だった。


 母親が今一度ドアをノックし「起きなさーい」と言う。その声は僕の本当の母親のものではない。僕は自分を奮い立たせ、なんとか返事をする。ちゃんと目を覚ましていることを示す。そうしてベッドの中で歯を食いしばり、強く拳を握る。僕はしゃんとしなければならない。僕はこの世界に従わなければならない。とりあえず生きるため。そのためには自分の既知を眠らせておかなければならない。恐怖も不安も怯えも今までの僕がもたらすものであった。今までの僕とこの世界との違いがもたらすものであった。だから僕は今までの僕であってはいけなかった。今までの僕に執着し、そうあろうとし続ければ、僕は恐怖に完全に飲み込まれてしまう。そうなっては生きることはできない。帰ることもできない。僕は元いたところに帰るために生きなければならなかった。僕はこの世界に自分をなじませなければならなかった。


 その時僕はアスカとの約束を思い出した。「明日また会おうね」という約束。僕はそれを約束した。約束は守らなければならない。アスカは「頑張ってね」とも言った。「大丈夫だよ」とも言った。それらは力になった。僕が考えることは一つだけだ。僕がしなければならないことは、一つだけだ。


 アスカとの約束を守る。僕はそのためだけにベッドを這い出し、カーテンを開けて朝日を浴びた。朝日は僕が元いた世界と何ら変わらない朝日だった。窓の向こうには街が見えた。家はマンションの八階だったので街が良く見渡せた。その街も僕が元いた街と同じで盆地であり、四方を山に囲まれていて街の向こうには山が見えた。その景色は元いた世界とあまり変わらないものに見えた。僕がこれから生きる街。僕はその街に対して頭を下げた。「おはようございます。今日からよろしくお願いします」と小さな声で言った。それが礼儀だと思ったのだ。そういうことがとても大事なのだと。そういうことをしなければこの街に受け入れてもらえない。締め出されてしまう。生きていくことができない。そういうことを切実に僕は感じていた。礼儀に挨拶。それは知らない世界に赴いた時何よりも重要なものであった。それが非力な九歳の子供一人きりだった場合には特に。


 僕は部屋を出て洗面所に向かった。そこで軽く口をすすぎ顔を洗い寝ぐせを直した。それからリビングに戻り席について朝食を食べた。朝食はトーストやヨーグルトなどで、それも僕が元いた家と同じだった。ちゃんと家族揃って朝食をとるのも同じだった。テレビにはニュース番組がつけられていて、そこで改めて日付と曜日を確認する。曜日は小学生にとってはとても重要なものであった。曜日によって時間割は大きく違う。それはランドセルに詰めるものがガラリと変わることを意味した。

 食事を終えると僕は歯磨きをした。それから自分の部屋に戻り学校へ行く支度をした。服装は天気予報の最高気温や降水確率を参考に決めた。九月の終わりだったがまだ暑く、僕は半袖Tシャツとハーフパンツをはいた。それにくるぶし丈のソックス。それから壁に張ってある時間割を参考に教科書などをランドセルに入れる。昨晩のうちに教科書などの中身は確認していた。教科書やノートなどを見る限り授業内容に大きな違いはないようであった。なんとなくわかってきていたが、この世界と元いた世界にはそこまで大きな違いはないようであった。細かな点は異なったが、歴史や文化、常識などはほとんど元いた世界と変わらなかった。


 僕は荷物を二度確認する。母親に何か持っていかなければならないものがあったかどうかも確かめる。準備は万端だ。けれどもいつ家を出るかがわからなかった。もう一人の僕は普段何時何分頃に家を出ていたのだろう。時間割に始業の時刻は書いてあったのでいつまでに学校に着けばいいかはわかった。おまけに学校の場所はベランダから見ることができた。上から小学校らしき建物、校庭が見えただけなので確信はなかったが、昨日アスカの家から帰る間車の中から覚えた道やアスカからもらった地図を参考にする限り、僕が向かうべき小学校はそこで間違いなかった。方角と大体の距離、それに周囲の建物はベランダから確認することができた。僕はもう一人の僕もマンションの高階に住んでいたことに感謝した。


 悩んだ末、僕はできるだけ時間ギリギリに学校へ向かうことにした。ベランダから学校の位置が確認できたため道に迷うようなことはほとんどあり得なかったので、念の為に早く出る必要もなかった。学校に早く着いてしまっては手持ち無沙汰になることはわかっていた。そこは僕が知らない学校なのだ。そこは僕の知らないクラスであり、そこにいるのは僕の知らないクラスメイトたちであった。アスカが先に来ている可能性もあったが、可能性はあくまで可能性だ。何の根拠もない。僕は母親に促されるギリギリまで自分の部屋でもう一人の僕の情報を集めることにした。誰が友達なのか。誰といつも一緒にいるのか。なんと呼んでいるのか。そういうことが知りたかったが、参考になりそうな情報はないに等しかった。やがて僕はそういったことはアスカに聞いたほうがいいのではないかと思い、やはり朝の時間にアスカと少しでも話す必要があると考え慌ててランドセルを背負い家を出た。


 マンションのエレベーターでは仕事などに向かう他の住人らと鉢合わせになった。知らない人々であったが僕は自分から先に挨拶をした。挨拶。それが知らない世界においてとても重要な事なのだ。九歳の僕は誰に教わったわけでもないのに自分から自然とそうしていた。防衛本能のようなものが上手く機能したのかもしれない。けれども元々本当の両親からは挨拶はきちんとするようにと教わっていた。礼儀の大切さも教わっていた。教わっていたからといってそれをきちんと行っていたわけではなかったが、知らない世界に来てからその教えは切迫した説得力のあるものとなり僕の体を意識の外側で動かしていた。


 僕はマンションを出るとベランダから確認した学校がある方向に歩き出した。歩き出すとすぐにランドセルを背負った子どもたちの姿が目に入った。僕は彼らに着いて行けばいいだけだった。しかし考えてみれば、そもそも姉と一緒に行けばいいだけだったかもしれない。三つ上の姉はまだ小学六年生で、同じ学校に通っているはずだった。けれども姉は先に家を出ていた。ということは普段から別々に学校に通っているのかもしれない。六年生にもなると三年生の弟と一緒に学校へ行くのは恥ずかしかったり嫌でたまらないことだったりするのかもしれない。実際元いた世界でも僕は三つの姉とは別々に学校に行っていた。


 ともかく、僕はランドセルを背負った子どもたちについていった。目論見通り、彼らは僕を小学校まで連れていってくれた。その小学校は昨日アスカと一緒に来た小学校で間違いなかった。その小学校には生徒用の入り口は二つあって、片方には三年生の僕より大きな人たちが入っていっていた。一方僕より小さかったり同じくらいの背の子どもたちは奥の入り口から入っていた。僕は後者に続いて学校に入った。そこにはちゃんと三年生の下駄箱があった。自分のクラスや出席番号は事前に持ち物に書かれたもので確認していたので、下駄箱を探すのはそこまで難しいことではなかった。僕は自分の名前が張られた下駄箱から上履きを取り出して履き、外履きをしまった。


 上履きを履いたところでその違和感に気づいた。右足の裏に感じる違和感。靴の中に何かが入っていた。僕は靴を脱ぎ、中を見た。小さく折りたたまれた紙が入っていた。僕はそれを取り出しポケットの中につっこみ、上履きを履き直した。僕はなんとか人のいない場所を探し、ポケットから小さく折りたたまれた紙を取り出して読んだ。


 それはアスカからの手紙だった。そこには教室での僕の席の場所が書かれていた。その手紙を見るまで席の場所のことなんて考えもしなかった。僕はそれを知らないのだ。それはとても重要なことだというのに。教室での自分の席は学校内での数少ないささやかな縄張りのようなものであった。間違いなく自分の場所だと宣言できる空間。とりあえずそこに辿り着くことができれば、僕はずっとそこに座っていればよかった。知らない学校の知らない教室の中で自分の居場所を確保し落ち着くことができた。だからその手紙は大きな助けとなった。


 手紙にはそれ以外にある指示が書かれていた。自分の席に荷物を置いたらここに来て欲しい、と。そうして学校内の軽い地図のようなものが書かれており、印がつけられていた。僕はそれを今一度小さく折りたたみ、ポケットに入れ自分の教室に向かった。


 そこで気づくが、僕は自分の教室の場所を知らなかった。それを確認するのは忘れていた。一瞬軽いパニックに陥ったが、よくあたりを見てみると廊下の天井には案内板のようなものがぶら下がっていて、それを見れば自分のクラスの場所など一目瞭然だった。僕はほっとしてその案内板に従い自分の教室、三年一組に向かった。


 知らない学校はとにかく緊張した。心臓は他の人にも聞こえているのではと思うくらいに大きく鳴っていたし、口の中は乾ききっていて喉の奥も熱かった。動きも自分の体と思えないくらいギクシャクしていて、まるで油をささず錆びてしまったブリキの木こりのようであった。僕は水道を見つけると冷たい水をがぶがぶと飲んだ。飲み過ぎて少し気持ち悪くなったくらいだ。周りはみんな知らない人で、しかも学校の中はすぐそこに壁や天井がありひどく狭く感じられた。外で独りなのとは違う。外では壁も天井もなく開放感があった。知らない街で一人とはいえ、僕は一応どこへでも行けた。けれども校内の壁や天井、狭さや人口密度はどことなく牢獄を思わせるものだった。そこから逃れることはできない。偽物の僕に逃げ場はない。校舎内には子どもたちの黄色い声があちこちから響いていた。それは僕が元いた世界の学校の朝となんら変わらないものだった。僕は自分を落ち着かせようと努めた。確かに知らない学校、初めての学校であったが、小学校であることは変わらない。僕がこれから行くのが小学三年生の教室であることも変わらない。僕は多くが違う世界の中で僅かな同じものを探し、不安を取り除く材料にした。そうした既知に執着することは危険だとも感じたが、少しくらいは持っていないと不安に押しつぶされておかしくなってしまう。僕はなるべく平然を装った。胸を張り前を向いて歩いた。誰かに挨拶をされると相手の目を見てはっきりとそれを返した。僕はとにかく胸を張ることだけを意識して教室に向かった。胸を張る。言葉ではなく体で、文字通りに。そうして体に意識を持って行くことで頭の中から様々な言葉が消えていき、不安や緊張も和らいだ。僕はそうやって教室の中に入った。


 幸いなことに、教室のドアは開いていた。僕は教室のドアというものがあまり好きでなかった。これは僕の小学校だけなのかもしれなかったが、教室のドアは開閉の際にひどく大きな音を立てた。その音は教室内にいる者の視線を強制的に惹きつける何か特殊なものであった。だから教室の引き戸を開けて外から中へ入る際には教室中の人間の視線にさらされることになり、それは何か嫌なものがあった。ともかく幸いに引き戸は開いていたので僕はスムーズに教室内に入り、入ると同時にアスカが教えてくれた自分の席を目で探した。そして真っ直ぐにそこへ向かった。自分の席を目で確認した後一度ちらとだけ顔を上げ教室内の様子を見た。すぐにアスカの姿が目に飛び込んできた。アスカもこちらを見ていて、目が合った。目が合うと同時にアスカは歩き出し、教室を出て行った。手紙で指示していたあの場所へ向かったのだろう。僕は自分の机の上にランドセルを置き、すぐに教室を出た。途中知らないクラスメートたちに挨拶をされたが僕は臆することなくはっきりと挨拶を返した。そして一度人の少ない場所に向かい、体で隠しながらアスカからの手紙を読み直し、待ち合わせ場所に向かった。


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