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あちらのリョウくんを失ってからの歳月は、代わりにではないが、こちらのリョウくんがいてくれた。ずっとそばにいてくれた。彼が再び入れ替わることは起きなかったし、そんな気配もなかった。そもそもそんな気配というものがあるかもわからなかったけれども。
何も起きなかった。本当に何も。あれは、あの時だけの本当にイレギュラーだったのだろう。世の中にいくつかある神隠しの話。そういう類のもの。そういうものを調べもしたが、再現しようなどとは思えなかった。そもそも再現できるとも思えなかった。自分なんかよりはるかに詳しい研究者が調べたりしてもわからないことなのだ。そもそもその話が本当かどうかなどわからない。それで言えば、リョウくんの話だって本当かどうかなど本人にしかわからないことだった。ある意味ではそれは本人ですらわからないのかもしれない。歳をとっていけば記憶は薄れ、実感は薄れ、何かの勘違いだったのではないか、夢だったのではないか、本当にそんなことあったのか、と思うようになるのかもしれない。もっとも、リョウくんの場合はそれを共有する私という存在がいたので別だったけれども。
ともかく、何もなかった。彼が現れることも、私があちらに行くことも。何も起きなかった。何も変わらなかった。そんな予感すら存在しなかった。ただこの世界で、昨日とほとんど変わらない毎日が続いていく。そうして私たちは少しずつ大人になっていった。
中学を卒業し高校生になった。私は勉強ができた。というよりやっていた。それは元々リョウくんの不在を忘れるためにのめり込んだものだったが、おかげでそれが習慣化できていた。リョウくんは、少し苦戦した。元々勉強ができないわけではなかったが、あまりやってこなかった。しかし私と同じ高校に入るために三年の夏から必死に受験勉強をがんばった。結果として私たちは二人で同じ高校に進んだ。そこでも私たちは一緒だった。付き合ってるから、というだけではない。それは後付で、ただの世間に対するパッケージのようなもの。私たちはただ、ある一点においては相手しかこの世に存在しない人間だから、絶対に替えの効かないかけがえのない相手だから。そして何より、とても大事な存在で、とても大事に想っているから共にいるだけだった。それは双子のように。自分の半身のように。
大学受験は、高校の時と同じようにはいかなかった。志望校は違う。その偏差値も違う。対象は日本中に広がっている。それでも、せめてでもなるべく近くにという想いは互いにあった。二人で共に努力し、首都圏の大学に合格した。学費の面では互いに家族に多大な負担をかけた。それでも、私たちは離れ離れにはなれなかった。いや、少なくとも私はもう彼のいない人生など考えられなかった。今更そんなものが送れるとは思えなかった。それはもう自分には考えられないものになっていた。彼は完全に私の人生の半分になっていた。彼がいなければ、自分がどうなってしまうのかわからなかった。
私も彼も生まれて初めての一人暮らしというものをした。とはいえしょっちゅう会うししょっちゅう互いの家に行くのでそれはあまり一人暮らしとはいえなかった。一人の時などあまりない。夜、彼と別れたあと一人でいる。そういう時にはどうしても寂しさがやってきた。世界に自分一人になったような気がした。彼らのように、別の知らない世界に迷い込んだような気分にもなった。そんなことはありえなかったのだけれども。
私たちは東京で、その近辺で色んなところに行った。バイトもした。不思議と私たちはどちらもお酒をあまり飲まなかった。リョウくんは言っていた。
「なんかさ、酒飲むとあの時を思い出すっていうか、あの感じになって。一度だけ最初の頃先輩に飲まされて潰れたんだよ。起きたら全然知らない街中で、自分ひとりで。記憶もなくてさ。ほんとに周りは何も見覚えなくて。その瞬間、子供の頃の、あの時のことがフラッシュバックしてきたっていうか、すごいパニックになって。なんでかまただって、またあれが起きたんだって思っちゃったんだよ。また知らない世界に迷い込んじゃったんだって。俺はまた、別の世界に来ちゃったんだって」
彼はそう言い、思い出したように笑ってみせた。
「それでさ、最初に思ったのは、もうアスカに会えないってことだったんだよね。ショックっていうか、ほんとにもう絶望っていうか、愕然として。それでもう、走って。アスカの家目指して走って。それで、さすがにそのうち思い過ごしかなっていうか、まあ知ってる場所に来て、駅とか電車とか路線も同じだし、少なくとも自分が知ってる世界と同じで、だから別に別の世界には来てないって、ただ酔い潰れてただけだっては思えるようにはなってたけど、それでも不安でいっぱいでさ。それでほんともう、押しつぶされる感じで。アスカの顔見るまではほんとに安心なんかできなくてさ。覚えてる? その時のこと」
「覚えてるよ。リョウくんが朝からいきなり家に来て、泣きそうな顔してて、でも私のこと見た瞬間すごいほっとしたような顔してその場に崩れ落ちてさ……それで、初めてあんな強く抱きしめられて」
「はは、ほんと……恥ずかしくてあの時は言えなかったけどさ、その時のこと」
「お酒臭かったから酔ってるかと思ってたけど。なんか悪い夢見たとか」
「そんなこと言ったっけ。まあそれ嘘。ごめん。まーとにかくさ、それ以来酒飲むのほんと怖いんだよね。そりゃ酒飲んだだけでそんなこと起きないってのはわかるけどさ、あの時の恐怖はほんと、何にも例えらんないんだよな……だから飲んでもほんと少しで、もう酔うっていうのが怖くてさ」
「そっか……でもその方がいいよね。体にもいいし。私も酔っ払いは嫌いだし」
「だよなー。まー付き合い悪いとか色々面倒もあるんだけどさー。シラフ側だといつも酔っ払いの対応しないといけないし。まあ自分がされるより断然いいけどね」
それが彼が語ったお酒を飲まない理由であった。
ともかく、私たちは多くの時間を二人で過ごした。二人の家で過ごした。家ではよく料理をした。リョウくんは始めほとんど何もできなかったけど私が教えることで格段に上達した。お互いのワンルームの家のキッチンはたいしたものではなかったが、それでも二人で食べる料理を二人で作るのは楽しかった。やがて一年が過ぎた頃、リョウくんから切り出してきた。
「あのさ、俺らも二年生になったわけだけど、そろそろっていうか、普通に考えて不便だし一緒に暮らさない?」
「まあほとんど一緒に暮らしてるようなもんだしね」
「じゃん? 行き来する時間も金ももったいないしさ、そもそも家賃もったいないし。二人分の家賃ならもっといいとこ住めるじゃん」
「そうだけど、わかってると思うけどどっちも家賃払ってるの親だよ」
「そこなんだよなぁ……だからまあ、互いの親を説得するしかないっていうか、俺も当然ちゃんと挨拶に、許可取りに行くし。一応親同士だって知らない間じゃないわけだし、小学生の頃からの付き合いじゃん。家もそこまで離れてなくて、俺らもお互いの家にずっと通ってたわけだし、だからまあすでに半分親公認みたいなわけだし」
「そうだけど、さすがに自分のお金出して相手住まわせるっていうのは違うんじゃないかな。半分にせよ」
「だよなあ。まあもちろん俺もバイトしてそこは払うけどさ、でも全部は無理だから頼むしかないけど」
「一応言っとくけど私は賛成だよ。絶対その方がいいし。わからないけど、多分うちの親としてもそっちのほうが安心じゃないかな。娘一人で生活させてるよりは男の子と、リョウくんと一緒のほうが。でもどうやって説得するの?」
「それはまあ、いや、正直順序が違うけど……結婚を前提にお付き合いしてます、って」
「……それは初めて聞いた」
「そりゃ初めて言ったし。いやでもさ、実際だよ? なんかもうそれしかなくない? いや、俺一人で言ってることだけどさ。俺だって別に結婚する必要があるとは思ってないけど、でもしない理由もないっていうか、色々制度とかあるだろうし絶対したほうが得だろうけど。でも得とか抜きにしてさ、逆に他の誰かと結婚するとかありえる?」
「……先のことはわからないけど、まあ私はなさそうかな」
「じゃん? 俺もどう考えてもないしさ。というかアスカ以外と結婚とか今更もう無理そうだしなぁ……そっちはできると思う?」
「そもそもしたいと思わないしね。なんかまあ、結婚とか言われても今更っていうか、別に何も変わらない気もするし」
「じゃん? だからまあ、なんかもうそういうもんっていうか、既定路線っていうかさ」
「そうだね……でも今のプロポーズになるけど」
「……なんかさ、いや、これも俺が勝手に言ってるだけのことだけど、なんかもう俺らにはそういうのも必要ないっていうか、なんかこういう感じのほうが逆に普通かなって」
「そうだね……ほんとなら一世一代のはずなのにね」
私はそう言って笑った。
「けど早いよね。私たちまだ十九だよ」
「そこなんだよなあ。そこだけっていうか。まあ今すぐ結婚するわけじゃないから反対とかされるとは思わないけど、この段階で言うのも親からしちゃってのはあると思うけど……でも俺たちなんかさ、もう、十三年? くらいの付き合いなわけじゃん。小一の頃から。まあちゃんと付き合ったのは十四からだけど、でもその前から十歳のあの時からさ、もうなんていうか、この関係っていうか、どうしようもない特別になっちゃったわけだし。それ考えると個人的には早いとかはないけどなあ」
「そうだね……もうっていうかまだっていうか、なんかそういう時間だね。でもそっか。あの時から十年か……」
「そうだな……十年経っちまったな……」
「まあ結婚するにしても当然今すぐじゃないけど、リョウくん的にはスケジュールどう考えてるの?」
「スケジュールって。まあスケジュールみたいなもんだけどさ。当然在学中は無理でしょ。それもそれでなんかかっけー感はあるけど現実的じゃないし絶対止められるし。普通に考えれば社会人になって三年から五年、二十五から二十八くらいじゃない?」
「そう考えるとまだ十年先の可能性もあるんだね。また十年も」
「そうだよなぁ。社会人になったってちゃんと食ってけるかなんてわからないわけだし。安定した収入なしに結婚なんてありえないしさ」
「まーでもそこは大丈夫だよ。私がちゃんと養ってあげるから」
「それはさすがに申し訳ないっす。そっちの親にも申し訳ないし」
「男の子はそういうのあるよね。まあでも、じゃあそうしよっか」
「……いいの?」
「もちろん。じゃあお互いの親のとこ行こ。私も早速話とくし」
「そうと決まれば早いなー。こういうのって先に内容話しとくべきだよなやっぱ。その場でいきなりサプライスみたいな方が印象悪いし考える時間与えないわけだし」
そういうわけで、私たちは数週間後の週末に二人で地元に戻った。
私たちの地元は東京から高速バスで片道四時間半ほどの距離にあった。学生の身分である以上新幹線は高すぎた。地元で、お互いの両親もいる中で話をした。それは本当に婚約後の顔合わせに近いものであった。互いの両親は顔なじみだったとはいえさすがに結婚となると話が違うのか緊張した面持ちだった。けれども私の母が言った「でもこうなるとは思ってましたけれどもね」という言葉は四人の共通事項であるようだった。小学生の頃からの仲。ずっと、本当に仲が良かった。中学の頃に付き合ったのも必然だったし、互いに相手が相手であればなんの不満も文句もなく安心できた。それが高校、大学と続き、本当に二人の絆は確固たるものであることは、もうわかっていた。さすがに同居や結婚の話は思ったより早かったとはいえ、寝耳に水ではない、と。
私の両親の立場としてもやはり「娘を東京に送り出してる以上、一人暮らしよりは男性と、亮君と一緒のほうがはるかに安心できるし、そういう意味ではこちらからも是非お願いしたい話ではある」とも。とはいえお金の問題があるので、そう簡単にはいかない。きちんと両親で話し合って決めることがある、とも。それはすべて想定通りであったし、当然のことであった。
そして数カ月後、話は無事まとまり私たちの同居生活が始まった。それは安定でもあった。ある意味での、終の棲家。もちろんそのアパートにずっと住み続けるということではなかったが、私にとっては新たな「変わることなき家」を、家庭というものを手にしたのと同じようなものであった。
そうして私たちは大学を卒業し、社会人になった。社会人になってからもしばらくはそこに住み続けた。互いの通勤にさほどの支障はなかったし、慣れ親しんだ場所であったし、不便もほとんどなかった。二人暮らしで家賃も一人の倍払えるということで十分に快適な家であった。もちろん社会人になったことで家賃が互いの親が持つということもなくなり自腹にはなっていたが、二人で払えばそこまで大きな負担ではなかった。




