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今年もよろしくお願いします。
――リア!
「マリア!」
「……はっ!」
「マリア! よかった……大丈夫か?」
瞼を開くと、あたしは夜会の最中に転げ落ちた階段の下で、ヘンドリックに抱えられていた。華やかに着飾った人々が遠巻きに見守っている、見覚えのある光景に記憶を呼び戻される。
すぐ目の前には、ヘンドリックの青ざめた顔があった。
身体を支えている男と、その手への強い嫌悪感。吐き気が湧き上がってくる。
「いやっ!」
咄嗟にあたしはヘンドリックの腕を押し退け、慌てて床を這うように距離を置く。床に手をついたままハッと振り返ると、そこには眉を下げ、傷ついた様子のヘンドリックがいた。咄嗟の行動の至らなさに気づき、あたしは向き直り頭を低くした。
「……っ、も、申し訳ありません!」
「……いいんだ。無事ならそれで。君は今気を失っていたんだけど、もう大丈夫か?」
ヘンドリックは戸惑いながらも、あたしに労わるような言葉をかけてくれた。咎められても当たり前の状況だ。階段から落ちたあたしに駆け寄り、あまつさえ介抱までしてくれた王太子を突き飛ばすなんて不敬にも程がある。
ただ、そうは言っても婚約者ではない未婚女性を抱き寄せるというのはあまり褒められたことでなく、周囲の目もうっすらと生ぬるさを感じるものではあった。そもそも、すぐ側には誰もがその立場を認識している婚約者がいるのだ。
ヘンドリックがこちらに近づいてあたしを抱き上げたとき、その浮遊感はあの、馬車から放り出された情景を思い起こさせた。身体がグルグルと回転しているかのようなめまいと悪寒で意識が遠のいていくのを必死に抑え込みながら、何とか平常心を取り戻そうとしたのだが……甲斐なく意識を失ったらしい。
そしてたった今、気を失っていた間に、計らずもおさらいをしたあの情景を反芻し、身震いをする。
あたしはまだ、きっとあの絶望的な未来に足を向けたままだ。
しっかりしろ、あたし。
あれが夢であるのか否かは一旦保留にしよう。現実だったものかも知れないし、或いは……考えたくはないが今が夢の中なのかも知れないのだ。
「一体何事か」
壮年の男性の厳かな声が人々の喧騒をすうっと鎮めていった。
恐る恐る声のする方に顔を向けると、そこには誰よりも強い尊さを讃えた王の姿があった。
人々がさざ波のように頭を低くするのを確認し、あたしも慌てて居住まいを正す。だが、夜会の会場の中央で、止まらない震えを懸命に抑えようとしていたあたしは、きっと誰が見ても挙動が正常ではないだろう。
そして思う。ああ、覚えがある。あの時と全く一緒だ、と。翻る重厚なマントの様子さえ覚えている。あたしはまだ何も避けられていない。震えている場合じゃない。
そしてあたしは小刻みに揺れる身体を抑えつつ、目の端に映る右腕の痣に目を留める。そうだ、これもこの後の展開に関係があるものだ。消さなくては。消さなくては一刻も早く。
幸いにも、人々の注目はあたしだけでなく現れた国王陛下の方へも向いている。
あたしは痣に目を向けず、意識も向けず、できる限りゆっくりと、左の手のひらを痣のほうへ誘導する。そして滑らせるように痣を何気ない様子で覆う。無事に目的の部位を隠すと、今一度周囲の様子を確認する。
大丈夫、今なら。そう確信すると、あたしは左の手のひらと右腕の痣の間に小さな光を作り出す。極々小さなものだ。それを薄く薄く、紙のように広げる。それから手のひらから漏れ出るようなことがないように、小さく薄いそれを皮膚の中に吸収させる。少したりとも光が漏れたりしないように細心の注意を払って――
額から汗が一筋流れたが、その程度ならば国王陛下が現れた緊張のためと誰もが思い、気にも止めないだろう。
そして、ふっと左手に光が優しく押し戻される感覚があった。恐らく痣は消えたのだろう。とはいえ、一部始終を誰かが見てないとも限らない。あたしは暫く左手で右腕を抱えるような状態を保つことにした。階段から落ち、意識を失った後なのだ。自分の身体を抱えるような様子があっても、恐らく許されるだろうと信じる。
「……お騒がせしてしまい申し訳ございません。私が大切に思っている、そちらのマリアが大階段から滑り落ちてしまったのです。」
「なんと。怪我はないか?」
と、国王陛下があたしを気遣う。頭を上げると、慈愛に満ちた懐かしい表情があたしを見下ろしていた。
――おじさん。いえ、国王陛下……
かつて、おばあちゃんと話をするためにアルフレッドとヘンドリックを伴って訪れたあの男性。髪の色も瞳の色も異なるが、やはり確かにこの方だった。
そして、今あたしを見つめるこの慈しむような暖かい眼差しは、あたしが断罪され事実が晒されるに従ってじわじわと温度を下げ、唇は弧を描いているというのに瞳はひんやりと背筋が凍るような冷たい光を放ち始めるのだ。蔑みという鈍い色をした光を。
あたしは小さく身震いをした。
「はい、少しばかり身体を打ちましたが……会を中断させてしまい、誠に申し訳ございません」
と、あたしは改めてぎこちなく礼を取る。
すると、陛下は「良いのだ」とでも言いたげに、あたしに静止するよう掌を見せる。そしてふと言い淀むような様子を見せ、暫し押し黙った後あたしに問いかけた。
「だが、其方はつい先日も何か災難に見舞われたのではなかったか?」
「はい、昨日暴漢に攫われそうになりましたが……殿下に助けて頂きました」
「……それは此度といい、随分と立て続けに不幸な出来事が起こるものだな」
陛下の眉間に皺が寄る。
昨日、私は校内で薬を嗅がされ連れ去られた。いつも昼休みを過ごすあの裏庭の、庭師が使用する園芸用品を収納する小屋に引き摺り込まれたのだ。大事には至らず、すぐにヘンドリックに発見され事なきを得た。
だが、それは実は――
ヘンドリックが言葉を繋ぐ。
「陛下、不届者は私が捉え、然る場所に監禁中です。」
「そうか、その者どもは何と?」
ヘンドリックは一旦口籠り、逡巡する様子を見せた。
「……自分達は頼まれて行ったことだと……校内に出入りする業者を装う為の衣服なども、その者が全て準備したと申しています。」
陛下は目を鋭くしてヘンドリックに問う。
「して、指示をしたものが何者なのか自白はしたのか?」
ヘンドリックは口を一文字に結び、床に目を落とす。
会場が沈黙の色で塗り潰されようとする寸前、ヘンドリックはスッと顔を上げ、陛下と目を合わせる。そして徐に、結ばれた唇を解いた。
「アストリッドの、指示であると……」
先程まで大階段の頂点にいた美しい令嬢は、国王陛下の来場後すぐに階下に降りていた。人々の視線が一瞬にして、その美しい令嬢、アストリッドに注がれる。そして当の本人は目の前で繰り広げられている会話と周囲の変化を見て、扇で口元を覆い楽しげに目を細めている。
「……っ、馬鹿な!」
国王陛下は忌々しげに頭を左右に振る。
「あり得ないことだ!」
陛下、とヘンドリックは続ける。
「……あり得ないこと、とも言い切れないかと……」
苦渋に満ちた表情をしたヘンドリックは、ちらりとあたしを見遣った。
「それは一体……どういう意味か」
陛下が戸惑った表情をヘンドリックに向ける。その様子を見たヘンドリックは眉間の皺を深くした。
「陛下、発言の許可を頂きたく存じます」
唐突に、鈴の音のような軽やかな声がしんと静まり返っている場内に響き渡った。
国王陛下が許可を与えたのは、今や人々の視線を一身に集めている令嬢、アストリッドだった。
アストリッドは発言が許されたことを確認すると、ヘンドリックの方へ身体を向け、弧を描く艶やかな唇から「ヘンドリック様」と言葉を放った。
「ヘンドリック様は、よもやこのわたくしが、ちょっとした拷問程度で依頼主を白状するような無能な者を雇うと思われましたの?」
そしてアストリッドは微かな笑い声を上げながら首を傾げ、心外ですわ、と呟いた。
儚げな美少女の、慎ましやかな口元から発せられるには少々不似合いにも感じられる言葉が、容赦なく会場内に轟く。
「わたくしでしたら、まず、決して失敗しない者にお願いしますわ。身近に無能なものはおりませんのよ。ご存じでございましょう?」
会場内がその発言にざわりと空気を揺らす。「そんな犯罪はしない」ではなく、「やるなら失敗しないようにやる」と、やんごとない貴族令嬢、しかも王太子妃が宣ったのだ。騒めきも当然のことだろう。だが、発言それ自体は納得する者が多かった。
アストリッド程の賢明な才媛が口の軽いならず者などを雇い、自身が犯罪に関わったことを知らしめるような、そんな馬鹿なことをするだろうか、と。
また、確かにアストリッドの周囲に愚鈍なものはいない。それこそ従者に至るまでだ。周囲で能力のないとされたものがアストリッドによって排除されるというよりは、アストリッドに無能と判断されることを恥と考え、何らかの才能を伸ばし認められるよう自助努力するのだと聞く。何それ意識高すぎでしょ……。
その時、あたしはこの場面を反芻し、ハッと目線のみで周囲を見渡した。
――いた。
眉を顰めて事態を見守る人々の中にひとり、爛々とした瞳でこちらを見つめている異質な少女を見つける。豊かな赤毛を天頂で結い上げ、淡雪のような白い肌にそばかすが散らされている。
彼女――イザベラは「アストリッドは常々マリアに嫌がらせをしており、マリアを拐わせた黒幕に違いない」と高らかに告げる役目を完遂するべく、この場所にいた。そしてそこから「状況から考えて、マリアを階段から突き落としたことも考えられる」と続ける算段だった。
イザベラは顔を紅潮させ、その瞬間を今か今かと待っているかのような興奮した様子で、手に持った扇をぎゅっと握りしめていた。
あたしは頭を振った。
止めなければ。イザベラを関わらせてはいけない。まず最初にすることは、イザベラに何も言わせないこと、だ。
「ですが、このマリアは、日頃からアストリッドに嫌がらせを受けていると聞いています!」
分が悪いと感じたのか、ヘンドリックは落ち着かない様子で国王陛下へ訴えかけた。
あたしがアストリッドに嫌がらせを受けているかのようにヘンドリックに話したのは、もちろんこのあたしだ。
ヘンドリックの言葉を聞いたイザベラが、スッとこちらに向かって歩を進めるのが目の端に映り――
「……もっ、申し訳、ございません!!」
あたしの声にイザベラの足先が戸惑ったように止まる。
会場内の人々も騒めきと共に視線をあたしに移した。国王陛下も、ヘンドリックも、そしてアストリッドも。
「勘違いでした!……その、アストリッド様があた、わたくしに嫌がらせをしているようだと申し上げたのは、全て――」
あたしは、正常に機能するようになった肺に存分に空気を送り込む。
「全て、わたくしの思い違いです!!」
その時、あたしの体の中で蠢く渦のようなものが、ぐるりと向きを変えたのを、確かに感じた。
のんびりとした投稿にも関わらず、ブックマークや評価をありがとうございます!
少しずつ読んでくれる人が増えると良いなーくらいの気持ちでいたので、評価まで頂いてたのを見て驚きました…。
結末はほぼできているのですが、そこに至るまでにもう少しかかる予定です。
どうぞよろしくお願いします!




