10
それはあまりにも唐突だった。八月の下旬に夏休みが終わり、すぐに八月も終わった。九月になると僕の誕生日はすぐそこだった。それまでの間、僕らの生活にはなんの変化もなかった。長い夏休みが終わり二学期が始まったとはいえ、その毎日の中で行われるあれこれは以前となんら変わらないものであった。どこまでも延々と続いていくようにすら思える繰り返しの日々。しかし繰り返しなどとは少しも感じない毎日が新しく楽しい小学四年生の日々。家族も友達もクラスメイトもアスカもそこに変わらずいた。
けれども僕が彼らと誕生日を迎えることはなかった。アスカのプレゼントを、僕がもらうことはなかった。
それがいつどのような形で起こったのか、僕には全くわからない。大体の時刻ならわかるが、それはあまり意味を持たない。僕にはどうすることもできなかった。もしかすると何かしらできたのかもしれないが、どうしてそれが僕にわかるだろう? 僕はただ眠っていただけなのだ。夜になったから、眠気を感じていたから、頻繁にあくびをしていたから、眠らないことには明日が来ないから。人間は皆寝る。眠らなければ死んでしまう。どれだけ起き続けようとしても、いずれは抵抗むなしく崩れるように意識を失う。僕は眠らなければよかったのだろうか? あの時、あの時間に眠らなければ。それともあの日一晩中起きていれば。でもどうしたってそんなこと僕には知りようもなかったのだ。
僕はただ眠っていただけだ。それは九月に入ったばかりで、誕生日の数日前のことだった。僕はいつも通りにベッドに入り電気を消し、数分で眠りについた。次の日も平日で学校があった。それは普段と何ら変わらない静かな夜だった。
僕はぐっすりと眠り、翌朝目を覚ました。起きたのは母親の起こす声を聞いたからだ。僕は目を覚ました。ついさっきまで何か夢を見ていた気もしたが、それを思い出すことはできなかった。それは急速に薄れ行き、やがて空中に溶けてしまった。僕は体を起こした。体を起こしたところで強烈な違和感を覚えた。狭さ。暗さ。窮屈感。圧迫感。一瞬世界が縮んでしまったかと思ったくらいだ。しかし僕はすぐにそれに気がついた。目の前に、すぐ頭上に見慣れぬものがある。いや、僕はそれを知っていた。随分と久しぶりだったが、嫌というほど見慣れたものであった。二段ベッドの上段部分。一階部分にとっての天井。眠りについた時にはなかったそれ。
僕は我が目を疑った。寝ぼけているか夢を見ているかと思った。急いでベッドから出て部屋の中を見回した。よく知った室内。僕はカーテンを開けた。朝日が部屋の中に入ってきた。眩しさに目を眩ませながらも僕はベランダに出て外を見た。久しぶりだが、よく知った街並み。九年間暮らした、生まれ育った街。僕は部屋の中に戻った。これは夢なんだと思い自分の頭を何度も叩いた。ただ鈍い痛みが残るだけだった。僕が部屋に戻ると丁度姉が二段ベッドの上から降りてくるところだった。久しぶりだが、よく知っている姉。身長は伸び、顔つきは少し変わっていたが、けれども間違いなく僕の本当の姉。僕が元いた世界、僕が生まれ育った本当の意味での僕の世界の、僕の実の姉。あまりにも唐突で何の前置きもなかった一年ぶりの再会。
姉は僕を見て「おはよ」と言いそのままリビングへ向かった。僕はわけがわからなかった。その「本当の姉」と僕はほとんど一年ぶりに会うはずだった。少なくとも僕にとってはそうだった。けれども姉は僕がそこにいるのが何でもないことのように「おはよう」と言い、リビングへ向かった。僕はわけがわからなかった。しかしともかく、その時点においてそこは僕がよく知る世界だった。
僕はリビングに向かった。ダイニングテーブルには姉と父が座っていた。約一年ぶりに会う、僕の本当の父親。父親は僕の顔を見て「おはよう」と言いテレビのニュースに視線を戻した。
キッチンには母親が立っていた。母親は朝食の準備を終えるとすぐに席についた。その顔もまた、約一年ぶりに会う僕の本当の母親であった。僕はわけがわからず、とりあえず急いで洗面所に向かい口をすすいで顔を洗った。鏡に映る僕の顔は紛れもなく僕のものであった。この家で最後に見た九歳になったばかりの小学三年生の顔ではなく、一〇歳を目前に控えた小学四年生の顔。僕は頭がおかしくなりそうですぐに鏡から顔をそらしリビングに戻った。僕の本当の家族である三人は席について僕が来るのを待っていた。僕は何も言わない。いや、何も言えない。黙ってイスに座る。家族四人全員揃ったので「いただきます」と言い朝食を食べ始める。僕ものそのそとそれらを口に運ぶ。食事なんてしている場合ではなかった。ものを食べてる気がまるでしなかった。僕の頭はまだその突然の変化、いや、唐突な帰還についていくことができずにいた。
僕は帰ってきていたのだ。本当の僕の家に。夜、眠っている間に。僕の意思とは無関係に、僕が気づかぬうちに。意識がない間に。
テレビのニュースに今日の日付が出ていた。僕は反射的にそれを見た。そこに書かれた日付は「今日」のものだった。あの別の世界の昨日、アスカがいた世界の昨日から続いている「今日」。年も月も日も曜日も何一つ変わらない。僕はやはりこれは夢なのだと思った。けれども同時にこれが夢でないこともわかっていた。というより、夢である気がまるでしてこなかった。夢だと思いたかったが、自分の体がそれを許さなかった。夢だと信じることができなかった。僕は悩んだ末に口を開いた。
「ねえ」僕は家族らに呼びかけた。皆顔を上げ僕を見た。「あの、変なこと聞くけど、僕昨日もここにいた?」
僕のその質問に家族のみんなはポカンとした。こいつは一体何を言っているんだろう、といった具合に。
「ここって家にってこと?」
と目の前の席に座る母親が言った。僕は黙って頷いた。「いたに決まってるじゃない。あんたの方がよく知ってるでしょ。どういうこと?」と母親は訊き返してきた。
「……その、僕は昨日の夜もちゃんといて、あのベッドに入って寝たの?」と僕は言った。
「私がベッド入った時普通に下で寝てたけど」と姉が答えた。
「なんだ寝ぼけてるのかお前? しっかりしろよ」
と父親が笑って言った。父親がそう言うと母親も笑った。僕は困惑したままうつむき、朝食を続けた。僕にはやはり何がなんだかわからなかった。これからどうすればいいかもわからなかった。けれども今日が平日であることはわかっていた。普通に学校があるのだろうということも、なんとなくわかっていた。小学四年生の(その時はまだ「であるはず」であったが)僕は小学校に行かなければならなかった。僕はこんなわけがわからない状態で小学校など行けるわけがないと思ったが、同時にわけがわからないからこそ行かなければとも思った。自分の目で確かめなければ。確認しなければならないことは山ほどあった。そこはよく知っている世界であったが、同時に知らない世界でもあった。僕は知らなければならなかった。知ってしまうことに恐怖を感じたが、けれどもどうしてもそれを知らなければならなかった。僕はそれを、ちゃんと確かめなければならなかった。
僕は朝食を食べ終えると歯を磨き学校に行く支度をした。部屋に戻るとある変化に気づいた。その部屋は僕が知っているものより広々としていた。具体的に言えば姉の机がなかった。机だけではなく、姉の私物が一つもなかった。二段ベッドの上段を除いて、だが。さり気なく家の中を歩いてみると姉は自分の部屋を手に入れていた。中学生になったからだろうか。それは僕の不在の一年間での変化の一つだった。ともかく僕は急いで学校に行く支度をした。頭はまだよく働いておらず、目の前の現実を受け容れることができずにいたが、僕はなんとか体に力を込めて準備を続けた。あの時とは違う。「世界が変わる」ような体験はそれが二度目だった。それにここは知らない世界ではない。よく知った世界だ。この一年間のことは知らないとはいえ。そのため恐怖や不安はそこまで大きくなかった。ただ、事態についていくことがどうしてもできなかった。僕は自分を守るため、とりあえず自分のルーティンを続けることにした。あっちの世界でしていたことを続ける。幸運なことにその行為はこちらの世界でもしなければならないことだった。すなわち、小学生は学校に行く。
僕は知らない時間割を見て知らない教科書やノートをランドセルに詰め込んだ。それから連絡帳のようなもので今日の予定も確認した。夢から醒める気配は一向になく、それどころか現実味が一層増していくばかりであった。僕は徐々に耐え難い不安のようなものに襲われていった。それは何が原因でどこからくるものかはわからなかったが、僕はいてもたってもいられなかった。何かが恐ろしくてたまらなく、じっとしていることができずにいた。僕の体は無意識にそわそわと貧乏揺すりをしていた。そうでもしていないとその恐怖のようなものに耐えられなかった。僕は泣き出しそうになっていた。どこからともなく涙はやってきていた。涙の理由はわからなかった。ただ僕は何かがたまらなく恐ろしく、身を震わせていた。歯を食いしばって涙を我慢し、僕はランドセルを背負って家を飛び出した。
マンションもマンションの外の街も、随分と久しぶりだったがよく見知った景色だった。変わったところはほとんどない。記憶の中の僕の街そのままだった。けれども僕はそれらをろくに見ることができなかった。帰ってきたという感動もまるでなかった。見るもの全てが僕が元いた世界のよく知ったものであり、その度僕は得体のしれない焦燥感のようなものに急き立てられた。
学校に着く。道は体が覚えていた。けれども学校内では少し勝手が違った。学年が一つ上がり、下駄箱や教室の位置が変わっていた。そういったことは家で確認してあった。冷静だったというより、それ以外にすることがなかった、できることがなかった、せずにはいられなかっただけであった。僕は自分の下駄箱を見つけ、上履きに履き替えた。靴のサイズは上履きも外履きもピッタリだった。それから教室に向かった。そこから先は完全に初めての領域だった。一度も入ったことがない、こちらでの四年生の教室。僕は標識に従ってそこへ向かった。自分のクラスは教科書のネーム欄などで確認していたので間違えることはなかった。教室の前についた時には不安と恐怖と緊張がピークに達していた。僕はアスカのことを思い出した。なんでそんな時に彼女のことを思い出したかはわからないが、僕はそのことを確かに覚えている。僕はアスカのことを思い出し、力を尽くして胸を張った。やましいことはなにもないのだ。僕は何も悪くないのだ。何故その時そんなことを思ったのかはわからないが、僕はアスカを思い出し、自分をそう奮い立たせ教室に入った。
教室の中は初めて見るものであったが、見覚えはあった。三年生の時の教室とさほど変わらない。約一年ぶりであったが、見覚えは確かにあった。一瞬懐かしさすら感じた。
「おはよう」
と一人の男子が声をかけてきた。元いた世界、つまりこの世界での僕の友達の一人だった。一年ぶりに会う彼もやはり少し体が成長していた。けれども僕には彼が誰であるかひと目でわかった。しかし僕には一年間の空白があった。この世界に不在だった一年。周りの人にとってはそうでない一年。家族の話や反応を見る限り、僕はこの一年間この世界にいたことになっている。僕はこの一年あちらの世界に行っていたというのに。
僕はすぐに「あちらの世界」のもう一人の僕のことを思った。僕が「あちらの世界」に行ったことで「あちらの世界」から消えてしまった、「あちらの世界」に元々いたもう一人の僕。やはり彼がこちらに来ていて僕の代わりにこの一年ここで生きていたのかもしれない。
僕はその友達に「僕の席どこだっけ」と聞いた。おかしく思われることを危惧するような余裕はどこにもなかった。友達は少し目を丸くし「そこだよ。忘れたの?」と言ってある席を指さした。僕は「ちょっと熱っぽくて頭ぼーっとしてるんだ」と答え席についた。そしてランドセルから教科書などを取り出し、机の中に入れた。
とにかく、僕は何もせずじっとしていることはできなかった。自分の席に座り教科書やノートを読み、この世界のことを知ろうとした。けれどもそれはほとんど頭に入ってこなかった。誰かが教室に入ってくる度僕はそれが誰かだか確認した。目に入ってくるのは一年ぶりで多少の変化はしたとはいえ、見覚えがあるクラスメイトたちばかりであった。僕は自分の教室に彼女の姿を探した。いるわけがなかったし、いないこともよくわかっていたが、それでも探さずにはいられなかった。万が一、ということはあるかもしれない。どんなことでも可能性はあるはずだ。
しかし彼女がその教室に現れることはなかった。チャイムがなり、担任の先生がやってきて朝の学活が始まった。僕はただただ怯えていた。見えてはいたが見たくないそのたった一つの事実に対し、体の底から怯えていた。
学活が終わると僕は隣の教室に向かった。教室中をぐるりと見回したが、そこに彼女の姿はなかった。当たり前だ。わかっていることだった。それでも僕は探さないわけにはいかなかった。探さずにはいられなかった。それを信じることを、受け容れることを僕の全てが拒絶していた。熱い塊が喉の奥からせり上がってきた。僕はもう少しで声を上げて泣き出してしまいそうだった。僕はなんとかしてそれを飲み込んだ。水道の水をたらふく飲み込んで押し返した。地に足がついている感じがしなかった。全身に力が入らず、体をどう動かせばいいのかうまくわからなかった。
僕はもう少しで体の真ん中からぽっきりと折れてしまいそうだった。僕は担任の先生に朝から具合がわるいので保健室に行くと言い、授業から逃れた。保健室で体温を測ることになったが熱はほとんどなかった。それでも僕の気分の悪さ、脱力感はあまりにも強烈で僕は一度保健室のベッドに横になると起き上がることができなかった。僕はそこで眠ることになった。保健室の先生がカーテンを閉めてくれたが、僕は眠ることなんてできなかった。そうして一人になると涙が再びせり上がってきた。僕は歯を食いしばり、拳を握り、なんとかそれらと戦った。ここで泣いてしまうわけにはいかない。今折れてしまうわけにはいかない。それはダメだ。僕にはしなければならないことがあるんだ。まだ決まったわけじゃない。まだ可能性はある。諦めてしまったらその僅かな可能性すら消え去ってしまう。僕が頑張らなければいけないんだ。僕以外にそれをできる人間はいないんだ。
僕は戦った。周りから隔絶されたそのベッドの上で、一人戦った。一時間目一杯戦い、僕はなんとか体を起こして教室に戻った。そして授業を受けた。僕は生きなければならない。彼女に会うために、生き続けなければならない。そのためには教室に戻り授業を受けなければならない。僕は小学四年生だったから、生きるためにそれをしなければならなかった。
僕は昼休みになると職員室に向かった。そこで担任の先生にこの学校に「タキザワアスカ」という生徒はいないか訊ねた。先生は調べてくれたが、やはり彼女はこの学校にはいなかった。僕は図書室に向かい地図を確認した。この街の、この県の地図。地形も名前も僕がよく知っている生まれた世界のそれだった。僕は自分の県の地図をじっくり見た。その地名、僕が一年間を過ごしたあちら側の世界の街を探したが、それを見つけることはできなかった。
放課後になると僕は真っ直ぐあの神社へ向かった。そもそもの始まり、あの井戸があったあの神社。神社はそこに、僕がよく知る姿のままで待っていた。あの藪もすぐ傍にあった。僕は井戸を探した。念入りに何度も探したが、それはそこにはなかった。形跡一つ残さずすっかり消え去っていた。僕は神社の人に井戸のことを訊ねた。帰ってきた答えは「井戸なんてない」というものだった。
目の前が真っ暗になった。僕は神社のベンチに腰を下ろし呆然としていた。あの井戸はない。あちらの世界で探した時と同じように、こちらの世界でも綺麗さっぱり消え去ってしまっている。もう二度とあちらに行くことはできない、と僕は思った。途端にそれまで経験したことがない強烈な深い絶望に襲われた。まったくの闇。虚無。そのまま死んでしまうのではないかと思えるくらいの無が自分の内側からやってきて、僕の全てを侵食してしまうかのような感覚だった。それは人間の内側にあるブラックホールのようなものだ。
けれども僕はあの井戸がなくてもこちらの世界に戻ってきたのだ。僕はその事実に寄りかかりながらなんとか立ち上がった。そして家に帰った。家に帰ってから僕はインターネットを使い色々と調べた。この世界が間違いなく僕が元々いた世界であること。それは家にあったアルバムなどでも確認した。その世界の歴史、家族の歴史は僕の記憶の中にあるそれらと一致していた。しかしそこには僕が知らない一年間、僕が不在だった一年間が絶対的な断絶として横たわっていた。その一年にこの世界であったことを、僕は何一つ知らなかった。そこには僕が知らない僕がいた。そういうことはこの世界に戻ってきてからしばらくの間、頻繁に僕のところにやってきた。その僕が誰なのかは僕にはわからない。やはりあちらの世界の僕なのかもしれない。けれどもそんなことは今となってはどうでもいいことだった。それがこの僕でないことは変えようのない事実だった。「僕だ」として目の前に現れる僕が知らない一年間の僕はどうしたって僕ではなかった。僕は僕でなくなったような不思議な感覚があった。それは僕じゃない。だというのに周りのみんなはそれが僕だという。じゃあ僕は誰なんだ? そう思わずにはいられない時もあった。僕はその世界の僕と何かしらの距離を感じずにはいられなかった。確かにこの世界の僕は僕であるのだが、同時にこの僕ではない、という複雑な状態。僕は徐々にこの世界に居場所がない気がしてきた。ここは自分の居場所ではないと、ここには自分の居場所がないと、そういう絶対的な距離を感じるようになっていった。しかし僕にそれを感じさせた最大の要因は、彼女の不在だった。
僕はインターネットで彼女のことを探した。もしかするとこの世界のどこかに彼女はいるかもしれないと。それはもう一人の僕のようにあのアスカとよく似た「もう一人のアスカ」かもしれなかったが、僕にはそんなこと考えも及ばなかった。僕は彼女を探さずにはいられなかった。彼女と会うためにあちらの世界に戻りたかった。元の世界に戻ってきたことへの喜びはなかった。僕はただ彼女に会いたかった。会わなければならなかった。それは僕にとって何よりも大事なことだった。この世界に戻ってきたことよりも。
インターネットで彼女を探しだすことはできなかった。相手はただの小学四年生だ。同じ名前の人物は何人もいても、それらはみな僕が会いたいアスカではなかった。僕は市内の小学校も回った。そこで「タキザワアスカ」という女子生徒がいるかも訊ねた。彼女はどこにもいなかった。
僕はどうすればいいのかわからなかった。学校に行っていない全ての時間を彼女を探すことに費やした。あちらの世界に戻る術を探した。何度もあの神社へ行き、また井戸が現れてないか探した。僕はそれをほとんど一人で行った。一人でやらなければいけないと思ったし、それができるのは僕だけだった。誰かの力を借りることなど思いつきもしなかった。僕はただ必死だっただけだ。けれども僕はまだ小学四年生で、どうしようもなく無知で無力だった。僕に出来る事は少なく、どうすればいいかもわからなかった。
僕は僕なりに彼女を探した。彼女がこの世界にいないことは薄々勘付いていた。この世界とあの世界は違う。この世界にアスカはいないし、いたとしてもあのアスカではない。それでも僕は探さずにはいられなかったし、毎日のようにあちらの世界に戻ることを祈っていた。
しかしやがて僕にできることはなくなっていった。何をすればいいのかわからず、ひたすらに途方にくれていた。彼女を探して動き回っている間は薄れていた絶望のようなものが再び戻ってきて僕を蝕んだ。僕は二度とアスカに会えない。そう思うと耐え難い苦痛と悲しみに襲われた。
僕はアスカがいないこの世界に馴染もうと努力もした。僕は元々この世界で生まれたのだし、ここが僕の世界なのだと。けれどもそれを上手く行うことはできなかった。アスカは元々いなかったのだと思おうとしても、彼女と過ごしたあの一年の記憶がなくなるようなことはなかった。僕はアスカを忘れることがどうしてもできなかった。忘れなければならない、忘れたほうがいいとも考えたが、僕はアスカのことを忘れたくなんてなかった。彼女のことを考えずにはいられなかった。いつだって頭の中に彼女のことがあった。目の前にいるからこそ絶えず想うのではない。不在だからこそ、そこに空白があるからこそ僕はその喪失を感じずにはいられなかった。「いない」という強力な不在がいつだってそこに存在していた。
僕は徐々にこの世界と距離をとるようになっていった。自分からとったというより、そうせざるを得なかった。距離をとらないことには生きることができない。僕はあまり友達と遊ばなくなった。遊ぼうなどという気力がどこからも湧いてこなかったし、遊んだとしてもそれを楽しむことができなくなっていた。友達といる時も遊んでいる時も、絶えずアスカのことが頭によぎった。アスカの記憶はいつも耐え難い喪失とともにやってきて、その度僕はたまらなく悲しい気持ちになった。体の隅々に苦しみと痛みが走った。僕は自分が空っぽになってしまった気がした。自分にとってもっとも大事なものが失われてしまい、それによって自分の中にあったものが何もかも何処かへ行ってしまったかのように感じられた。
僕は自分の半身を永久に失ってしまった。それをあちら側に置き忘れてしまい、永遠に取り戻すことができない。そういうあまりにも巨大で絶対的な喪失を全身で感じていた。その頃の僕は喪失などという言葉を知らない。僕はただアスカがいないことが辛くて苦しくて仕方なかった。僕はアスカに会いたくてたまらなかったし、彼女がいないという事実から逃げたかった。僕はそれから目をそらし、忘れてしまいたかった。僕は多分あらゆる感情をあちら側に置き残してしまっていた。喜びや楽しみ、そういったものを何もかも忘れてしまったかのように僕はこの世界に何かを感じることができなくなっていた。手元に残っていたのはアスカの不在だけだった。それに伴う強力な喪失感だけだった。
そして僕は走るようになった。




