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永遠のyouth  作者: 涼木行
【第一部】 あの世界で君を失い、この世界で君と出会った
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「創造的人生の持ち時間は十年だ」というセリフを聞いた時、僕は深く頷いた。これは宮崎駿の『風立ちぬ』という映画に出てくるカプローニという男の言葉だが、僕が深く頷いたのは「創造的人生」の方ではなく「十年」という限定された時間の方だった。


 十年。多分、十年しかない。「創造的人生」うんぬんはともかく、僕たちに与えられているのはあの最初の十年だけなんだ。


 十年。それはどのような時間だろう。長いのか、短いのか、それは人によって違うかもしれない。時代によっても違うはずだ。一〇〇年も昔ならともかく、あらゆるものが加速していて変化が著しい現代において、十年もの時間があれば多くのことが様変わりするはずだ。けれども同時に変わらないものは何一つといっていいほど変わらないのだろう。


 年齢によっても違うはずだ。生まれてから十歳までの十年は、恐るべき成長と変化の十年だ。何もかもが真新しい十年。一日一日、一瞬一瞬が全て異なり、決して替えが効かないであろう十年。


 十歳から二十歳までの十年は、その前の十年と比べれば大したことはないかもしれないが、やはり恐るべき変化と成長に満ちた十年だろう。でもその後は? 二十歳からの十年、三十歳からの十年、四十歳からの十年……。そこには恐るべき変化や成長、代替不可能な一瞬一瞬は果たして存在するだろうか? 僕にはわからない。僕はまだそれらの半分だって経験していないから。


 僕は時々思うことがある。人間にとって本当に生きるに値するのはあの十年だけなのだと。決して替えの効かない、二度と取り戻すことができない、子供の時期の十年。物心ついてからの約十年。二~四歳頃から始まり、一二~一四歳まで続く十年。そこで終わり、消えてしまい、二度と取り戻すことのできない十年。


 僕はもうその十年を過ぎた。僕の替えの効かない十年。僕はいつだってその十年を抱えて生きている。僕は僕の始まりがあるその十年から決して逃れることはできない。あれから何年も過ぎた今だって、たまにあの十年のことを思い出してふいにやるせない想いがやってくることがある。だからまぁ、今となっては『キャッチャー・イン・ザ・ライ』でホールデンが言っていた「だから君も他人にやたら打ち明け話なんかしない方がいいぜ」という言葉がよくわかる。一度それらについて何か一つでも思い出してしまえば、例え「打ち明け話」をしていなくとも、彼の言うとおり誰彼かまわず懐かしく思い出してしまったりするからだ。そうなると彼らに会いたくてたまらなくなったり、彼らが今ここにいないことがどうしようもなく悲しくなってきて、僕の足は「今ここ」から離れてしまう。そうなると、どうにもうまいこと「今ここ」を生きられなくなったりもしてしまう。「どうか元気でいてくれよ」と祈り、振り返らずにそこから立ち去ることもできなくもないのだが、どちらにせよどうしようもない感傷だ。だというのに僕はこれからその「打ち明け話」をしようとしているのだから、どうにもろくに自制ができない人間だということかもしれない。けれどもこれからする「打ち明け話」は、言ってみれば「『打ち明け話』に関する打ち明け話」なので、まぁ例外ということにしておこう。



 十年。僕の十年の始まりがどこなのか、僕にはわからない。判断がつかないんだ。覚えていないとも言える。「物心がつく」というが、それがいつだったかはっきりと覚えている者はいるのだろうか。それは覚えている範囲での、一番最初の記憶ということでいいのだろうか。中には母親のお腹の中にいた頃の記憶があるなんて人もいるらしいけど、それはおそらく「物心」とは別のものだろう。ともかく、僕の一番最初の記憶。一番最初、だと思うもの。


 僕はその景色をある程度鮮明に覚えている。「ある程度」なのに「鮮明」としか言いようがない、遠い記憶特有の見え方。その記憶を思い出す時景色に色はなかったが、けれどもそこで見たものや感じたことはある程度覚えている。


 僕はその時多分三歳か四歳だった。幼稚園の年少組だったことは間違いない。僕が行っていた幼稚園は僕が年中組に上がった時、新しい園舎になった。けれどもその記憶の中の園舎はまだ古く、木造で平屋のものだった。だからあれは僕がまだ年少組だった時の記憶のはずだ。


 時刻はいつだったか覚えていないが、記憶の中の景色では、それはおそらく夕方だった。やけに世界がオレンジ色に染まっているからだ。窓から射す茜色の夕日。けれどもそれはありえない気もする。夕方まで幼稚園にいることなんてあっただろうか? そんなに遅くまで幼稚園にいるなんて。あの頃の僕は大抵昼すぎには送迎バスで自宅に帰っていた。けれどもともかく、記憶の中のその景色はやけに橙に染まっていた。


 晴れていたことは間違いない。僕らは園庭にいたからだ。僕ら園児は園庭にいて、しゃぼん玉で遊んでいた。僕はしゃぼん玉の液を誤って口の中に含んだ。けれどもそれは誤って、ではない可能性もある。僕はまだ三歳か四歳だったから、好奇心でそれを舐めてみたのかもしれない。真実は誰にもわからない。しかし僕はその味をはっきりと覚えている。口の中に広がるあのなんとも言えない複雑で「ケミカル」な苦味。僕はすぐにそれを吐き出した。そしてぺっぺと唾を吐き、その苦味をなんとか口の中から追いだそうとした。幼稚園の先生は僕がしゃぼん玉の液を飲んでしまったことにすぐ気づき、水道でよくうがいをするように言った。僕は一人園舎の中の水道まで走っていった。そこで念入りに口の中をすすいだ。あのなんとも言えない苦味は口の中から徐々に去っていった。


 僕はその時見た景色を覚えている。それは放課後(と幼稚園の場合言えるのかはわからないが)で、園舎の中には誰もいなかった。記憶の中のその景色はいやに静かで、音が一つもなかった。僕はその誰もいない園舎の中で一人だった。誰もいない世界。自分一人だけの世界。音すらいない世界。


 それはもしかすると僕が初めて経験した孤独だったかもしれない。その時僕は確かに孤独を感じていた。それは僕の最初の記憶でありながら、同時に僕の最初の孤独の記憶でもある。ともかく、その時僕は初めて独りになった気がした。それが独りということなのだとはっきりと体で感じた。園舎の中には夕日が射している。それはとても美しかった。世界の終わりのような美しい景色。時間が止まっているかのように静かで穏やかな景色。けれどもそこには多分風が吹いていた。風で揺らぐ白いレースのカーテンが、その記憶の中の景色にはあった。けれどもそんなもの、幼稚園の廊下の窓についているとは思えない。けれどもそれは確かに僕の最初の記憶の中にあるものだった。その時そこに本当にあったかはわからないが、僕の記憶の中には終わりのその時まであるはずだ。


 僕はそこでしばらく立ち止まってその景色に見入っていた。魂がその瞬間の中に吸い込まれてしまったかのような放心がそこにはあった。それがどのくらいの時間だったかはわからない。時間の流れが失われた放心があり、しばらくしてから僕は急に我に返り、怖くてたまらなくなった。なんだか別の世界に紛れ込んでしまったかのような恐怖だった。その恐怖は初めて経験する「孤独」によるものだったのかもしれない。僕は慌てて逃げるようにその場を離れ、園庭に向かって駈け出した。園庭にはちゃんと先生や友達がいた。そこにはちゃんと音もあった。あらゆる動きに満ちており、時間が目に見えてはっきりと流れていた。僕は心の底からほっとした。全身に暖かさが戻ってきた。自分の世界に、自分がいるべき場所に戻ってきた気がした。


 それが僕の一番最初の記憶であり、一番最初の孤独の記憶だ。


 多分、僕の十年の始まりはここである。



     *



 僕の子供時代は途中まではとても平凡だったと思う。といっても他の人の子供時代がどのようなものであったかは何一つといっていいほど知らないので、それが本当に平凡だったかどうかはわからない。けれどもそれなりに幸福だったとは言えるだろう。いや、かなり幸福だったのかもしれない。ともかく僕はとても恵まれていた。環境や時代、家族や友人などの人々に。運が良かったのだ。


 ただ、僕の十年はその前半と後半で大きく異なった。そこには文字通りの決して越えられない断絶があった。それは誰のせいでもない。そこには意味も理由もないのだと思う。あれはなんだったのか。僕は未だにそれについて考えることがあったが、答えが出ることはなかった。多分答えなんてないものなんだろう。意味も理由もない。原因だってありはしない。そもそも本当にあったかすらわからない。けれども僕はその一年間についてはっきりと覚えている。そこで出会い、共に生きた彼女についても。


 特筆すべき点はほとんどない幼稚園の三年間を終え、僕は小学生になった。小学校は最寄りの公立校だった。これも特筆すべき点はない地方都市の普通の小学校。僕の学年は七〇人ちょっといて、一クラス三五人前後で二クラスあった。校舎は三階建てで南校舎と北校舎、それらを繋ぐ中央校舎があった。地方都市なので土地はそれなりにあり、校庭はそこそこ広かった。体育館だってそれなりに大きく、屋外プールもあった。校庭には何故か小さな山があり、冬にはその山の坂でスキーの練習をした。僕が生まれて育った場所はいわゆる雪国で冬には沢山雪が積もった。校庭には鳩などが住んでいた飼育小屋もあった。ヘチマを育てたりもしていた。それでたわしを作ったことも覚えている。職員室に面した中庭には小さな池もあり、そこでは鯉が飼われていた。しかし池の水は恐ろしく濁っていて、鯉の姿をはっきり目にすることは多分卒業まで一度もなかった。校庭には遊具がいくつかあった。僕らは校庭では大抵ドッジボールやサッカー、ドロケイ(地域によってはケイドロとも呼ぶ)などで遊んだ。ともかくそこには色々なものがあった。小学校にあるべきものが、あるべきようにあった。特に小学校に何よりもあるべきである子供の姿と彼らの歓声は、溢れるほどに。


 小学校に入ってからの二年半を僕はあまり覚えていない。色んなことがあったのだと思う。幼稚園から小学校というより大きく多様な場所へ移ったのだから、日々様々なことがあったのだろう。出会うものほとんどすべてが新しかったはずだ。本格的に勉強というものもするようになった。しかし細かいことはあまり覚えていない。朝顔を育てていたとか、それを夏休みには家に持ち帰ったとか、そういうことは覚えているが、そこで自分が何を見て何を感じていたか、何を思い考えていたか、そういうことはほとんど一つだって思い出せない。ある程度の記憶はあったのだが、それが本当にそこにあったという実感があまり持てない。往々にして記憶なんてそういうものかもしれなかったが、そういうこととは少し違った。僕にとってあの時までの九年間は永遠に自分の元から失われてしまった。それを見ることはできるが触ることはできない、といった具合に。それはとても幸福な日々であったし、確かにその時は間違いなく自分のものであったが、今はもう僕のものではない。そういうことだ。



 僕は九歳になっていた。小学三年生の九歳。僕の誕生日は九月の始まりで、それは夏休みが終わってすぐであった。夏休みが終わることは小学生の僕にとってとても寂しいものであったが、そのすぐ先に誕生日があった。そこには普段は絶対に買ってもらえないような高価なプレゼントや大きなホールケーキがあった。一つ歳をとるということは当時の自分にとってはあまり意味のないことだった。ケーキとプレゼント。そこには果てしない万能感すら覚える喜びがあった。僕は運が良い。夏休みが終わってすぐにそれがあったというのは、とても運が良いことだ。


 それは僕が九歳になった九月の終わりのことだ。十月はすぐ目前で、けれども夏の暑さはいつまでも盆地の底に溜まり続けていた。暑いことは暑かったが、小学生の自分にはさほど気にならないことだった。暑いのも汗をかくのも当たり前で、それを不快に思ったりいらついたりするようなことはまるでなかった。天気が良い日が続き外で遊べるのが何よりも嬉しかった。その頃の僕はとにかく外で遊んでいた。テレビゲームや携帯型ゲーム機も持っていたが、外でみんなとボールを追っかけたりしてることの方が好きだった。


 その日はかくれんぼをしていた。山の麓の神社を中心にそれは行われた。そこは草木が多く、川や橋が上下に入り組んでいて隠れる場所は豊富にあった。市街地からあまり離れていないのにどこか別の世界であるかのような雰囲気が漂っていた。それは少しだけ怖かったが、そこには僕ら子供にとっての秘密があった。親や先生、街や大人から離れ隠れることができる秘密。


 僕らは五人でかくれんぼをした。鬼は僕でなかった。鬼が数を数え始めると僕は急いで駈け出した。隠れる四人は皆別々の方向に駈け出した。それは遊びを長引かせるための暗黙の了解のようなものだった。


 僕は藪の中に入り、適当な隠れ場所を探した。もうすぐ鬼は数え終わる。そしたらこんなところに突っ立っているわけにはいかない。僕はとりあえずしゃがんで藪の中に身を隠しながら進んだ。しゃがむことによって気付いたが、藪の中には草に隠れた井戸があった。その井戸には柵や囲いのようなものはほとんどなかった。五センチもないような出っ張りが申し訳程度に丸く囲み、その上にトタンかなにかでできた蓋が乗っていた。僕はそれまで井戸を実際に見たことがなかったので初めはマンホールか何かかと思った。蓋をずらしてみるとその下には穴があった。井戸の中には水はなく、深さも一メートル程度しかなかった。枯れた後危ないので土で塞がれたのかもしれない。けれどもその時僕は「これは井戸かもしれない」と思った。それ以前に何かで井戸を見たことがあるのかもしれない。ともかく僕は井戸というものの存在自体は知っていた。考えてみるとそれはフィクションなどでよく見かける井戸とは違いなんの装飾もないただの穴であったが、僕はそれが井戸だと思った。そして僕は迷うことなくそこに入った。宝物でも見つけたような興奮があった。ここに隠れれば絶対に見つからない。これは最高の隠れ場所だ、と僕は思った。


 井戸の深さは当時の僕の身長より幾らか浅く、立ったままでは頭が少し出てしまう。幸い体育座りをするくらいの広さはあったので僕は中から蓋を閉め井戸の底に座った。蓋を閉めると井戸の中は完全に近い暗闇になった。その日も気温は二五度以上あったが、井戸の中はやけに寒かった。僕は急に心細くなった。地面はある。壁もある。腕を伸ばして蓋を触ってみる。ほとんど見えなかったが確かにそれはそこにあった。それで少しだけ安心するが、やはり不安はなくならなかった。あまりにも暗すぎたし、あまりにも閉ざされていた。外の世界の気配を全くといっていいほど感じられなかった。僕はよっぽど出てしまいたいと思ったが、すぐそこに鬼がいるかもしれないとも思った。もし出てくるところを見られたら捕まってしまうだけではなく、隠れたはいいが怖くて出てきたともバレてしまうかもしれない。僕はそれが嫌だった。そんなこと知られたくなかったし、それでバカにされたくもなかった。小学生の僕にとってそれはとても重要な事だった。弱いところは友達には絶対に見せられない。体は外に出ることを求めていたが、僕は意地を張った。そうして目を閉じ自ら暗闇を作った。僕は目を閉じているだけだ。この暗闇は自ら望んで作ったものだ。そういうふうにして文字通り不安に対して目をつぶった。そうこうしているうちに僕はいつの間にか眠ってしまった。


 目を覚ましてから僕は自分が眠っていたことに気づいた。どれくらいの間眠っていたかはさっぱりわからなかった。目を開けたらそこは暗闇で、僕は驚いて立ち上がった。当然頭を蓋にぶつけ、痛い思いをした。僕は歯を食いしばり痛みが引くのを待ってから蓋を開けた。光が僕の目に届いたが、それは弱々しいものだった。陽はかなり傾き、沈みかけていた。日の光は街から立ち去ろうとしていた。少なくとも一時間以上井戸の中で眠ってしまっていたことは間違いなかった。僕は慌てて井戸の外に這い出た。井戸の蓋を閉め、みんなの姿を探したけれど周囲には誰もいなかった。カラスのなく声だけが虚しく響いていた。


 僕は神社に向かって駈け出した。走りながら「おーい!」と声を上げた。みんなまだ近くにいるかもしれない。そう思って何度か声を上げたが誰かの声が返ってくることはなかった。


 それとは別に、僕には奇妙な感覚があった。なんだか違う気がする。何が違うかはわからなかったが、違和感のようなものがあった。ここってこんなふうだったっけ? こんなものここにあったけ? そういう違和感が絶えずあった。そしてそれは神社の中心に来て確信に変わった。


 そこは確かに神社であったが、僕が知っている神社とは違った。僕が遊んでいた神社とは違った。そこは知らない場所だった。僕は途中で道に迷い違う神社に来てしまったのかもしれない、と思った。けれども神社の周辺は隅々まで探検していて、そんな神社が近くにはないことは知っていた。


 ともかく、僕は道に迷ったのかもしれないと思った。そして不安がやってきた。井戸の中にいた時より強烈な不安。僕は今一度声を上げながら友達の姿を探したが、見つけることはできなかった。みんな僕が見つけられず先に帰ってしまったのかもしれない。そう思うと怒りがこみ上げてきたが、同時に寂しさも増してきた。僕は「みんなはもう帰ってしまったのだ」と結論づけた。それなら自分ももう帰ってしまっていいはずだ、と思い神社を出て家のある方角へ走りだした。


 けれども神社を出てすぐに気づく。やはりそこは僕が思っている神社ではなかった。神社の外は、見たことがない街だった。建物も道も見覚えがない。ここがどこだかわからない。どこまで行っても見覚えのあるものが出てこない。不安は一層増していった。疲れはあったが僕は走り続けた。少しでも見覚えがあるものを、知っているものを求めて走り続けた。けれどもそれは一向に表れなかった。


 僕は道に迷ってしまったのだ。九歳にもなって僕は迷子だった。それは悔しいほど情けないことだったが、その時の僕にはそんなことを考える余裕はどこにもなかった。不安は最骨頂に達していた。

陽は刻々と落ちていく。夜はすぐそこまで近づいていた。このまま家に帰れないんじゃないかと思った。僕は走り続けたが、街はどこまでも僕の知らない場所だった。


 やがて僕は走るのをやめた。歩き、涙がでるのをひたすらに我慢していた。こんなところで迷子になって一人で泣いているわけにはいかない。泣いたらおしまいだ。泣いてしまったら、二度と帰ることはできない。そういう思いが、何故だかあった。泣くわけにはいかない。走ることはやめたとはいえ、歩みを止めることはできない。歩き続けなければ。進み続けなければ。じゃないと、本当に帰れなくなってしまう。


「――リョウくん」


 突然、知っているものが耳に飛び込んでいた。この知らないものだらけの街で、初めて再会した知っているもの。知っている名前。自分の名前。僕は反射的に声がした方を見た。僕の名前を呼ぶ人。そこには僕が知っている人がいるはずだった。


 けれども、そこにいたのは知らない女の子だった。見たこともない女の子。背は自分と同じくらいで、多分歳はほとんど変わらない。髪は短く、中性的な顔立ちだった。肌は日に焼けていた。もっとも僕も僕の友達の多くもこんがりと日焼けしていた。九月が終わろうとしてたとはいえ日差しは真夏のそれだったし、雨もほとんどなかった。プールの授業だって九月いっぱいはあった。夏に小学生が焼けているのは当たり前のことだった。そこに男女の差はあまりない。小学生高学年ともなれば日焼けを気にしだす女子もいたが、僕らはまだ小学三年生だった。そして彼女もおそらくそうであった。


「何してるのこんなとこで」


 その女の子はそう言って僕に近づいてきた。この人は誰だろう、と僕は思った。見覚えが全くない。同じクラスではなかったし、同じ学年でもないはずだった。何でこの子は僕の名前を知ってるんだろう、と僕は思った。けれども彼女が僕の名前を呼んでくれたことは間違いなかった。僕の不安は少し和らいだ。少なくとも僕が僕であることは間違いなかったのだ。そして僕のことを知っている人がいるということは、ここが僕の街であることは間違いないはずだった。


「ちょっと道に迷ったみたいで」と僕は答えた。すると彼女は少し目を丸くして「こんなところで?」と言った。



「うん、こんなところで。あの、名前なんていったっけ」


「私の?」女の子はそう言って自分のことを指さした。僕は小さく頷いた。


「アスカだけど」


 彼女は不思議そうな顔をして答える。その名前に聞き覚えはなかった。アスカ。そんな名前の子は隣のクラスにもいただろうか。一度も同じクラスになったことのない子だろうか。掃除の縦割り班とかで一緒になった学年の違う子だろうか。ともかくやっぱり僕は彼女のことを知らなかった。


「どうしたの? ど忘れ?」


「いや、そうじゃないけど、ちょっと……隣のクラス?」


「何言ってるの、同じクラスじゃん」


 彼女にそう言われ、僕の不安は今一度戻ってくる。違う、僕のクラスにこんな女子はいない。忘れるわけがない。たった三五人しかいない小さな教室だ。いないものはいないんだ。でもこの子は僕の名前を知っている。僕はわけがわからなかった。ともかく早く家に帰りたいと思った。


「アスカさん、はさ、僕の家どこだかわかる?」


「家の場所はわかんないけどここからそんなに遠くないんじゃない? 学校からそんな離れてないんでしょ確か。なんで『さん』つけてるの?」


「あ、いや……じゃあ学校まで連れってくれない? 学校まで行けば家までの道わかると思うから」


「いいけどリョウくんこの辺来たことないの?」


「うん……初めて」


「ふーん、そうなんだ。なんか意外だね。ほんとに道迷ったんだ」


 アスカはそう言って僕の横に並んだ。手が触れそうなくらいの距離だった。僕は少し緊張した。三年生になってからそんな風に同い年くらいの女子と並ぶことなんて初めてだった。放課後、学校の外で、しかも知らない女子と。そんなことは今まで一度だってなかった。


「行こ」


 アスカはそう言って僕の顔を見た。その時僕は初めてちゃんとアスカの顔を見た。二人きりの状況で、そんな近くで女子の顔を見るのは初めてだったからかもしれないが、とてもかわいく見えた。実際アスカは整った顔をしていた。けれども僕はふいに恥ずかしくなり思わず顔を逸らしてしまった。けどすぐに失礼な気がしたのでちらっとだけ彼女の顔を見て「ありがと」とお礼を言った。挨拶と礼。それに謝罪の言葉はちゃんと相手の目を見て言え、と小さい頃から親に言われていた。小学生の僕はそんなに素直にはできなかったが、それを忘れたことはなかった。


 アスカは「うん」とだけ言って歩き出した。僕も小走りに歩き出し、彼女の横に並んで歩いた。並んで歩いていると柔らかないい匂いがした。それはアスカの頭から香ってきた。彼女の髪から。とても自然なシャンプーの匂い。そのせいで僕はますます緊張した。喉の奥が熱くなるのを感じた。そしてあの不安がどこかに消え去ってしまっていることに気づいた。確かに彼女は知らない女の子だったが、僕は安心していた。


 井戸を出てから僕はずっと知らない世界で独りだった。ただの一人とは違う。そこには知ってるものが一つだってなくて(といっても町並みなどは僕が住んでた場所とそう変わらない現代日本のものだったが)、それは小学生の僕に真の意味での孤独を感じさせた。もちろん孤独なんて言葉は当時の僕は知らなかったが、言葉以前の体験としてそれを確かに感じていた。人間の姿はいたるところにあったし車だって道を行き交っていたが、その知らない街は何もかもがよそよそしく見えて、どうしたって越えられない壁のようなものがあって、九歳の僕は自分の世界の中で一人きりだった。けれども彼女は僕に声をかけてくれた。名前を呼び、話し、一緒にいてくれた。確かに彼女は知らない女の子だったが、僕はもうこの世界に一人きりではなかった。


 僕は辺りをきょろきょろと見回した。そこは相変わらず見覚えのない景色だった。アスカはそれに気づき「この辺は来たことある?」と訪ねてくる。僕は黙って首を横に振る。不安は少しだけ戻ってくるが、彼女についていけば大丈夫だと思う。彼女は学校の場所を知っている。そこまで連れてってくれる。学校まで辿り着けば何も問題ない。そのまま真っ直ぐ家に帰るだけだ。その前に彼女にお礼を言って。


 やがて視界が開け学校が見えてくる。けれども、それも僕が知っている学校ではなかった。一目見ただけで小学校だとわかるような校舎、校庭であったが、それは僕がそれまでの二年と半年通っていた小学校とは違った。念のため校門にある学校の名前を見てみたが、やはり知らない名前だった。


「ここまで来れば大丈夫?」


 とアスカは僕の顔を見ていった。しかし僕はその言葉がほとんど耳に入っていなかった。僕がその時どんな顔をしていたかはわからない。多分馬鹿みたいに口を開き、目を丸くし、ぽかんとしていたのだろう。茫然自失。ただただわけがわからなかった。これは僕の小学校じゃない。別の小学校だ。


「――アスカさん、もう一回僕の名前言ってくれる?」


「リョウでしょ?」


「苗字も」


「ヤマミだよね」それは確かに僕の苗字だった。ヤマミリョウ。



「漢字は?」

「ヤマは普通に富士山とかの山で、ミは見るの見。リョウってどう書くっけ? 一文字でなんか口とか払いとか跳ねあったよね?」


「書いてみて」


「書くって……地面でいい?」


 アスカはそう言って学校の敷内に入っていき、校庭に出た。それから石を拾って地面に字を書きだした。僕の名前。亮という漢字を。それは微妙に間違っていたが、確かに僕の名前の漢字にかなり近かった。


「合ってる?」


 アスカは僕の顔を見てたずねた。僕はアスカから石を受け取り、彼女が書いた字の隣に正しい漢字を書いた。


「あーそれそれ。おしかったね」


 アスカは無邪気に笑っていった。僕はアスカに石を返す。


「アスカさんも自分の名前書いてくれない?」


「いいけど」


 アスカはそう言い、またしゃがむ。そうして地面の上に漢字を書いていく。まだ学校では習ってない漢字がいくつかあった。彼女は地面に「滝沢明日香」と書いた。


「これでタキザワアスカ」


 アスカは自分の名前の音を口に出して言った。タキザワアスカ。それはなんだか素敵な響きだった。心地よく爽やかで透き通った音。「滝」や「沢」特有の透き通った水を感じられる音。けれどもやっぱり聞き覚えのない音だったし、漢字も見覚えのないものだった。


「アスカはここに通ってるの?」僕はそう言って校舎を指さす。


「うん。リョウくんだって通ってるじゃん」アスカにそう言われ、僕はびっくりした。


「僕もここに通ってるの?」


「何言ってんの? 同じクラスじゃん。リョウくんほんとどうしたの? キオクソーシツ?」


「違うよ。キオクソーシツなんかじゃない」


 僕はとっさにそう言ったが、あまり自信がなかった。もしかしてそうなのかもしれない、とすら思った。でも僕は確かにそれまでの記憶をちゃんと持っていた。ついさっきまでの記憶も。キオクソーシツだったとしたらその記憶は一体なんなんだ? 


 そこで僕はふとあることを思い出した。本か漫画かテレビで見た「ドッペルゲンガー」という自分そっくりの人間のことを。もしかすると僕と同じ名前で同じ顔の人間がいて、ここに通っているのかもしれない。


「本当に僕はここに通ってるの?」


「うん」


 アスカはそう言って頷く。その顔にはさっきまではなかった困惑の表情が少しあった。


「……あのね、笑わないで欲しいんだけど……それ僕のドッペルゲンガーかもしれない」


「それって自分そっくりの人間のことだよね?」


「うん、そういうの。あのさ、正直言うと僕君のこと全然知らないんだ。全く見たことない顔だし名前も全然聞いたことないし。クラスにもいない。ここだって僕が通ってる小学校じゃない。この辺だって全然見たことないんだ」


 アスカは僕の顔を見て黙って話を聞いていた。ずっと真剣な表情で、真っ直ぐ僕の目を見てくれいた。その振る舞いは僕を安心させた。ちゃんと目を見て話を聴いてもらえると、自分がちゃんとここにいることを実感できた。知らない街の知らない少女の前だったが、自分がここにいることをはっきりと確かめられた。自分がいる場所がどこなのか、わかった気がした。もちろんここがどこなのかはさっぱりわからなかったけれど、少なくとも今僕は確かにここにいる。それはあの独りの不安と恐怖にはないものだった。


「――嘘じゃないよね?」と彼女は言った。


「嘘じゃない」


「からかおうとしてるわけでもないよね?」


「からかおうとなんてしてない。僕は、」


 そう言いかけたところで僕は口をつぐむ。それを言うのはとても情けないことのように思えた。情けないし、恥ずかしい。同い年の女の子に言えるようなことじゃない。それが例え初めて会う知らない女の子でも。


 僕は少し顔を上げる。アスカは真っ直ぐ僕の目を見ていた。そして「大丈夫だよ」と言った。


 それが何に対して言われたことなのかは、今になってもわからない。けれどもその時彼女は確かに「大丈夫だよ」と僕の目を真っ直ぐ見て言った。それで僕は大丈夫なのだろうと思い、ちゃんと顔を上げてアスカの目を見た。


「その、今アスカさんに嘘だと思われるとすごく困るんだ。ほんと全然知らない場所で、アスカさんのことも知らないけど、でもアスカさんは僕の名前ちゃんと呼んでくれたし話しかけてくれたから、その、今アスカさんに信じてもらえなくてどっかに行かれるとすごく困るんだ……ほんとに嘘じゃないんだよ。だから、」


「わかった。信じる」


 アスカは言った。はっきりと、僕の目を真っ直ぐに見ていった。その時僕はタキザワアスカという女の子がどういう人間なのかを知った気がした。それまでもずっと、彼女は僕の目を真っ直ぐに見て話していた。そのことに気づく。彼女はそういう人なのだと僕は思った。ここは知らない場所だったし、彼女は知らない女の子だったけれど、彼女はちゃんと僕の目を見て話を聴いてくれる。言葉を投げかけてくれる。それはその唐突な知らない世界の中で、何よりも助けになることだった。


「ありがとう」


 僕はちゃんとアスカの目を見てお礼を言った。そして少しだけ笑みを浮かべた。あの井戸を出てから初めて僕は笑った。アスカも少し笑って「どういたしまして」と言った。


 それから僕らは近くにあった朝礼台のようなものに腰を下ろした。


「リョウくんが通ってる学校の名前とか住んでる場所ってなんて言うの?」


 僕はそれに答えた。僕が通っている学校の名前。僕が住んでいる街の名前。僕が住んでいるマンションの名前。「知ってる?」と僕はアスカに訊ねる。アスカは少し考え、「聞いたことないかな」と言って小さく首を横に振る。


「なんで道に迷ったの?」


 とアスカは言った。僕は神社で友達とかくれんぼをしていたところから話した。藪の中の井戸の中に隠れたこと。そこで眠ってしまったこと。起きて井戸を出ると陽が傾いていたので多分一時間くらいは眠ってしまっていたこと。井戸を出て友達を探したが多分帰ってしまっていて誰もいなかったこと。その神社が知っている神社と違ったこと。神社を出て家を目指したが街に全く見覚えがなかったこと。建物も道も何もかもが知らないものであったこと。そうして知らない街を歩いている時に、アスカに名前を呼ばれたことを。けれどもどれだけ不安だったか、アスカに名前を呼ばれどれだけ安心したかは話さなかった。


「井戸にいる間に知らないところに来ちゃったってこと?」とアスカは言った。


「かもしれないけど、そんなことありえないよ」


「でも途中寝てたんでしょ? 井戸の中に別の出口があったとか」


「井戸はすごく浅いし狭かったよ。井戸っていうよりただのちょっとした穴だったし」


「じゃあ寝てる間に壁とか地面が開いて別の井戸に移動したとか。あ、もしかして寝てる間に誰かに移動させられたんじゃない?」


「そんなことあったらさすがに起きるよ」


「でも睡眠薬とかで眠らせられてたら?」


「……でもそんなの多分飲んでないし……それに誰がなんのためにそんなことするの?」


「そうだね……あ、あれじゃない? 『千と千尋の神隠し』。見たことある?」


「ジブリの映画でしょ。DVDで見たよ」


「あれみたいにさ、『井戸に入って出たら知らない街でした』って。ああいうの神隠しっていうらしいよ」


「でもほんとにそんなことあるのかな。あれって映画の中の話じゃん」


「そうだけどさ、リョウくんは今知らない街にいるんでしょ?」


 アスカはそう言い、校舎に取り付けられている大きな時計を見る。辺りはすでに暗くなりかけていた。橙色は失われ、街全体に影が落ちている。陽はほとんど沈みかけていた。アスカは朝礼台から降りて言う。


「ねえ、とりあえずうち行かない?」


「うちって?」


「私のうち。もう暗くなっちゃうしさ、こんなとこにずっといるよりそっちの方がいいでしょ。ジュースとかお菓子もあるし」


「……いいの?」


「いいよもちろん。リョウくんが嫌じゃなければだけど」


「嫌じゃないよ。でも女子の家に男子が一人で行くとかあれじゃん」


「そう? そんなの気になんないけど。どうせ誰も見てないし。来なよ。うちなら地図とかあるからリョウくんの家の場所わかるかもしれないよ」


「あ、そうだね。パソコンとかもある?」


「うん。ネットで調べればきっとわかるよ。行こ」


 アスカに促され、僕も朝礼台をおりた。アスカは僕が隣に来るのを待ってくれた。そうして二人で並んで歩き出した。




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