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永遠のyouth  作者: 涼木行
【第一部】 あの世界で君を失い、この世界で君と出会った
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2


「あ、でもリョウくん気をつけないとだね。自分のドッペルゲンガー見ると死んじゃうって言うし」


「えっ、でもそんなのただの噂でしょ」


「でも私本とかでそう読んだよ。顔とかなんかで隠しとこうよ。ほらこれ使って」


 アスカはそう言って持っていたバッグから長めのタオルを取り出して僕に渡した。僕はそれで口元を隠すように縛る。タオルも彼女の髪と同じようないい匂いがして、僕は思わず緊張した。けれどもアスカはそんなこと全然気にしてないようだった。


 アスカは僕を彼女の家に連れてってくれた。アスカの家にはアスカの祖母と母親がいて、アスカが僕を家に連れてくると少し驚いていた。アスカは井戸のことや道に迷ったこと、ドッペルゲンガーについてなどは何も言わなかった。ただ友達だといい、家にあげた。それから僕らは彼女の部屋で地図を開いて調べてみた。


 少なくとも地図を見る限り、その街の形は僕が住んでいた街の形に似ているような気がした。けれども名前は違ったし、細かいところも違った。その街の近くに僕が住んでいた街と同じ名前の場所は見つからなかった。地図を大きくして見てみると、そこは確かに僕が住んでいるのと同じ県であった。名前も形も場所も地図を見る限り同じだった。「日本」という国の名前も同じだったし、形も同じだった。違うのは細部だけだった。


 次に僕たちはインターネットで調べることにした。アスカの家にはパソコンは一台あり、それは居間にあった。そして親の許可がなければ使えなかった。けれどもちょっと地名や場所を調べるだけだ。アスカは社会科の授業のために必要なのだ、リョウくんも同じ班で一緒に調べている、と説明してパソコンを使う許可をもらった。


 僕らはインターネットで僕が住んでいた地名を調べてみた。その地名は日本にいくつか存在したが、どれも見当はずれな位置にあった。一番近いところでも県外。それらの情報が正しければ、ここは僕が生まれ育った世界ではなかった。しかしそれはまだ九歳の僕にとっては受け入れがたいことであった。わけがわからない。目の前にある情報がうまく飲み込めない。そんなことが果たして本当にあるのだろうか? これは夢かもしれない、と僕は思った。どこからが夢なのかわからなかったが、僕はまだあの井戸の中で寝ているのかもしれない。それともそれ以前から、今日の記憶自体が夢なのかもしれない。だとしたらとてもリアルで長い夢だ。


 僕は自分の頬をつねった。その行為は僕にとって数少ない寄る辺だった。漫画やテレビでよく見るその仕草。その時の僕はそうすれば自分も夢から抜け出せる気がした。もっとも漫画などでそうして頬をつねる者達は夢から醒めるどころかそれが間違いのない現実だと思い知ることになるのだが、その時の僕にはそんなことまで考えが至らなかった。とにかく僕は自分の頬をつねった。それがそういう場合の唯一正しい行いであるかのように、それにすがった。


 頬は痛かった。思い切りつねるとめちゃくちゃに痛かった。それでも僕は目一杯つねり続けた。涙が出てきた。けれども僕は、その頬が千切れるくらいに思い切りつねった。それ以外僕に出来ることは思いつかなかった。


 アスカがそれに気づき、慌てて僕の腕を掴んで止めた。


「なにしてんの! わ、すごい赤くなってるじゃん」


 アスカは急いで立ち上がり台所に向かい、冷凍庫から保冷剤を持ってきてそれを僕の赤くなった頬に当てた。まだ上手く現実に馴染めずにいた僕はされるがままだった。保冷剤の冷たさがじんわりと痛みを薄めていった。視界の端には僕の右の頬に伸ばされたアスカの腕が見えた。



「泣くまでつねることないじゃん。痛いだけだよそんなことしても、夢じゃないんだし。気持ちはわかるけどさ」


 アスカはそう言い僕の右手を取り、右頬の保冷剤まで運んだ。そして自分の手でそれをおさえさせた。頬の痛みは薄まっていったが、代わりに保冷剤を直に持つ手がかじかんできた。その感覚以外ほとんど何もなかった。頭の中は空っぽで、何も考えることができずにいた。


「どうしようねこれから」


 アスカは僕にそう言った。「どうするのこれから?」じゃないのがせめてもの救いだった。そこには彼女の優しさがあった。自分には全然関係ないはずなのに、自分のこととして、自分たちのこととして捉えてくれている。それは夢から醒めることができなかった僕にとって助けになった。


「――どうしようね」と僕は言った。


「……とりあえず家に電話してみる?」


「家?」


「リョウくんの家。こっちのだけど。同じクラスだから連絡網とか見ればわかると思うよ」


「でも電話なんかしてどうするの?」


「思ったんだけどさ、もう一人のリョウくんいるのかな。元々ここにいたリョウくんだけど」


「……いないなんてことあるの?」


「あるかもしれないじゃん。もう一人のリョウくんとリョウくん」と言ってアスカは僕を指さす。

「二人が入れ替わったっていうかさ、元々こっちにいたリョウくんが君のいた世界に行ってるかもしれないし。じゃなかったら体はこっちのリョウくんのままで別のリョウくんの記憶がなんかの拍子に入っちゃったとか」


「……わかんない」


「私もわからないよ? でも一応電話なして聞いてみるくらいしてみようよ。このままだとリョウくん帰る場所ないし」


 確かに彼女の言うとおりだった。外はもう暗い。完全に夜だった。このままでは僕は野宿でもするしかなかった。ここが知らない場所であり、僕の家は近くにはなかった。そもそも僕が住んでいた街も家もこの世界にあるのかすらわからなかった。帰る場所がない。僕はその途方も無い事実にようやく気がついた。今の僕には帰る場所がないのだ。いや、帰る場所はあったが、この世界にそれはおそらくなかった。僕の家という帰る場所は、多分ここにはなかった。帰る場所はあったが、そこに帰ることはできそうもなかった。


 僕は泣き出してしまいそうだった。怖くて怖くてたまらなかった。喉の奥から熱い塊がこみ上げてきた。けれども泣くわけにはいかなかった。泣いたら本当に二度と家に帰れなくなってしまう気がした。それに隣にはアスカがいた。会ったばかりの女の子であったが、それでも同い年の女子の前で泣くのは嫌だった。人前で涙を流すということ自体がその歳の僕にとって屈辱以外のなにものでもなかった。恥ずかしいし、情けない。僕は歯を食いしばって泣くのを我慢した。けれどもどれだけ頑張っても目頭は熱くなり、視界は涙でぼやけてきた。喉の奥はマグマが噴き上げてきたかのような熱さだった。しゃっくりも始まりそうだった。僕はもう、負けてしまいそうだった。


 その時アスカが僕の手を握った。彼女の温かい手が、僕の手を強く握った。


「大丈夫だよ。もし帰れなかったらうちに泊まりなよ。私が頼んでみるから。ちゃんとスペースも布団もあるし。ご飯もお風呂もあるから」


 アスカは僕の目を真っ直ぐに見てそう言った。そう言ってくれた。僕の中に温かな何かが戻ってきた。僕は明けない夜から逃れることができた気がした。一瞬想像した夜の暗闇の中での野宿。その冷たさ。空腹。固さ。寂しさ。孤独。一瞬の想像であったが、それは九歳の僕にとって恐怖の全てを詰め合わせたようなものであった。まったく経験のない、どこまで行っても未知な暗闇。時間と空間両方に果てのない夜。夜のど真ん中に開いた穴に落ち、二度と上に上がることができないような恐怖。暗闇の中での永遠の落下。あの井戸の中の冷たさと暗さと心細さが、体の芯まで戻ってきていた。


 しかしそれが、アスカの言葉と握る手で消え去った。人の生活の明るさとぬくもりが、僕の体に帰ってきた。


「だからとりあえず電話だけはしてみようよ。私が電話するから」


 アスカにそう言われ、僕は小さく頷いた。アスカは笑みを浮かべ立ち上がる。そうして母親の元に向かい、クラスの連絡網を借りてくる。その連絡網には確かに僕の名前があった。漢字も読みも僕の名前。けれどもそこに書かれている電話番号は僕の家のものとは違った。けれどもそういったことにはもう慣れてしまっていた。アスカはその番号に電話をかけた。


「――もしもし。ヤマミさんですか? こんばんは、私リョウくんと同じクラスのタキザワです。はい。あの、リョウくんは家に帰ってますか? まだですか? はい、そうなんですか。いつどこに行ったかわかりますか? はい。はい。あの、後でもう一度電話してもいいですか? はい、ありがとうございます。はい。失礼します」


 アスカは受話器の向こうにそんな言葉を投げかけて受話器をおいた。


「リョウくんまだ家に帰ってないって。いつどこに行ったかはわからないけど友達の家に遊びに行ってくるってメモ置いてあったらしいよ。でも帰りが遅いからお母さんがリョウくんの友達の家に電話かけて聞いてみたけどみんなうちには来ていない、わからないって。すごく心配してるみたいで見てないか何か知らないかって聞かれた。どうする?」


「どうって……まだもう一人の僕がいなくなったって決まったわけじゃないし」


「そうだけど……とりあえず一回家行ってみれば? 何かわかるかもしれないし。もしもう一人のリョウくんが帰ってきたらなんとかして逃げてさ、その時はうちに泊まればいいし」


「……いいの?」


「だってしょうがないじゃん。でもどっちもリョウくんなんだから二人とも家に置いてくれるかもね。君がこっちのリョウくんじゃなくても」


「そうかな。なんか追い出されそうなんだけど。警察とかに捕まらないかな、偽物だって」


「あぁ……その時は頑張って逃げてうち来なよ。ちゃんと隠してあげるから」


「……ありがとう。でもなんでそんなことしてくれるの?」


「もし家に帰れなくなっちゃったら私だって誰かに助けて欲しいもん。一人じゃ絶対何もできないし」


「そっか……そうだよね。一回家行ってみるよ。どこにあるか知らないけど」


「連絡網とか調べれば住所はわかると思うけど、もう暗いしね……電話して迎え来てもらう?」


「ここに?」


「うん。学校でもいいけど。そっちの方がわかりやすいし。でも外で暗い中待ってるよりここで待ってたほうがいいと思うけど」


「……そうだね。じゃあそうする」


 僕がそう答えるとアスカは今一度立ち上がり、連絡網片手に僕の家に電話をかけた。


「もしもし。ヤマミさんですか? さっきも電話したリョウくんと同じクラスのタキザワです。はい。あの、今リョウうちにいます。はい。実は私のうちで社会科の授業の宿題してました。同じ班の人とまとめるやつです。はい。わかりました」


 アスカはそう言って受話器をそっと置く。そうして僕を手招きし「リョウくん出してだって。自分で迎え来てって頼んでね」


 僕は頷き、電話を取った。とても緊張していて、唾を思い切り飲み込んでから受話器を耳に当てた。


「――もしもし」


『リョウ?』


 自分の名前が呼ばれる。大人の女の人の声だった。母親の声。けれどもそれは別の誰かの声のようにも聞こえた。母親と電話することなどほとんどなかったため、電話越しの母親の声というものをほとんど聞いたことがなかった。こんな声だっただろうか、と思う。けれどもその人はこっちの僕の母親であるはずで、電話は繋がり続けていたのでいつまでも沈黙しているわけにはいなかった。


「うん」とだけ僕は返した。


『良かった……あんたちゃんと行き先メモに書いときなさいよ。友達って言ったらいつものみんなのとこだと思うじゃない』


「あ、うん……ごめん」


『女の子の家行くのが恥ずかしかったの?』


「いや、そうじゃないけど……ごめんなさい」


『もういいから。ともかくもっと早く連絡してよね』


「はい……あの、それでできたら迎えに来て欲しいんだけど」


『行くに決まってるじゃない。タキザワさんの家にもお世話になったお礼言わなきゃいけないし。さっきの子と替わってくれる?』


 僕は返事をし、受話器を置いた。そしてアスカに「電話替わってだって」と言った。アスカは小さく頷き受話器をとる。


「もしもし。はい。あ、タキザワアスカです。はい。はい。こちらこそもっと早く連絡しなくてすいません。いえ。はい。わかりました」


 アスカは受話器を置き、台所に向かい母親を呼んだ。そうして母親に「電話、リョウくんのお母さん。お世話になったお礼言いたいんだって」と言い受話器を渡す。母親が電話に出るのを確認するとアスカは「行こ」と僕に言って自分の部屋に向かった。僕もその後に続き、母親が迎えに来るまで彼女の部屋で待った。



 母親を待つ間、僕らは色んなことを話した。僕がいた世界のこと。こちらの世界のこと。こちら側の僕のこと。あちら側の僕、というより、この僕自身のこと。僕はアスカに訊いてみた。


「こっちの僕ってどんな感じなの?」


 アスカは少し考えてから答えた。


「そんなに変わんないんじゃないかな。外見とか身長は多分全部一緒だと思うよ。性格とかのことはわかんないけど、今のリョウくんはいつものリョウくんじゃないでしょ? 色々あったし私とも初対面だし。でもそんなに違うとは思わないな」


 それを聞き僕は少しだけ安心した。これからどうなるかわからないが、こちら側の僕がこの僕と全く違う性格だったらこれから色々と苦労することになると思ったからだ。少なくともあちら側に帰れるまで僕はこちら側にいるしかなかった。まだはっきりとはわからなかったが、もしかすると僕はしばらくこちら側の僕として生きていかなければならなかった。その場合に性格が全く違ったら僕が偽物だと(というよりあちら側の僕。もう一人のヤマミリョウだと)バレてしまうかもしれない。少なくとも怪しまれてしまう。僕はこちら側の僕にある程度なりきる必要があった。けれどもほとんど違いがないということは、僕は大体の部分でいつも通りにしていてもよいということだった。


 こちら側の世界についても訊いてみたが、やはり大きな違いはないようだった。ここは地球だったし、日本だったし、F県だった。ただ市や街の名前は何故か一部違った。しかし言葉や文化、歴史や常識などに違いはそこまでないようだった。それも僕を大いに安心させた。


 僕はこちら側での僕とアスカの関係についても訊いてみた。最初から親しげに声をかけてくれたし話もしてくれたので、それなりに仲がいいのかと思ったからだ。アスカが言うには、アスカと僕は一年生の時から同じクラスだということだった。放課後に一緒に遊んだりするようなことはほとんどないが、クラスではよく話したし昼休みにみんなで遊ぶことなども多いようだった。何度も同じ班になったこともあり、交流はそれなりに多いという。それはもちろんこの僕の記憶にはないことだった。けれども少なくともアスカはこちら側の僕のことを知っていて、それなりに仲が良かった。そして僕にももう一人の僕と同じような感覚で接してくれる。それは少し嬉しかった。それは確かに僕ではないのだが、こちら側の僕であることは間違いないはずであった。そしてこちら側の僕はこの僕とそれほどの違いはない。


 僕はこの知らない世界に少しだけ自分の居場所を見つけた気がした。そこは僕が生きてきた世界ではなかったが、ここにいてもいいと、ここにいることができると、少しだけ思えるようになった。


 そこは確かに僕が知らない世界だったが、なんとなくそこまでひどい世界ではない気がした。



 しばらく話して待っているとアスカの家のチャイムが鳴った。アスカの母親がそれに対応した。玄関から女の人の声がした。僕らはアスカの部屋を出て玄関に向かった。


 玄関には知らない女の人が立っていた。なんとなく見覚えがある気もしたが、けれどもやはり知らない女の人だった。その人は僕を見つけると険しい顔つきになり「リョウ!」と強めに僕の名前を呼んだ。


「ほら、早く来なさい。すいませんタキザワさん、ほんとうちの子がお世話になって」


 その女の人はアスカのお母さんにそう言った。「うちの子」と確かに言った。


 アスカの母親はそれに対し何かを言っていた。けれども僕の耳にはそれは届いてこなかった。なんとなく事情は察していたが、けれどもそれを信じたくはなかった。僕は助けを求めるように隣のアスカの顔を見た。アスカはきょとんとした様子で「なに?」と訊いてきた。つまり、その困惑はまたしても僕一人のとても個人的なものであった。またもや僕は世界に一人きりになったような気がした。


「何やってるのリョウ。もう準備できてるんでしょ?」


 アスカの家にやってきた女の人は僕の顔を見てそう言った。僕はその女の人が誰なのか気づいていた。けれどもどうしても信じたくなかった。信じることはできなかった。確かめなくては、と思うがストレートに訊くことはできない。頭がおかしくなったと思われるかもしれない。僕がその女の人が思っているヤマミリョウじゃないとバレてしまうかもしれない。


「――家に帰るの?」


 僕は思い切ってそう訪ねた。敬語を使おうとも思ったが、それではおかしく思われそうだったので直前でやめた。


「当たり前じゃない。何言ってるの」女の人は呆れた様子でそう言った。


「僕の家に?」


 僕はもう一度だけ訪ねた。すると女の人は怒った様子で「帰りたくないの?」と訊き返してきた。その声と言葉は僕に恐怖を植えつけた。帰りたくないわけがない。僕は自分の家に帰りたくてしかたがなかった。けれども、僕が帰りたかったのは僕の家だ。


「――ちょっと待って。まだ準備出来てないから」


 僕はそう言い、アスカを見て手招きをする。アスカは小さく頷き、僕らは二人で部屋に戻った。


「あの人は僕のお母さんじゃない」


 僕は小声でアスカに言った。あの女の人は僕の母親ではなかった。僕がいた世界での、僕の母親ではなかった。顔が全然違う。声ももちろん違う。身長だって体つきだって全然違った。けれどもあの女の人は僕を「うちの子」と呼び「家に帰る」と言った。


「それってリョウくんがいた世界でのお母さんと違うってこと?」


 アスカが訊ねる。僕は頷く。


「でもあの人がこっちのリョウくんのお母さんで間違いないはずだよ。授業参観とか学校行事とかの時一緒にいるの見たことあるし」


「でも僕のお母さんじゃない」


「……でもリョウくんのお母さんは君のことを自分の子供のリョウくんだと思ってるはずだよ。もう一人のリョウくんだって今のところ家に帰ってないみたいだし」


「でも……本人がいないうちに勝手にすり替わったりしていいのかな……」


「……わかんない。とりあえず今日だけはこっちのリョウくんになって家に帰ってみない? もう夜だしご飯も食べないとだし、寝ないといけないし。何かあったらうち来ていいからさ。あとのことはまた明日から何とかしよ。私も手伝うから」


「……ありがとう。どうなるかわかんないけど一回こっちの家に帰ってみる。もしもう一人の僕が帰ってこなかったら明日僕が代わりに学校行くしかないよね?」


「そうだね。その時は学校で会お。あとこれ」


 アスカはそう言うと学習机に向かい、プリントの束の中から一枚選んで持ってきた。


「これ学校周辺の地図。私の家大体この辺。学校はここ。リョウくんの家は多分こっちの方。車の中から外見て道覚えてみて。暗くてわかんないと思うけど」


 アスカはそう言い地図に印をつけて僕に渡す。


「本当にありがとう」


「うん。リョウくん、頑張ってね。大丈夫だから。明日また会おうね」


 アスカはそう言い、僕の手を握って励ましてくれた。そして「明日また会おうね」と言ってくれた。それは僕にとってとても大事な約束だった。絶対に果たさなければならない約束。僕は強く頷いた。その瞬間まで、この知らない世界で明日を迎えることができるなど考えもしなかった。明日の存在を忘れていた。今目の前にある不安やわからなさで一杯一杯だった。けれども僕はアスカのその言葉で明日のことを思い出した。この先どうなるかは何一つわからなかったが、それでも明日はあるはずだった。その明日は多分元いた世界での僕が知っている明日ではなかったが、この知らない世界にも僕の明日は確かにあるはずだった。彼女が口にしてくれたその約束が、僕の目の前に明日をもたらしてくれた。僕をその見知らぬ世界に留まらせ、繋ぎとめ、居場所を与えてくれる、僕をそこで生かしてくれる、そういう約束だった。だから僕は強く頷き「また明日ね」と返した。


 僕は部屋を出て玄関に向かった。靴を履き、もう一人自分の母親の横に立った。


「あれ、あんたそんな服持ってたっけ?」


 母親は僕の格好を見てそう言った。僕はぎくりとした。一瞬「バレた」と思ったが、決定的なものではない。なるべく自然に「持ってたよ。最近着てなかったけど」と返した。持ってる服まで違うのか、ということはもしかすると履いている靴まで違うのかもしれない、と思い僕は履いている靴を母親の視界から隠そうとしたが、そんなことはこの明るい玄関では不可能だった。早く暗い外に行かなければ、と僕は思い「おじゃましました」とアスカの母親にお辞儀をし、その後ろにいるアスカに小さく手を振って素早く外に出た。母親は僕の無作法を叱り、アスカの母親に謝り、最後にもう一度礼を言って外に出てきた。


 外に停まっていた車はもちろん、僕が知っている僕の家の車ではなかった。けれども車は車だ。座り心地の違いなどはあるかもしれないが、何も爆発するわけではない。僕はずっと緊張を内に抱えていたが、なるべく表に出さぬよう努めた。もう隣にはアスカはいない。この知らない世界で僕は一人だった。少なくとも明日学校に行きアスカに会うまでは、僕は一人だった。一人で何とかしなければならなかった。けれどもその時僕はまだ九歳だった。一人で何かをした経験などほとんどなかった。知っている街で知っている店に一人で買い物に行くのとはわけが違う。


 再び不安と恐怖がやってきた。けれども僕はもう、厳密には一人ではなかった。この世界に一人きりではなかった。アスカという友人がいる。僕を信じて助けてくれた友人が。彼女に名前を呼ばれ、見出され、頑張ってねと励まされ、大丈夫だからと不安を取り除かれ、明日また会おうねと約束した。それはとても力強い助けになった。もう独りだとは思わなかった。独りと一人は違う。僕は一人でも何とかしようと決意していた。それは経験のないことであったが、ともかくこれからしばらくは一人で何とかしなければならなかったのだ。そうしなければこの世界で生きることはできなかった。


 僕は助手席から必死に夜の街を見ていた。窓の向こうに広がる街は暗くてほとんど何も見えなかったが、僕はアスカの家から僕の家までの道を覚える必要があった。それは明日一人で小学校に行くための助けになるはずだった。母親は運転しながら僕に色々と話しかけていた。けれども僕は道を覚えるのに必死だったのでろくに話を聞いてなかったし、適当にうんうんと返事をするだけだった。母親は「聞いてるの?」と語気を荒らげる。僕はドキッとする。心臓が高鳴る。けれども今はそれの相手をしている場合ではない。優先しなければならないものがあった。僕は窓の外を凝視したまま「うん」と答えた。母親は呆れた様子で溜息をつき、それ以上何も言わなかった。


 アスカの家も僕の家も同じ学区内だったため家にはすぐについた。こちらの世界の僕の家は元いた世界の僕の家と同じでマンションだった。もちろん色や形、階数は同じではなかったが、マンションであるという共通点は僕を少し安心させた。けれども僕は一軒家への憧れもずっと持っていたため少しがっかりした。


 こちらの世界の僕の家であるマンションの一室は、僕が元いた世界の家とそこまで違わなかった。マンションの内装というのはどこもそんなに変わらないのかもしれない。リビングに台所に風呂にトイレ。それに部屋がいくつか。大きさもほとんど変わらないみたいだった。けれどもやはりそこは僕の家ではない。匂いも物も家具も何から何まで僕の家とは違った。一番大きかったのはそこに住む家族が違ったことだ。母親は違った。後から帰ってきた父親も違った。僕には三つ上の姉が一人いて、不思議な事にこちらの世界にも三つ上の姉がいたが、やはりその顔はあまり似ていなかった。もちろん皆僕の家族とは名前が違った。僕は全く別の家の、全く別の家族の一員となったわけだ。そこは未知で満ちていた。九歳の僕はそれらに対し幾らかの好奇心も覚えていたが、やはり不安や恐怖、緊張の方が圧倒的に勝っていた。それにあまりきょろきょろと物珍しそうに部屋の中を眺め回していたら怪しまれてしまう。僕はとにかく平静にしていようと努めていて、初めはろくにものを見ることができなかった。ピントが合わないみたいに世界のほとんどがぼやけていた。それは不安や恐怖からきているものであったが、やはりまだ身も心もそれらを直視する準備ができていなかったのかもしれない。


 家に着き中を見て回り、自分の部屋(と言われた場所)に僕は入った。その過程の中で僕は多くの「もう一人の僕」の形跡を目にした。もう一人の僕、この世界の僕の持ち物の数々。それらを見て僕はもう一人の僕のことを思い出した。この家に本来いるはずの、この世界の僕。けれども彼は不在だった。どこにいるのかもわからなかった。彼は一体どこに行ってしまったのだろう? 僕は途端に心配になった。恐れもあった。彼はこの暗い夜の街のどこかにいるのだろうか。迷子になっているのだろうか。それとも何か事件に巻き込まれてしまったのだろうか。あの井戸よりもっと深い穴のような場所に落ちてしまい、出られなくなってしまったのではないだろうか。それとももしかすると、アスカが言ったように僕と交換で僕が元いた世界に行ってしまったのだろうか?


 僕は恐ろしかった。自分が全く知らない別の世界に迷いこんでしまったということも十分恐ろしかったのだが、ここにいるはずの人間がいないという事実もまた十分に恐ろしかった。しかもそれがこちらの世界にいたはずの「もう一人の僕」なのだから、なおさらだ。


 こちら側の世界からいなくなってしまったもう一人の僕。それはある意味では僕のせいであった。僕がこちらに来るまでは、確かに彼はここにいたはずなのだ。生まれ育ってきたこの世界に。けれども僕が何らかの理由でこちらの世界にやって来てしまったせいで、彼は今ここにいない。死んでしまったわけではないだろうが、ともかくいないことは確かだった。あくまでその時点で家に帰ってきていない、親もその居場所を知らないということではあったが、僕にはなんとなく彼がどこかに消えてしまったように思われた。少なくともこの世界にいないことは確かだ、と感じていた。僕が元いた世界にいないのと同じように。根拠はなかったが、僕にはそういう予感があった。この世界に僕がもう一人いる、という感触がなかった。こればかりはどうしても説明ができない。なんとなくそう感じた、としか言いようがなかった。


 ともかく僕はそのことに対して責任を感じていた。彼が座っていた席を横から来た僕が奪ってしまった。それは望んだことではなかったし自分でしたことではなく、あくまでどうしようもなかった偶発的な事故であったが、僕はそのことに責任を感じずにはいられなかった。僕が彼のいた席に座っていることは間違いないのだ。それに僕は彼の席を奪ったどころか、そこに座り彼のふりまでし始めた。それは間違いなく僕が自ら行ったことだった。のっぴきならない事情からいたしかたなくやったこととはいえ、僕は間違いなく自分の意志でそれをした。


 僕はもう一人の僕に申し訳がなかった。本来ここにいてヤマミリョウとして生きているはずの彼に。しかし、だからといって僕に出来ることはなかった。僕はそこで生きるために彼の席に座り彼のふりをする必要があった。もちろん彼が帰ってきたら喜んでその席を返しアスカの家に向かうのだが、結局その日彼が帰ってくることはなく夜が明けた。



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