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ある日、彼は一冊の本を読んでいた。その日の出来事を、正確にはそこで耳にした数字が、私の記憶には鮮明に残っている。だからその時のことも鮮明に覚えていた。
彼はいわゆる「オカルト」系の本を読むことがあった。特に神隠しやパラレルワールドに関するような本であった。それは当然、彼の体験に基づいていた。
「今度はどういう本読んでるの?」
と私はなんの気なしに訪ねた。彼は「パラレルワールド」と答えた。
「そういうのか……でもパラレルワールドってさ、あるとして、というかあるんだけど、どこにあるんだろうね。というかもう一つの世界っていうか」
「もう一つっていうかいくつもあるなんて話もあるけどね。平行世界。俺が行ったのはあくまでその一つってだけの話で。まあ別の世界っていうか別の宇宙だけど」
「宇宙か……宇宙っていくつもあるの?」
「あるなんて説もあるけどね。あその宇宙がこの宇宙とよく似た宇宙っていうのはさすがにどうなのって思うけど」
「そうなんだ……別の宇宙ってどこにあるの?」
「……宇宙の外側?」
「宇宙に外なんてあるんだ」
「あるらしいけどね。そういう説もあるっていうか」
「へぇ……宇宙の外側ってどれくらいの距離?」
「……知らないけど、宇宙の果てまでは確か一三八億光年? とかだった気がするけど」
「光年って光の速さで何年かかるかって距離だよね」
「うん」
「一三八億光年って光の速さで一三八億年かかる距離ってこと?」
「そう」
「無理じゃん」
「無理だよねぇ」
「無理すぎるね……じゃあリョウくんは一三八億光年先に行ってたかもしれないんだ」
「かもなあ」
「でもさすがにありえないよね」
「ありえないよなぁ。でもさ、何かの拍子でその距離が一瞬だけ縮まったとか、一瞬だけ重なったとか、そういうことは、あんのかなぁ……でもさ、なんか量子には距離とか関係ないらしいよ」
「どういうこと? 量子ってなんかめちゃくちゃ小さいやつだよね」
「そんな感じ。量子にはさ、量子もつれ? とかいうのがあって。俺もよく知らないしあんまちゃんと覚えてないけど、なんかペアみたいな量子があるんだよ。それをまあコインに例えるとさ、二つのコインが地球と宇宙の端っこにあるとするじゃん。何億光年も離れた先に。でもその量子もつれとかいうペアだと片方が表になるともう片方も同時に表になるとか裏になるとかで」
「同時に?」
「そう。同時に。宇宙で一番速いのって光じゃん。だから光での情報伝達でも何億年もかかるんだけどさ、量子もつれだと同時だから一瞬で情報の伝達ができるとか」
「それってめちゃくちゃすごくない?」
「うん。それが実現化したら光速なんか比較にならない速度で伝達できて。なんせ同時だから。時差とかないから。だから遠くの宇宙とかでも同時に交信できるとからしいよ」
「へぇ……なかなか意味わからない話だね」
「ほんとな。でもまあ、もしかするとパラレルワールドの自分とか、あっちの世界の自分とかもそういう感じの存在なのかもなって。同じ人間だから同じ量子でできてるっていうか、量子もつれの関係にあって、それがなんかの拍子にコインの裏表みたいに入れ替わるとか」
「そっちのほうが一三八億光年よりは全然ありえそうだしわかるかな。そういうのでSF小説とか書いてみたら?」
「いやー無理無理。俺メールの文章だって書きたくないし。読むのはいいけど書くとか無理だわー」
などという会話を、その時したはずだ。私は何故かその会話をよく覚えていて、特に「一三八億光年」という時間が、距離がとても印象に残っていた。宇宙の果て、宇宙の外側、別の宇宙までの距離……それはあまりにも途方のない距離だった。生きている間に到達できる距離ではない。人間の想像などが及ぶ距離ではない。けれどもその距離に、数字に、なんらかの神秘性を感じずにはいられなかった。一三八億光年。そのはるか遠い先に、もう一つの宇宙があるのかもしれない。もう一つの地球があるのかもしれない。もう一つの世界があって、そこに彼がいるのかもしれない。そこで彼も生活しているのかもしれない。その事実は何故だか救いになった。たとえそれが途方のない距離であっても、それは距離に過ぎないから。距離があるだけで、そこには確かにそれがあるはずだったから。
*
そうして三年が過ぎた頃、いよいよ私たちも本格的に引っ越しのことを考えるようになっていた。通勤にせよもっと利便性のいい場所がある。ここも十分に住んだ。互いの生活も安定し、十分な収入と貯金もある。そうして何より、そろそろ結婚も実行の――それは私たちにとっては実行と言うのが的確であった――時も近づいていた。別に何も変わらないのだけれども、新生活に合わせて、ということだ。
引越し先も決まり、いよいよ引っ越し作業に入った。といっても互いに仕事もあるのでそれは簡単に進むものではなかった。
私はその日、一人で自分の荷物をまとめていた。衣装ケースの奥から、一つの箱が出てきた。
私はそれを見た瞬間、手が止まった。
それは、両手に収まる程度の大きさのラッピングされた箱だった。プレゼント用の包装紙に包まれ、リボンがついた箱。色褪せ、包装紙の所々が破けた、その箱。
それは、あの夏の誕生日に彼にあげるはずだったプレゼントだった。
私はその箱を見るまで、そのことを忘れていた。忘れていることも忘れていた。それの存在も、それがここにあることも、忘れていた。忘れていたことに唖然とした。どうして私は、こんな大事なものを忘れていたんだろう。私はいつから忘れてしまっていたんだろう。
このプレゼントは、何も変わらずずっとそこで待っていたというのに。
涙が出てきた。すべてを思い出していた。すべてのことが、昨日のことのようにありありと思い出された。あの日々を。一年を。彼を永遠に失った時の悲しみを。それらがすべて戻ってきた。まるでそのプレゼントの中に封印されていたかのように。私はそのプレゼントをそっと抱きしめた。
忘れていた。忘れることができていた。日々の中で、生活の中で、私はそれを忘れるところまで至っていた。何よりも、いつもそばにいてくれた彼のおかげで。
それはもう、私には必要のないものになっていた。ある種のライナスの毛布。子供の頃、まだ小さかった頃、それを頼りに生きてきた。それにすがって生きてきた。それこそが私と彼を繋ぐものだった。彼の存在の証明であった。けれどももう、今の私にはそれも必要なくなっていた。
その事実が、悲しかった。同時にありがたくもあった。あの頃私を助けてくれて、支えてくれてありがとう。そして同時に思い出した。私にあったのは、何もこれだけではないはずだ。私の「プレゼント」は、なにも渡せなかったプレゼントだけではない。もらったものもあったはずだ。もらったものがあっただろう。何故今まで忘れていたのか。いや、わざと忘れていたんだ。それを見るのが怖かったから。思い出されるのが怖かったから。
私は今一度、実家に戻った。
実家は、あの頃と変わることなくそこに建っていた。といっても随分古びたし、そこにいる人も違う。あの頃は毎日いて、毎日私たちの帰りを待ってくれていて、いつだってお菓子やお茶を出してくれた祖母はもういない。あの頃から、もう二十年近い年月が経ったのだ。
私は台所の食器棚を漁った。そしてその奥で、それを見つけた。あの頃と変わらず、光に反射し輝くあの江戸切子のグラスを。それを電灯にかざすと、切れ目がキラキラと光と影の線を映し出した。
あの日、あの夏。私の誕生日。十歳の誕生日。あの日に、彼からもらったもの。けれども彼がいなくなり、私はそれが使えなくなった。それを見ることができなくなった。それはどうしたって彼の存在そのものだった。それを見るたび彼を思い出し胸が痛くなった。悲しさに襲われ、涙を抑えられたなかった。だからいつしかそれを奥底にしまいこんでいた。奥に奥に、目の届かぬところに隠していた。そうしていつしか、本当に忘れてしまっていた。あのプレゼントと同じように。
私はそれを持ち帰った。あの東京の家に。彼は「こんなのあったっけ?」と言ったが、私は「実家にあったの忘れてたから持ってきた。お気に入りだったから」と答えた。本当のことを彼に話そうとは思えなかった。それはあのプレゼントも同じだった。リョウくんには、それを隠した。やましいことがあったわけではない。でもそれを未だに持ってると彼が知ったら彼が傷つくかもしれないと思った。いくら私自身忘れてたとはいえ、私はそれを後生大事に抱えていたのだ。これから結婚するというのに余計な不安を彼には与えたくなかった。とはいえ、それをどうすればいいのか私にもわからなかった。捨てられない。捨てるわけにはいかない。とはいえ使おうとも思えない。リョウくんにあげるなどもってのほかだった。とにかく私はそれを持ち続けることにした。それ以外には考えられなかった。
そうして引っ越しの日がきた。
私はそのプレゼントを、他の荷物と一緒にしまうことをしなかった。こればかりは、自分の手で持っていたかった。自分の手で運びたかった。リョウくんが先に荷物を開けそれを見つけるという恐れもあった。だから私はそれを自分の手で持ち、新居へと向かった。
荷物をすべて引越し業者に預け、私たちが十九の頃から約七年住んだその家はもと来た時のようながらんどうの空間になった。私たちの胸にあったのは、寂しさだった。ただの部屋とはいえ別れるのは辛い。ここには沢山の思い出があった。けれども人生に別れはつきものだった。たとえそれが部屋であろうとも。
私たちは手を握りあい、その何もなくなった部屋に二人で頭を下げた。そうして新居に向けて出発した。スペースの都合でリョウくんだけが引越し業者に同行し先に新居に向かうことになっていた。私は一人で歩き、電車に乗りそこへ向かうことになっていた。
外では桜が満開だった。季節はどこまでも春だった。私はその陽気の中歩き、桜を見上げながら歩いていた。
踏切にたどり着いた。私は踏切を渡ろうとしていた。風が吹いた。桜の花びらが舞った。一瞬、目にゴミが入った。私は目をつむり、目を開いた。その刹那に、何かが変わった気もした。けれども何も変化などない。私は気にせず歩きだした。
人と、すれ違った。その人の顔に、私は見覚えがあった。はっきりと、見覚えがあった。
私は、思わず振り返っていた。
相手も、こちらを向いていた。数歩の距離をはさみ、私たちは踏切の中で二人向かい合っていた。お互いの、目を見ながら。
「――リョウ、くん……?」
それはありえないことだった。ありえないことだけれども、私にはひと目でわかった。
そこにいたのは彼だった。リョウくんだった。けれどもそれは、あのリョウくんではない。この、こちらの世界の、今は先に新居に行っているはずの、あのリョウくんではなかった。
彼は、あちらのリョウくんだった。あちらの世界の、十歳の頃に永遠に離れ離れになってしまった、あのリョウくんであった。私には何故だか、ひと目でそれがわかった。姿形はあのリョウくんとほとんど変わりないのに、でも私にはひと目でそれがわかった。
彼はあちらの世界のリョウくんだ。成長し、姿が変わったが間違いなく、大人になったあちらの世界のリョウくんだ。
「――アスカ……?」
彼も、私を見てそう言った。
「……リョウくん、だよね……あの時の、あの頃の……あの一年、私の世界にいた、十歳の誕生日前に、自分の世界に戻ってしまった、あの、あの一年の、リョウくんだよね……?」
「……うん。僕は、そのヤマミリョウだよ。アスカも、アスカもあの時のアスカなんだよね?」
「うん……私も、あの時の、あの一年の、別の世界のアスカだよ」
「そっか……そんな、こんなこと……でも、わかるよ。なんでかわからないけど、ひと目見ただけで、僕にもわかった」
「私も。ひと目見ただけでそれがわかった」
私たちはそう言いあい、微笑みあった。
「ここは、どこなんだろう……」
彼はそう言い、あたりを見回した。気づいたら、そこには音がなかった。風もなかった。人もいなかった。桜の花びらが、落ちることなく空中で止まっていた。
「わからない……でも二つの世界の間なのかもしれない」
「そうだね……そんなことあるのかわからないけれど」
「うん……リョウくんも、二十五歳になったの?」
「うん。アスカも?」
「うん。私も二十五歳。十五年ぶりだね」
「そうだね……十五年ぶり……」
「うん、十五年……色々あったよね、お互い。十五年だもん」
「そうだね。ほんとに色々あったよね。十五年だもん」
「うん……私ね、今度結婚するんだ。こっちの世界のリョウくんと」
私がそう言うと彼は笑った。
「そっちの世界の僕? ていうとやっぱり僕の代わりにあの一年こっちの世界にいた僕ってことだよね」
「うん、そう。彼の秘密を唯一知る人間」
と私は自分を指さした。
「そっか……じゃあ僕の時と同じだったんだね。でもよかったよ。会ったこともないけど、そっちの僕もアスカと会えて。アスカがいてくれて。相手が僕、じゃないけど、まあそっちの僕なら安心っていうか、しょうがないかな」
「はは、なにそれ」
十五年ぶりなのに、不思議と私たちは笑いあっていた。そこに涙は、悲しみはなかった。
「実はさ、僕も今度結婚するんだ」
「ほんと? おめでとう」
「うん。それで、驚かないでほしいけど、相手はなんとこっちの世界のアスカ」
「いたの? そっちの世界にも私が」
「うん、いたんだよ。同じ名前で同じ顔のタキザワアスカが。中二の時にさ、転校してきて」
「そっか……別の町にいたんだね、そっちの私は」
「うん。すごい偶然っていうか、運命だよね」
「そうだね……私も、相手がそっちの私ならいっかな。それならオッケー」
私はそう言って笑った。
「どう? そっちの私は」
「すごくアスカだよ」
「はは、なにそれ」
「でもそうとしか言いようがないからね。そっちの僕はどう?」
「……僕じゃなくて俺。戻ってきたときから」
「はは! それは、なるほどねえ……そりゃ違う場所で一年、一番多感な時期過ごせば違いも出るか……逆に僕がよく未だに僕だよなって話でさ」
「そうだね……でも変わってなくてよかった」
私はそう言い、顔を上げた。
「リョウくん、今幸せ?」
「……うん、すごく。アスカも幸せ?」
「うん、すごく幸せ。リョウくんのおかげで。こっちのリョウくんのね。それに、最後に――これが最後だって、絶対に最後だって、そういうのはもう、なんとなくわかるから……最後に、君に会えて、本当に幸せだよ」
「……僕もだよ。これが最後だろうと、一回きりだろうと、最後に、アスカに会えて」
踏切の音が、鳴り始めた。
「……時間みたいだね」
「そうだね……短くても、こんな奇跡があっただけで、十分だし」
「そうだね……アスカ、どうか元気で。幸せに。なるべく長く生きて、それでそっちの僕のこと、頼んだよ」
「うん、リョウくんも。たとえ二度と会えなくても、私はリョウくんの幸せを、それにそっちの私の幸せを、二人の幸せを祈ってるから」
「うん、僕も。二人の幸せを、祈ってる。――じゃあ、そろそろ行くよ」
「うん――あ、待って!」
私は思い出し、彼を呼び止めた。そうしてリュックの中から、あのプレゼントを取り出した。踏切の音が、けたたましく鳴り響いていた。それはまるで終わりが近づいているのを知らせているかのように。
「これ、プレゼント! 誕生日プレゼント!」
「誕生日?」
「うん! あの日、あの時、君がいなく前、じゃなくてその後の、君の十歳の誕生日に! 渡すはずだった、渡そうと思ってた誕生日プレゼント!」
私はそう言い、その箱を差し出した。
「十五年も経っちゃって、包装紙とかボロボロだけど、そのままだけで悪いけど、でもこれは、いつかリョウくんに渡すために持っていたものだから!」
「――ありがとう。ほんとにありがとう」
「うん、こっちこそ! あの時、私と一緒にいてくれて本当にありがとう! 私と仲良くしてくれて、本当にありがとう! 全部ほんとに、ほんとに、幸せな思い出だから!」
「――僕のほうこそ、ほんとに、ほんとにありがとう……あの時僕に出会ってくれて。あの時僕に声をかけてくれて、本当にありがとう。アスカにどれだけ救われたか、多分それは君にもわからない。でも本当に、僕は君に、救われたんだ」
「うん――リョウくん、私は君のことが、好きだった。あの頃、あの一年、その後もだってそうだったけど、私は君のことが、大好きだった」
「うん、僕も。僕もアスカのことが好きだった。本当に、本当に大好きだった。ずっと、ずっと好きだった」
「そっか……よかった。私たち両想いだったんだね」
「そうだね」
「うん……でも、私は私の世界で生きるから。私は自分の世界で、私が大好きな彼と、私の世界のリョウくんと生きていくから」
「……僕もだよ。僕が好きなこっちの世界のアスカと、僕も生きていく」
「うん……じゃあ、サヨナラだね」
「うん……サヨナラ」
私たちはそう言い、固く、握手をした。そうしてそれぞれが向かうべき方向に歩き出した。踏切の音はすぐ近くまで迫っていた。カンカンカンカンと、やかましく鳴り響いていた。
私たちは互いに対岸に辿り着いた。お互いに振り返り、向こう側の相手の顔を見た。私たちの視線が交わる。どちらからでもなく、互いに強く、頷いた。
これでいいのだと。
電車が、通り抜けた。猛スピードで、高速で目の前を通り過ぎていく。踏切の音。点滅する赤いランプ。世界を隔てるかのように降りた遮断器。その先で、いつまでも、いつまでも電車が走っていた。
やがてそれも終わり、電車が通り過ぎる。対岸には、沢山の人の姿があった。世界に音が戻っていた。桜の花びらが、ゆらゆらと舞い地面に落ちていた。遮断器が上がった。
その先に、彼の姿はなかった。
さようなら。私は心の中で彼に告げ、振り返り、歩き出した。
やがて新居に辿り着いた。沢山の荷物の中で、彼が待っていた。
「おかえりー。ってのもおかしいか」
「ううん……ほんとに、帰ってきたから……」
私はそう言い、彼の胸に飛び込んだ。
「え? ちょ、どうしたの?」
「リョウくん……私ね、私、ちゃんと渡せたよ、プレゼント」
「え?」
「あのプレゼント。彼に渡せなかった、あのプレゼント。十五年前に、彼の十歳の誕生日に渡せなかった、あのプレゼント。ずっとずっと、長い間渡せなかったプレゼント、ちゃんと渡せてきたよ……」
私はそう言い、泣きじゃくっていた。
「それって……」
「うん。会えたんだ、彼に。彼に会えた。こんなこと、ありえないって思ってた。こんな日が来るなんて思ってなかった。でも、会えたんだ彼に。あのリョウくんに。ちゃんと、渡せたんだ。あの日渡せなかった、あのプレゼントを……」
私はそう言い、嗚咽を漏らし続けた。
「だからもう、私は大丈夫……ちゃんと渡せたから。ちゃんと、彼にさよならって言えたから……ちゃんと彼と会って、さよならができたから。だから私は、もう大丈夫」
「そっか……よかったな、ほんと……ほんとによかったよ……」
そう言い、彼は私の体にそっと腕を回した。何故だか彼も涙ぐんでいた。
「うん、もう大丈夫。もう私は、大丈夫だから……だからごめんね、ほんとに今まで。今までたくさん心配かけて。ほんとにありがとう。今までずっと、私のそばにいてくれて」
「そりゃこっちのセリフだよ。ほんとありがとう。俺と一緒にいてくれて」
「うん……これからもよろしくね……ずっとずっと、よろしくね。ずっと一緒にいてね。絶対どこかに行ったりしないでね」
「大丈夫だって。あんなことは二度とないと思うからさ。まあ全部神様の気まぐれだけど。今回みたいにさ。でもいざそうなっても、俺は神に抗ってだってちゃんとアスカのそばにいるからさ」
「はは、なにそれ。そんなことして死んじゃったら嫌だよ」
「死なないって。神にだって勝つよ俺は。まあ入んなよ。俺たちの新居に。なんか飲む? つってももちろんなんも冷えてないけど」
「うん。じゃあ新居の水道水」
「ははは。実際飲んだけどうまかったよ。ちゃんと濾過されてるっていうの?」
彼はそう言い、コップに水を汲んで持ってきてくれた。そのグラスは、あの江戸切子だった。
「それで、あっちの俺はどうだった? 俺となんか違った?」
「……あっちのリョウくん未だに一人称僕だった」
「マジかよ! はは、まだそうかー。てか爽やか系か!」
彼はそう言い、大袈裟に笑ってみせた。その笑顔で、私も笑えた。水を飲み、荷物でいっぱいの新居に腰を下ろし、一息ついた。そうしてどうせなら味があるものが飲みたいと、出かけに自販機で買った炭酸ジュースを取り出そうとリュックを開けた。
その中には、あのプレゼントはもうなかった。




