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九月になったとはいえ上旬で、まだ真夏の暑さは残っていた。それでも多分、温暖化著しい今に比べれば涼しかったのかもしれない。暑さの記憶は、あまりない。けれども探している井戸は薮の中で、だから虫の対策に虫除けスプレーだけは念入りにかけていった。
井戸は、やはり見つからなかった。どこを探してもそれはなかった。まるで忽然と姿を消してしまったかのように。念のため神社の関係者にも尋ねたが、やはりそのような涸れ井戸などないという話だった。わかっていた。わかっていたことだったが、途方に暮れた。本当にもう何も手がかりはないように思えた。私たちは二人で神社の古ぼけたベンチに座り、呆然としていた。呆然としていたのは私だけだったかもしれない。ひぐらしが鳴いていた、気がする。
「――リョウくんは、あっちの世界はどうだった?」
何か話さなければいけないと思い、私はそう口にした。
「どうって言われても……街は、すごく似てるっていうか、普通にこういう感じなんだけど、でも全然違う場所だった。他も、ほとんど同じっていうか。そんなに色んな場所行ってないから他の街がどうかは知らないけど、でも基本は同じで。日本は日本だったし、学校で習うこととかも別に違いはなかったし」
「そっか……人は?」
「……みんな違った。知ってる人は一人もいなかったかな。近くではって話だけど。でも不思議なんだけど、テレビで見る人とかはそんなに違わなかった」
「そうなんだ……私はいた?」
「……学校には、いなかった」
「そっか……そうだよね。リョウくんだって、あっちのリョウくんもそう言ってたし……」
「うん……その、アスカはこれからどうするの?」
「どうするって……」
「……わかんないけど、その、もう一人の俺のこと、探すの?」
「……わかんない。いるのかもわかんないし。けどもしいるなら、助けを求めに、うちに来てるかもしれないから……だから帰らなきゃ」
私はそう言い、立ち上がった。
「リョウくんはどうするの? これから」
「どうしよっか……どうするも何も、戻ってきたし、元々俺はここにいたんだし……わかんないけど、またこっちに慣れてくしかないし……」
「そうだよね……リョウくんは、君はあっちに戻りたいとか、そういうことは思う?」
「……正直まだ、何もわからないし……そもそもほんとにあっちなんてものがあったのかすらわからないっていうか、自信なくなってくるし……ずっと、長い夢でも見てたんじゃないかって」
「でも、その記憶は確かにあるんでしょ? リョウくんの中には」
その問いに、彼は黙ってうなずき返した。
「なら、それはあったんだよきっと。リョウくんが信じないと、多分ほんとになくなっちゃうことだろうし。だから、話したくなったら話してよ。私は聞くから。共有すれば、それはきっとなくならないし、ずっとちゃんと存在するから」
「……わかった」
「うん。いつでも、話したくなったらでいいから。――ねえ、思ったんだけど、記憶っていうか魂だけが入れ替わってたとか、そういうことはありうると思う?」
「……わかんない。けど、一年前のことだからはっきり覚えてるわけじゃないけど、でも一番最初にあっちに行った時服とか靴も多分そのままだったから、だから多分、そういうんじゃないとは思う」
「そっか……そうだよね。ごめんね、なんか色々。リョウくんだってさ、ほんと戻ってきたばっかりで大変なのに。なんでも聞いてよ。こっちのこと。知りたいこと。わからないこと。この一年のこと」
「うん、じゃあ、やっぱりこの一年での変化とか、そういうの教えてもらいたいんだけど」
私は、この一年のことを話した。学校で、彼の周りで、あのリョウくんの周りで何があったのか。その変化。この一年で、変わったこと。そうして話していると、どうしたって彼のことが思い出されてしかたなかった。彼について話していると、どうしてもどうしようもない悲しみに襲われ、涙が溢れてきた。彼の、彼との一年。彼は、確かにここにいたんだと。間違いでもなんでもなく、夢でもなんでもなく、確かにそこに、私のそばに、いつもいたのだと。それは私自身がはっきり覚えていた。それは絶対に確かなものだった。話すたび涙が溢れ、嗚咽が止まらず、何度も言葉が出なくなった。そのたびリョウくんは「もういいよ。ほんとにごめん。もっと落ち着いてから、話せるようになってからでいいから」と私を気遣ってくれた。私なんかより自分のほうがはるかに大変な経験をしているはずなのに。自分のほうが、はるかに困難な状況に置かれているはずなのに。
「ううん、大丈夫。平気。リョウくんにとっては大事なことだから。少しでも早く知っとかなきゃいけないことだから。だから大丈夫。ちゃんと話すから」
私はそう言い、なんとか話し終えた。話し終える頃には日はほとんど沈んで暗くなっていた。
「――わかった。ほんとにありがとう。話してくれて」
リョウくんはそう言った。
「ううん、当然だから。これは私にしかできないことだし、私がしなくちゃいけないことだから」
「そっか……それでも、ありがとう。ほんとに、アスカがいて助かったよ。アスカが全部知ってくれてて。もう一人の俺が、アスカに話してくれてて。俺は、あっちでは誰にも話せなかったから……だから多分、もう一人の俺は、あっちに戻ってるなら、多分誰にも話せないし、誰からも何も聞けないし……だから今頃、すごく大変な思いをしてるかもしれないから……」
「そっか、そうだね……ほんとに、無事でいてくれてるといいけど……」
それから私たちは帰路についた。彼と別れ一人になると、改めて自分が一人であるという事実が突きつけられた。私はもう、一人だった。彼はいなかった。けれどもまだすべてが決まったわけではない。家に帰れば彼が待っているかもしれない。そうだ、もう一人の自分が現れて、慌てて逃げて、行くあてもなく私の家に来てるかもしれない。それを思うと自然と歩調が早まった。私は駆け出し、走って家まで帰った。でもそこには彼はいなかった。誰も待ってはいなかった。おばあちゃんにも尋ねたがリョウくんが家に尋ねてきたということもなかった。それでも私は待った。彼が来るかもしれないと、待った。けれども彼は現れなかった。そうして夜になり、眠る時間になり、私は布団に入った。
彼は、現れなかった。彼は本当に、この世界からいなくなってしまったのかもしれない。それを思うとどうしても涙が止まらなかった。もう二度と彼に会えないのかもしれない。涙を抑えることができなかった。私は布団の中で、暗闇の中で、一人涙を流し続けていた。
リョウくん。リョウくんに会いたい。どうしても会いたかった。どうしても、もう一度だけでもいいから、それが最後でもいいから、彼に会いたかった。
私はどうしても、彼に会いたかった。
*
目覚めたことで、自分がいつの間にか眠っていたことに気づいた。どのような状況であれ人は眠りにつくものなのだとよくわかった。単に泣き疲れただけかもしれない。ともかくどのような状況であれ関係なく学校はあった。そして小学生の私は学校へ通わなければならなかった。支度をしていると、ふと視界にそれが入った。きれいに包装された箱。数日後、彼の誕生日にあげるはずだった、誕生日プレゼント。私はそれを、彼に渡すことができなかった。その行くあてのなくなったプレゼントを見て、私はまた涙を流していた。涙をおさえることなんてできなかった。
私はそれを、彼に渡したかった。自分の手で渡して「おめでとう」と言いたかった。ありがとうと、これからもよろしくねと、そう言いたかった。けれどももうそれも叶わない。叶わないかもしれない。でも諦めるわけにはいかなかった。このプレゼントがここにあることこそが、何よりも彼がここにいた証拠だった。彼は確かにいたのだ。確かにここにいた。そして私は、なんとしてもそれを渡さなければいけない。
どうすればいいかなどわからない。けれども、なんとしてでも彼に会うために、私は自分ができることをする他なかった。
とはいえ、リョウくんを、こちらのリョウくんを巻き込むことはできなかった。まさか「もう一度入れ替わって欲しい」などとは言えないし、そもそもその手段もわからない。同じ世界に同時に二人が存在することもできないのかもしれない。可能なのは、私があちらに行くことくらい。それが叶ったとしても代わりにあちらの自分をこっちに来させることになるのかもしれなかったが、そんなことを考えている余裕などなかった。そもそもあちらには私自体が存在しないかもしれない。そうであれば、そもそも入れ替わり自体不可能なのかもしれない。だとしても、自分だけ行くことだって可能なはずだ。とにかく探さないことには、試さないことには始まらなかった。
井戸。それだけ唯一の手がかりで共通事項だった。私は毎日井戸を探した。井戸があったはずの場所に向かった。けれども当然井戸はなく、現れもしなかった。神社を中心に他の場所の井戸も探した。たとえなくても何かのきっかけに現れてるかもしれないと思い探した。けれどもやはり井戸などどこからも現れなかった。
寝る前にも、毎日祈った。リョウくんが寝てる間にこちらに戻ってきたのなら、自分も寝てる間にあちらにいけるかもしれないと。毎晩祈って眠ったが、目覚めるのは当然自分の世界であった。何も変わらない。手段などない。そうして瞬く間に一年という時が過ぎていた。彼に渡すはずだった誕生日プレゼントは、包装されたままずっとそこに置かれていた。その行き先を失ったまま。
リョウくんも、時たま私に協力してくれた。一緒に探してくれた。それは私の様子を見ていられなかったからかもしれない。何かしらの責任を感じていたのかもしれない。けれどもその時の私には彼を気遣う余裕などなかった。彼はそのうち元いた自分の世界にも慣れていった。もともと九年過ごしていた世界なのでそこに戻るのは比較的簡単だったのかもしれない。もちろん私が知らないだけで彼にも彼の苦労や苦悩があったのだろう。しかし当時の私には、やはりそれを考えるだけの余裕はなかった。
そうして一年が過ぎた頃、彼はようやく、おそらくずっと胸のうちにあったものを、意を決して私に伝えてきた。
「――もうやめにしない?」
彼は、そう言った。
「――やめるって何を?」
「……これを。探すのを。あっちの世界に行く方法とか、あいつに、会おうとするのとか……」
彼はそう言い、顔を上げた。
「もう、多分無理なんだと思う。そもそもあんなことがあり得なかったんだし。井戸だってないし、現れないし。アスカがあっちに行けるかどうかだってわからないんだしさ。こんなことやって、こんなことばっかりやってずっと過ごしてるわけにもいかないじゃんか」
「……そんなこと、ないよ」
「あるよ。アスカはずっと、こればっかりだし。みんなも、心配してるっていうか、アスカは変わったって、暗くなったって。悩みとか心配事とかあるのかもしれないけど何も話してくれないって。遊ばなくなったし、笑わなくなったってさ……ずっと、ずっとそんなわけにはいかないじゃんか。ちゃんと、今いるここでさ、生きてかなきゃいけないじゃん」
「……そんなの、わからないじゃん」
「わかるよ! ありえるわけないだろ!? アスカだってほんとは薄々気づいてるだろ? もう無理だって。不可能だって。そんなことはありえないんだって。そんなのは、無理なんだって。もう、わかってるだろ……? 諦めようよ……もう無理なんだよ。そんなことは、ありえないんだよ……この先どれだけ時間が経ったって、もう絶対に、あんなことはありえないんだよ……」
「……なんでわかるの?」
「……わかるとかじゃなくて、どうかんがえても、アスカはそうしなくちゃいけないと思う。諦めなきゃ。だってそうじゃないと、うまく生きられないじゃん……ずっとここにいない人のことばっかり考えてさ、ここじゃない世界のことばっか考えてて……俺だってキツいんだよ。俺のせいだって思っちゃうし、俺が戻ってさえこなければ。アスカはこんなことになってなかっただろうし、こんな思いしなくても済んだはずだって……」
「……ごめん。でも、リョウくんは何も悪くないよ。別にリョウくんのせいじゃないんだから」
「それはわかってるけど、でもそういうことじゃないんだよ……俺は、ほんとにアスカのことが心配なんだよ。アスカ、諦めよう。もう終わりにしよう。頼むよ。それがアスカのためなんだよきっと。アスカもちゃんと自分のこれからのこと考えて、ちゃんと自分の人生を生きなきゃダメなんだよ……俺だってさ、あっちのことは覚えてるし、忘れることなんかできないし、あっちのみんなに、会いたいって思うことだってあるし、そういうときはほんとに、辛いし悲しくなるよ……俺だって、話してなかったけど、俺だってあっちにも好きな子がいたよ。好きになった子が。俺だってその子と離れ離れになったし、もう二度と会えないんだよ」
「……リョウくんは、まだその子のことが好きなの?」
「……正直に言うけど、俺はもう、諦めたよ。とっくに。だってもう二度と会えないってわかってるし。ずっとこっちにいれば気持ちだって薄れるし……」
「リョウくんはその子に何も話してなかったんだよね。何も共有してなかったんだよね」
「……俺のことは、秘密のことは、何も」
「そっか……じゃあやっぱり、同じじゃないよ」
「だとしてもだよ。アスカだってもうわかってるんだろ? 無理だって。でも自分じゃ、自分一人じゃ諦められないんだろ? 決心がつかないんだろ? ちゃんと線を引けないんだろ? だから俺が、代わりにやるしかないじゃんか」
「……誕生日プレゼントが、あるの……」
私は、言った。
「え……?」
「君が、リョウくんがこっちに戻ってきた時、リョウくんの誕生日のすぐ前だったよね? 私は、彼に、あっちのリョウくんに、誕生日プレゼントをあげるはずだった……私もその少し前に、自分の誕生日プレゼントをもらってて、だから、私も彼にあげたくて、それで、ちゃんといつもありがとうって、これからもよろしくねって、そう、言いたかった……」
気づいたら私は、久しぶりの涙を流していた。
「その、プレゼントが、ずっとうちにあるの……ずっとずっと、私の机の上に、置かれたままなの……リョウくんに渡すはずだったプレゼントが、ちゃんと、箱に入って、包装されたプレゼントが、それがずっと、私の部屋にあるの……ッ!」
涙は、どこからともなく溢れ出てきた。
「渡せなかったプレゼントが! 渡したかったプレゼントが! それがずっと、渡す相手もいなくて、渡す相手のいないプレゼントが、リョウくんに渡すはずだったプレゼントが、ずっとずっと家にあるの……! ずっと私を、リョウくんを待ってるの……なのにどうして諦めることなんてできるの? たった一度でいい、たった一度だけでいいの……一度だけでいいから、私は、リョウくんに会って、それを渡したいの……渡して、ちゃんと、ありがとうって、それで、ちゃんと、好きだって伝えて、ちゃんと、もう二度と会えなくても、ちゃんとお別れが、言いたいだけなの……それも、それもできなかったから私はずっと、辛くて、会いたくて……ただちゃんと、全部を伝えたいだけなの……」
私はそう言って泣き崩れた。心の中に、そして家に帰るたび目にする、そこにずっとあるあのプレゼント。行き場を失った、受け取る相手のいないプレゼント。それは私の、その行き場のない気持ちと同じだった。それが形をなしたものだった。
私はただ、どうしても彼に会いたかった。それが最後でもいいから、どうしても会って、この気持ちを、行き場のないこの気持ちを、伝えたかった。ただそれだけだった。
「――ごめん、何も知らないのに、無神経なこと言って……」
「ううん、いいの……全部、私一人の問題だから。リョウくんが言ってることは全部正しいから。私も、わかってる。無理だって。そんなことは、ありえないって……諦めなくちゃいけないって。ちゃんと、自分の人生を生きなくちゃいけないって」
私はそう言い、顔を上げた。
「ありがとう。ちゃんと言ってくれて。私、がんばるから。徐々にだろうけど、ちゃんと戻るから。諦めるから、全部」
「……言っといてなんだけど、無理してそんなことしなくてもいいよ、多分」
「ううん、必要なことだから。私が、いつかはやらなくちゃいけないことだったから。いつかは、認めなきゃいけないことだったから。だから、ありがとう。ちゃんと言ってくれて」
私はそう言い、笑みを作った。
「戻るよちゃんと。自分の人生に。この世界に」
「……わかった。俺も、なんでも協力するから。なんでも言ってよ。ほんとに、俺にできることはやれるだけやるから」
「ありがとう、ほんとに。私のほうが、リョウくんの力にならなきゃいけないのにね」
「俺は、もう大丈夫だよ。多分。自分のことは自分でちゃんとやるし。多分、アスカの方が大変だろうし」
「そっか……じゃあ、一緒にやろ。手伝ってよ。私も手伝うから。もう必要なんてないかもしれないけど、でもちゃんと、二人ともここで生きられるように」
その日から、私の「社会復帰」は始まった。




