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永遠のyouth  作者: 涼木行
【第一部】 あの世界で君を失い、この世界で君と出会った
12/23

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 そのように中学に入ってからの一年と半年は過ぎた。その間僕は走り、勉強し、家事をこなすだけの毎日だった。アスカの記憶から、あの喪失感から逃げ続けるだけの毎日。


 僕はその間一度だけ同学年の女子に告白をされたことがあった。二年生になってしばらくたってからの頃で、僕は相手のことを知らなかった。見覚えがある気もしたが、同時に全く見覚えがないとも思えた。名前だって同じだった。聞き覚えがあるとも思えたし、ないとも思えた。ようするに、何もかもが僕には判断がつかないほどわからない存在だったのだ。この世界の大部分が僕にとっては関係ないものだと思えていたから。ろくに見ていなかったから。人の顔にしても名前にしても、見ていないのだから僕には区別がつかなかった。


 ともかく彼女に告白をされ、僕はわけがわからなかった。おそらく一度も話したことがないのに、一体何故、と。クラスメイトなどから誰と誰が付き合ってるだとか、誰が誰に告白しただとか、そういう話はしょっちゅう聞かされていた。そうした話を聞いている限り、それは流行りのようなものなのだろうと僕には思えた。何にしても僕には関係のない話だったし、そうした話を聞いてしまうとどうしてもアスカのことが思い出されて苦しかった。だから僕はなるべくそういった話とは関わらないように心がけたし、耳に入らないようにしていた。しかし、ともかく僕はその時実際にそれを体験していた。目の前にはその女子生徒がいた。僕はどうすればいいかわからなかったが、久しぶりにきちんと目の前にいる人のことを見ることができた。というより、見なければならなかった。そういう切迫がそこにはあった。僕は目の前にいる人のことを真面目に見ることで嘘だけはついてはいけないと思った。だから僕は「好きな人がいる」と断った。それは自然と口をついて出たものだった。相手は少し驚いた様子だった。走ることと勉強の虫にしか見えなかった僕に好きな人がいるというのは意外だったのかもしれない。「誰?」と訊かれたので僕は「他の学校の人」と答えた。それは一応は嘘ではなかった。そして僕は頭を下げ、逃げるように足早にその場を立ち去った。


 僕は一人になってから、自分がついさっき口にしたことについて考えた。自分から何かを考えることなんて久しぶりのことだった。僕はそれを考えずにはいられなかった。「好きな人がいる」という言葉は自然と口をついて出ていた。あれから三年以上の歳月が経っていたし、彼女はこの世界にはいなかったし、もう一度会うことなど不可能であるはずなのに、僕の体は自然とその言葉を口にしていた。僕にはその「好きな人」が誰なのかわかっていた。彼女がいないことも、二度と会えないことも、わかっていた。それなのに僕の口は平然とその事実を口にした。


 僕は未だにアスカのことが好きだった。たまらなく彼女のことを求めていた。口にしたことで、僕の全身にそれがはっきりと戻ってきていた。ずっとそれはそこにあって、僕が無理矢理に押さえつけていたのだが、自ら言葉にして口にすることでそれははっきりと息を吹き返した。


 僕は彼女に会いたくてたまらなくなった。胸が強く締め付けられた。喉の奥からあの熱い塊が、今までないほどの強烈な熱を発しながら込み上げてきた。あのどうしようもない喪失感に何もかもを蝕まれた。僕はどうすればいいかわからなかった。僕はアスカが好きだ。多分ずっと好きだ。それはずっとわかっていたことだ。辛いから見ようとせず逃げ続けていただけで、僕はずっとそれを知っていた。けれども僕はどうしたって彼女に会うことはできなかった。僕にはどうすることもできなかった。僕に何ができるだろうか? 僕はこの世界にいて、彼女はあっちの世界にいる。僕はあっちに行くことができない。彼女がこっちに来ることもない。僕は彼女を好きだった。けれども、僕に出来る事は何一つなかった。僕にそれを見つけることは、どうしたってできなかった。


 それから僕は今まで以上に走ること、勉強をすること、家事をすること、そして眠ることにのめり込んだ。僕はなんとか絶えず動き続けようとした。運動の中に住もうと。そうしてなんとかアスカのことを忘れようとした。アスカのことが好きだったが、僕にはそれをどうすることもできなかったのだ。自分にはどうしようもできないことが目の前にあり続けるというのは耐え難いことだった。絶対に手が届かないものがただひたすらに目の前にあり続ける。それははっきりと見えているのに、どうしたってそれに触れることはできない。その絶対的な不能に僕は苛まれていた。それは生きる意味を見失ってしまいそうなほどの絶対的な不能であった。僕は一日一日をその不能からなんとか逃げ切って生き延び続けた。その不能に完全に捕まってしまったら、僕はもう生きることはできないように思われた。



      *



 中学二年の夏休みが終わったその日、何もかもが一変した。


 僕のクラスに一人の転校生がやってきた。その時の僕の衝撃を言葉で言い表すことはできない。その時そこに言葉はなかった。僕はただただ唖然としていた。目の前にあるものが信じられなかった。夢だ、と思う余裕すらなかった。頭の中は果ての果てまで真っ白だった。何もない空白。


 転校生は女子だった。黒板には彼女の名前が書かれた。それから彼女は名前を名乗った。


「滝沢明日香です」と。


 黒板に書かれた彼女の名前の漢字はあのアスカのそれと同じだった。彼女が名乗ったその音も。何より僕は彼女の顔に見入った。彼女の顔は、どこをどう見てもあのアスカだった。もちろんそこにいるのは一四歳の女子だ。けれどもその顔は、紛れもなくアスカが成長したものだった。歳を重ね、少しずつ大人びていき変化したといっても、目や眉、鼻や口の特徴はそのままだった。僕は一目見ただけで彼女がアスカだと思った。いや、「わかった」と言った方が正確かもしれない。彼女の顔が目に飛び込んでくると同時に、僕は彼女がアスカだと何の疑いもなく確信していたのだから。


 僕はどうすればいいかわからなかった。そこにアスカがいる。四つ年を重ねてはいるが、間違いなくアスカがそこにいる。僕はそれを信じることができなかった。だからといって疑うこともできなかった。


 僕は思った。僕は気づかぬうちに「あっちの世界」に来ていたのだろうか? しかしそれはおそらくあり得なかった。その教室も学校も、街も家も何の変化もなかったからだ。ではアスカがこちらの世界に来たのだろうか? その可能性はなくもなかったが、彼女に確認しないことにはわからなかった。一番可能性が高かったのは彼女がこの世界の「タキザワアスカ」であることだ。あのアスカではなく、僕が知らない、僕を知らない、この世界のアスカ。あちらの世界にもう一人の僕がいたように、この世界にいるもう一人のアスカ。


 なにはともあれ、僕はアスカと話さなければと思った。話す必要があったし、話したいと強烈に思った。しかし人前でできるような話ではなかったので僕はアスカと二人きりで話ができる時を待たなければならなかった。しかし転入生の彼女の周りにはいつもクラスの女子たちがいて、僕は近づくこともできなかった。アスカは最初の自己紹介の時軽くどこから来たかだけは言っていた。その地名は僕にとって馴染みのないものであった。あちらの世界のアスカが住んでいた場所とは全く違った。僕がとりあえず知ることができたのがそれくらいであった。


 幸運は放課後に訪れた。彼女は僕も所属する陸上部に入部してきた。彼女は前にいた学校でも陸上部に入っていて、主に走り幅跳びや短距離走の選手だった。彼女の脚は速かったし、女子の中では誰よりも遠くまで跳んだ。僕は彼女が走る姿を見てアスカを思い出した。彼女の走り方、風を切る姿は僕が運動会の時に見たあの九歳のアスカの走りを彷彿とさせるものだった。長距離の僕とは練習が違ったが、部の練習が終わる時は一緒だった。僕はたまたま水道で彼女と一緒になることができた。僕はアスカに声をかけた。


「おつかれ」


 と僕は言った。アスカは顔を上げ、僕の目を見た。真っ直ぐに。あたりは少し暗くなっていたが、近い距離で見るとやはり「あちらのアスカ」にしか見えなかった。彼女が成長した顔に。髪は少し伸び、見ようと思えば男子に見えなくもなかった小学生の頃とは違い少し女性性が増していたが、それでも短めの髪に中性的な顔立ちだった。そしてとても美人だった。


 顔を上げたアスカは笑みを浮かべて「おつかれ」と僕に言った。そして「同じクラスだよね?」と僕に訊ねた。僕は頷き「ヤマミリョウだよ」と少し緊張しながら自分の名前を告げた。その名前にアスカがどういった反応をするか、どんな小さな変化も見逃さぬよう集中して。


 しかしアスカはあっけらかんと微笑んで「ヤマミくんか。よろしくね」と言った。そこには何の反応もなかった。僕にも僕の名前にも、ほんの僅かな変化すら示さなかった。それはある程度想像がついていたことだった。けれどもその笑みと「よろしくね」という言葉に、僕は思わず頬が緩んだ。それは作った笑みではなく、久しぶりに自然に湧いてきた笑みだった。僕は釣られるように小さく微笑み、「うん。よろしく」と返した。


「ヤマミくんは長距離? さっきこっちの練習にいなかったけど」とアスカは言った。


「うん。小学生の時から長距離。タキザワさんは足すごく速いね。さっきちょっと見たけど」


 と僕は言った。目の前にいる中学二年生のアスカがあちらの世界のアスカでないことはほぼ間違いなかった。それでも彼女はどこまでもあのアスカに似ていた。何より彼女は僕と話してくれた。自分からよろしくと言ってくれたし、何かを訊ねてもくれた。僕はそれが嬉しかった。少なくとも拒絶されることはなかったのだから。


「ありがとう。私は跳ぶ方が好きなんだけどね。走り幅跳び」


「そうなんだ。でもこれでうちの部も今までより強くなるよ。タキザワさん自己紹介の時前に住んでたとこ言ってたけどずっとそこにいたの?」


 と僕は訊ねた。アスカは首を振った。


「ううん。転校は二回目。小学二年生の時にも一回してるから」


 それからその前に住んでいた場所の地名を言った。その地名も僕には馴染みのないものであり、もう一人のアスカが住んでいた場所とも違った。やはり彼女がこの世界のもう一人のアスカであることは間違いなさそうだった。それでも僕はどうしてもそれを訊かずにはいられなかった。


「あのさ、どこかで会ったことないよね?」


「ヤマミくんと? ないと思うけど。ヤマミくんずっとここ?」


 とアスカは言った。僕は少し悩んだ。僕は約一年別の世界にいた。けれどもそんなことは話せない。世間一般的には僕は生まれてからずっとここにいたことになっている。僕は頷くしかなかった。


「じゃあやっぱり会ったことないと思うよ。私ここ初めてくるし。県内も」


 とアスカは言った。その時の会話はそれで終わった。部活が終わり、僕らは家に帰らなければならなかった。支度をし、いつも通り一人で家まで歩いていると前にアスカともう一人陸上部の同級生の女子がいた。それを見てアスカの家はこっちなのかもしれない、と僕は思った。けれども僕は女子と一緒に帰ったことなどなかった。そのもう一人の女子は僕と同じ小学校だったが、中学生になってからは同じ部とはいえあまり話したことがなかった。僕から話しかけることなどまずなかった。僕は少し迷ったがそのままのペースで歩き続けた。やがてアスカはもう一人の女子と別れた。これ幸いと僕は少しペースを上げ、アスカに近づいた。そして「タキザワさん」と名前を呼びかけた。アスカは振り返り、笑みを浮かべた。


「タキザワさんもこっちなんだ」と僕は言った。


「うん」


 と彼女は頷き、大体の家があるところを教えてくれた。それは僕の家よりは少し遠かったが、小学校の学区内であった。僕も自分の家の大体の場所を教えるとアスカは「じゃあ途中まで一緒なんだね」と言った。僕らはそのまま並んで歩いた。


 僕はアスカと何を話せばいいのかわからなかった。ただ僕は彼女のことを知りたいと思った。彼女があちらの世界のアスカでないことはわかっていたが、それでもあのアスカと再会できたような気がしていた。彼女と並んで歩き、話しているだけであの喪失感が消えていき、自分の中の空白のようなものが埋まっていく感覚があった。とても大事な何かが、長い間かけて今ようやく自分の元に戻ってきたかのように思えた。


 その時は主に部活のことを話した。お互いの記録のことなどを。僕はまだ二年生であったが市の大会でいつも上位であり、そのことを話すと彼女に感心された。アスカも走り幅跳びで素晴らしい記録を持っていた。うちの学校ではまず間違いなく一番の記録だ。短距離走でもそれは同じだった。僕はふと思い、アスカに年齢を訪ねてみた。アスカはつい先日一四歳になったばかりだと言い、誕生日の日付を口にした。彼女が口にしたその日付は紛れもなくあちらの世界のアスカの誕生日と同じものだった。一瞬軽い目眩がした。けれども考えてみれば僕の場合もそれは同じだった。あちらの世界の僕もまた、この僕と同じ誕生日だった。おそらくそういうものなのだろう。僕の家の前にはあっという間に着いてしまった。


「今日はありがとね。転校初日だから話しかけてもらえてすごく嬉しかった」


 とアスカは言った。僕は「クラスメイトだからね。部活も一緒だし。家も近かったし」と言い、なんでもないことのように笑みを浮かべた。アスカも笑顔を返してくれた。


「ほんとありがとうね。じゃあまた明日」と言い、アスカは小さく手を降った。僕も手を振り返し「また明日」と返した。そしてアスカに背を向け、家に帰った。


 それは実に四年ぶりの「また明日」だった。アスカとの「また明日」が、四年ぶりにそこに帰ってきていた。僕がこちらの世界に戻ってくる前の日に僕らはいつも通りに「また明日」と約束を交わし合ったが、それが果たされることはなかった。この四年間ずっと、一度もなかった。それが今、ようやく、四年の月日を隔てて、ここに戻ってきた。僕は四年ぶりにその約束を果たすことができた気がして涙が込み上げてきた。



 翌日の部活後、アスカに「方向が一緒だし一緒に帰ろうよ」と誘われた。そこにはもちろん昨日もいたもう一人の女子がいた。僕は少し悩んだが別に嫌いな相手というわけでもないし、アスカがいるならばと一緒に帰ることにした。もう一人の女子は僕が了承したことを少し意外そうにしていた。僕が基本的には無口であまり人と関わろうとしない人間であり、女子に対してはなおさらだった。しかしともかく彼女は得に異を唱えることもなく、僕らは三人で帰るようになった。彼女は途中で道を別れたので、そこからは僕とアスカ二人だった。何はともあれ、アスカに誘われたことが僕は嬉しかった。


 数日後、学期が変わったということですぐに席替えが行われた。その席替えによって僕は元のものよりアスカと近い席になることができた。僕の中学校では昼食は弁当であったが、弁当を食べるときは席をくっつけ六人程の班になる決まりがあった。僕はそれによってアスカと同じ班になることができた。アスカの席は僕の左斜め前であった。あちらの世界にいた小学生の頃から、僕はつくづく運が良かった。席替えに関しては異常な幸運を発揮した。それによって僕は教室にいる間もアスカと近いところにいて頻繁に話すことができた。僕はアスカとはよく話した。自分から話しかけることもあったし、話題を振ることもあった。僕はアスカと話すようになってから自然と笑えるようになった。笑顔は増えたし、楽しみや喜びといった感情も戻ってきた。それは自分でも不思議なことだった。意識して行っていたことではないが、アスカと出会い話すようになってから、他の人と話す機会も増えた。他の人に対して自分から話しかけることや話題を振ることも。そして笑い、楽しむことも。それは意識的なカモフラージュなどではなく、アスカと出会い話すことで自然に引き出された、引き寄せられたといったものであった。アスカが僕をそうした方へ極自然に誘ってくれていた。彼女が僕をこの目の前の現実に引き戻してくれていた。僕はちゃんと、そのアスカがいるこの世界を見るようになっていた。アスカだけではなく、目の前にあるこの世界の多くを、きちんと。それから僕はたまに「変わった」とか「明るくなった」とか言われるようになった。僕は特に意識したことがなく、気づいていないというより何も変わったことなどない普段通りだと思っていたので少し驚いた。


 僕はアスカとすぐに仲良くなることができた。もっとも、アスカと仲良くなれないものなどおそらく一人もいなかっただろう。アスカは誰からも好感を持たれるくらい明るく、親切で、多くを受け入れ、柔和であり、誰に対しても分け隔てなく公正かつ公平であろうとする人だった。彼女はすぐにクラスにも部活にも学校にも溶け込んだ。すぐに皆に受け入れられた。彼女は誰とでも親しげに楽しげに話し、関わった。笑顔が耐えない人だった。声を上げて大きく笑うようなものではなく、そこに佇み何もかもを受容するような柔和な微笑み。彼女は多くの人に好かれ多くの人と関わった。


 僕はその中でも得にアスカと親しい方だったかもしれない。理由はわからないが、きっかけはおそらく初日のことだろう。僕らはクラスや席の近さや部活や帰り道や家の近さといったいくつかの共通点を持っていた。そうした理由からか、彼女から僕に話しかけてくることも多かった。



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