占いによると別れた彼女が数年後絶世の美女になっているらしい。よし、今のうちにヨリを戻すとしよう
「最っ低!」
そう言いながら、彼女は俺の左頬に平手打ちをした。
バチーン! と、周囲の人間が思わず視線を向けてしまうくらいの快音が、駅のホームに鳴り響く。
高校2年の冬のある日、俺・木嶋晋は1年以上付き合っていた羽山憂と、初めて大喧嘩をした。
喧嘩の原因は、本当に些細なことだった。
この日彼女はいつもと違うヘアピンをしてきたのだが、肝心の俺は全く気付かない。そのくせ偶然目撃した下着を見て「あっ! その下着、新品でしょ?」などと要らんことを言うものだから、彼女の怒りは沸点に達したわけだ。
下着が新しいことを口に出さなければ、俺の評価は「童貞」程度で済んだことだろう。
しかし、俺は不要な発言をしてしまった。
一度口に出してしまったことをなかったことに出来る筈もなく、結果発生するのは不毛な言い争い。
どちらが正しいのかなんて、この際どうでも良かった。お互いに非を認めたくなくて、自己主張ばかり繰り返して、そして二人とも引くに引けなくなったのだ。
些細な喧嘩の末路は、最悪のものとなった。――俺と彼女は、別れたのである。
喧嘩の末に破局したカップルが、一緒に下校するなんてあり得ない。この日の俺は実に1年ぶりに、一人で帰路に立っていた。
夕焼けに染まる河川敷を、いつもは憂と二人で手を繋いで歩いていた。
地面に映る二人の影は、手を繋いでいることで一つになっていて、それだけで仲睦まじさが見て取れる。
憂が俺にくっつくとより一体感が増して、俺はその光景がどんな美しい景色よりも好きだった。
でも……今の俺は、昨日までのような幸せに浸れない。
憂はもう、隣にいない。故に憂の影もここには映らないのだ。
「はーあ。今日から彼女なしに逆戻りか。彼女がいた方が、色々都合が良かったんだけどなぁ」
だらけきった歩調で一人河川敷を歩きながら、俺は呟く。
彼女がいることで得られる恩恵は、案外多かったりする。優越感とか、クリスマスのバイトに出なくて良い権利とか。
憂が隣にいることが当たり前になりつつあったから、これから先一人になることがどういうことなのか、この時の俺はまだわかっていなかった。
河川敷を歩いていると、突然見知らぬ婆さんに声をかけられた。
「もし、そこの素敵なお兄さん」
俺は即座に立ち止まる。
「素敵な」という枕詞を付けられたら、自分が呼ばれたと考えてしまうのは当然のことだろう。自称素敵なお兄さんは立ち止まると、声の主の方を向いた。
俺に話しかけてきたのは汚い身なりをした婆さんで、誰がどう見てもホームレスであることは明らかだった。
どうせなら可愛い女の子に声をかけて貰いたかった。なんでこんな小汚い婆さんにと思いながらも、目が合ってしまった以上無視するわけにもいかない。俺は婆さんに「何ですか?」と返した。
「実はワシはこう見えて、かなり名の通った占い師なんじゃよ。そんなワシが見るに、このままいくとお主には良くない未来が待ち受けている。一度ワシにお主を占わせてくれんか?」
「占いって……」
いかにもな水晶玉を持っているから、占いをするのは本当なんだろうけど……正直胡散臭いな。俺は小さい頃から朝の情報番組の占いしか信じないと決めているんだ。
因みに今日の星座占いでは、まさかの12位。「当たり前の日常が当たり前でなくなるかも」だって。うん、当たってる。
「占いは間に合っているんだ。悪いな」
そう言って、この場を立ち去ろうとした俺だったが、
「まぁ、待て。恋人に捨てられた哀れな男子高校生よ」
婆さんの口にした決して知り得ない情報を聞き、俺は足を止めた。
「おい、ババア。何で俺がフラれたことを知っているんだよ?」
「ババアとは、いきなり口が悪くなったな。……何で知っているのかって? それはこの水晶玉に映し出されたからじゃよ」
水晶玉を掲げ、俺を覗き込みながら、婆さんは言う。
もしそれが真実だというのなら、この婆さんの力は本物だ。
「どうじゃ? ワシに占って貰う気になったか? ほんの数分で終わるし、勿論お金は取らないぞ」
「……タダでしてくれるって言うなら、お願いするけど」
金も時間もかからないなら、付き合ってやるとするか。
俺は休めのポーズを取って、婆さんの占いの結果を待った。
「それでは、覗くぞ。ぬんべらさもさー、ぬんべらさもさー」
何だよ、その掛け声? 思わず吹き出してしまいそうになる。
結果が出るまで、1分とかからなかった。
「ムムム。ワシの占いによると、お主は数年後人生最大の後悔に襲われる」
「人生最大の後悔? 受験にでも失敗するのか?」
「いいや。失敗するのは受験ではなく、恋愛じゃ。……お主の別れた彼女、数年後にはめっちゃ美人になっているぞ」
別れた彼女……言うまでもなく、憂のことだ。
憂は今でも美人だし、数年後凄え美人になっていてもおかしくない。
「驚くのはまだ早いぞ? お主の元カノはスタイルも抜群になり、気立も良く、才色兼備の良妻賢母となること間違いなしじゃろう。こんなにも良い女、世の男どもは放っておかないじゃろう。……え? 何で別れたの? バカなんじゃないの?」
余計なお世話だクソババアと言い返したいところだったが、俺とて別れたことを愚行だったと思い始めている。なので口を噤んでいた。
「悪いことは言わん。ヨリを戻すのじゃ。お主の幸せは、元カノと共にある」
「……考えておくよ」
正直なところ、俺の気持ちはもう固まっていた。
喧嘩をして一時的に感情的になっていたけれど、憂が最高の女であることは、婆さんに言われなくてもわかっていた。本当、俺なんかには勿体ない女だ。
だから憂と復縁したい。
また手を繋ぎたい。ファーストキスならぬセカンドキスをしたい。
まだ経験のないそういう行為だって、憂と一緒にだったらしたいと思えてしまう。
でも、それはあくまで俺の一方的な考えで。
第一別れた原因は、俺にある。憂が許してくれない限り、どれだけ復縁を切望してもそれが叶うことはない。
……憂のやつ、絶対まだ怒ってるよなぁ。愛想を尽かされているだろうなぁ。
「諦めるのか?」
俺の心を見透かしたように、婆さんは言う。
「引き返せないと決め付けて、手に入らないからと言い訳をして、本当に欲しいものを手放すのか? だからお主は、後悔するんじゃ」
「後悔……」
「男なんじゃろ? 玉砕覚悟で、やれるだけやってみろ」
◇
その日の夜、俺は婆さんのアドバイスに従い、後悔しないよう動いてみることにした。
憂に電話をかけると、良かった、まだ着信拒否にはされていないみたいだ。
4コール目で、彼女は電話に出た。
『もしもし』
「憂か? 俺だよ、俺」
『……オレオレ詐欺なら通報するわよ』
「オレオレ詐欺じゃねーよ。スマホの画面に俺の名前が表示されているだろうが」
『そうね。ついでに名前の後ろに、ハートマークもね』
名前の後ろにハートマーク? それって……。
もしかしたら、憂はまだ俺のことを――。そんな淡い期待が、俺の胸の中で生まれる。
『それで、何の用? 私も暇じゃないんだけど?』
「用って程じゃないんだけど……今日のことについてなんだが」
『謝罪をしてくれるのかしら?』
「いいや、謝罪はしない」
喧嘩両成敗という言葉があるように、先程の喧嘩については痛み分けといこうじゃないか。
『謝罪じゃないなら、何?』
苛立ちを通り越し、若干の怒気を含む憂の声。それでも俺は怯むことはなかった。
「告白だよ。俺たちは一度別れたんだ。だから、もう一回憂に告白をしたい」
「ごめん」だなんて、口が裂けても言うもんか。その代わりに――何度も何度も、それはもう喧嘩したことなんて忘れてしまうくらい、「好きだ」と伝えてやる。
「憂、好きだよ。大好きだ。俺ともう一度付き合って欲しい」
俺の本音を聞いた、憂はというと――
『あんたみたいな超最低デリカシー男と付き合いたいと思う女の子なんて、まずいないわよ。……あんたをそんな性格にしちゃった責任の一端は私にあるわけだし、しょうがないか。ヨリを戻してあげる』
ヨリを戻してあげる、か。相変わらず上から目線の女だ。
彼女と結婚したところで、尻に敷かれるのは確定なわけで。おい、婆さん。本当にヨリを戻して、正解なんだろうな?
なんて、その答えを知るのに、婆さんの占いに頼る必要ないよな。胸の中でいっぱいになった幸福感が、何よりの答えだ。
◇
晋と復縁した憂は、電話を切るなり自室を出て、リビングに向かった。
「憂ー電話は終わったのかい?」
「うん! 色々ありがとうね、おばあちゃん」
そう言って憂は、彼女の祖母に――二人の復縁を促した占い師にお礼を言った。
「まったく、「彼氏と喧嘩して別れちゃったあああ!」って泣きながら電話をかけてきた時は、何事かと思ったよ」
「泣いてないし!」
「あれだけ鼻を啜っていて、泣いてないは通用しないさね」
更に言うならば、憂の目尻には涙の跡が未だ残っていた。電話でしか会話していない晋が、それを知る由もないが。
「このお礼は、高くつくからね」
「……お金ならないわよ」
「お金なんて要らないさ。その代わり……初ひ孫、期待しているぞ」