9 セイレーンの歌声
あなたは、永遠に続く苦痛を味わったことがあるだろうか?普通の人間なら恐らく一生の内一回もそんな出来事に遭遇しないだろうししたくもないと思う。
永遠に続く苦痛というのは、即死ではない分質が悪い。即死ならば、苦痛を認識すらできず、その命を落とすことができる。しかし、絶え間なく続く痛みというのは意識を闇に落とすことができずに、全身の神経から痛みの信号が脳に送られてくる。
逝きたい、逝けない。逝けない、逝けない。逝けない、逝けない。の繰り返し。ただひたすら『助かりたい』か『死にたい』もしくは『意識を失いたい』の二択だろう。
だが、それができないから永遠に続く苦痛なのである。つまりは、生き地獄だ。
小指にダンスの角をぶつけたような鋭い痛みが全身を包み込む。打撲の衝撃が脳をシェイクする。終わりが見えない回転が重心を狂わせ、目をぐるぐる巻きにし、判断能力を鈍らせる。
誰もが悲鳴をあげている。誰もが助けを悲願する。阿鼻叫喚の光景がこの密室で起こっている。そう―――――、
「うおおおぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁおおお!?!?」
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?!?」
「ござるぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!」
「オエェェェェェェェェえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!??」
「うるせぇですね。静かにしやがれください。この程度の揺れでビリヤードの球みたいにならないでください」
「ほんと、全くね。余を見なさい、この荒れ狂う渦潮の中でも微動だにせず立ち振る舞う姿を!」
ぶっ飛ばす!後でこいつらぶっ飛ばしてやる!!
口に出して言ってやりたいが、そんなことができる状況下ではない。少しでも口を開いたら吐いてしまう!リバースしてしまう!オロロロロしてしまう!
くそっ、タコの吸盤で床にくっついてこの回転から逃れやがって!そしてえっちゃんの胸の谷間に入って自分だけ安全ポジをとりやがって乙姫ぇ!
「にしても、さすがのパワーですね、アサシン超渦潮ってやつは。最新の科学力を使ったこの船でなかったら一瞬でお陀仏ですよ」
「ふふん。それほどでもないわね」
「あなたじゃなくても魚人島の科学力を褒めてるですよ」
そう。俺達は今世界でも最大級の渦潮、『アサシン超渦潮』の渦の中にいる。
乙姫曰く、アサシン超渦潮の正体とは魚人島に張られた超巨大結界の老朽化によって剥がれた魔力の塊が、海の中で暴発し、とんでもない渦潮を起こしているもの、らしい。
それはさておき、何故そんか命がいくつあっても足りない超危険地帯に自ら突っ込んでいるのかというと、
『アサシン超渦潮の真下は魚人島の近くに繋がってるわけよ。つまり、アサシン超渦潮の流れに上手く乗っちまえば亀に出会うリスクを犯さずに魚人島の近くに行けるっていう寸法よ!』
乙姫が提案した時は、「まぁなんとかなるか」と軽い気持ちでいた。
無理です死んでしまいます。
甘く見ていた。自然現象の恐ろしさという物を、海のパワーを、全てを破壊する天変地異を!!というか、なんでこんな都合のいいタイミングで渦潮が近くにあるんだよ!!おかしいだろ!
「ふっ。余を誰だと思っているの?力は失ったとはいえ、海の支配者である余はここら一帯程度の海ならば全て把握しているわ。深さ、水温、海流、気流、魚の数までほぼ正確よ。もちろん、渦潮が発生する時間や場所もね」
へー凄い。できればもっと他のところで使って欲しかった能力ですかね………。
しかしウダウダ言ってても時間は巻き戻らないし渦潮は止まってくれない。船内の何かに掴まってやり過ごすしかない。
俺はビリヤードの球みたいにガンガンと壁にぶつかりながらも、なんとかして手すりを摑み身を寄せた。
視界がある程度落ち着いたところで、船内を見回す。元々置いてあった資材は中味を撒き散らし、メリーゴーランドのような軌道を描いて空中に漂っている。
アキレスは意識を失いながらも、決して吐くまいと口を押さえている。エルザも顔色を悪くしながら、手すりにつかまっている。マーマンはこの状況を楽しんでいるように、ござるござると叫びながら笑顔を浮かべていた。
「ござるぅぅぅぅ!!ちょっと楽しいでござるねこれぇぇ!!」
マーマンを見る目が初めて少し変わった瞬間であった………。
そうしてあれこれしてる間に回転は弱まっていった。アサシン超渦潮が消えたのだ。渦の流れから脱した船は海底火山目指した更に深海深くへと潜り込んでいく。
「ん。ちょっと暑くなってきたわね…………」
「ぞんなごと、うっ、はぁはぁ………気にしてどうする……ですか?」
死にそうな顔をしながらもエルザは質問する。
「余達の最初の目的地は海底火山よ。あそこは海の底だけど、とんでもない熱量を持っているわ。近づけば近づくほど、どんどん暑くなるわよ。ほら、こんなふうに」
………確かに気持ち暑くなってきた気がする。暑いというか、沸騰された水の中で茹でられてるような、そんな暑さ。
さっきまではしゃいでいたマーマンも、具合が悪そうにクラクラし始めた。
蒸し蒸ししてて、回転も加わり非常に気持ちが悪い。今日は厄日だわ!!
「確かに暑くなってきやがりましたね。それほど海底火山が近づいて来たってことなんしょうか」
「いいえ、まだまだよ。今、余達がいるのはざっと水深800メートルほどね。魚人島はあと一時間もあれば着くけど、海底火山は魚人島の真下にあるから、あともう1000メートルくらい深くまで行くわ」
「え、それって間近まで近づいたらどうなるんだ?」
約1000メートルも残しておいてこの暑さだ。例えるなら少し弱いサウナのような暑さ。今はまだ余裕があるが、これがどんどんと接近していくほど暑くなっていくのならば、どうなるだろうか。
想像を絶するような暑さ、いや熱さがこの身を襲うことは想像に難くない。
「まぁ間違いなくぶっ倒れるわね。茹でられてるなんてもんじゃないわよ、油風呂ね」
「えぇ………じゃあどうすんだよ。このまま全滅だなんて嫌だぞ」
「余だってそこまで馬鹿じゃないわよ。ちゃんと対策は考えているわ」
「できればその対策を速く教えてほしいでござる………苦しいでござる………。水分、水分が抜けていく……………」
干し柿みたいにどんどんとしわくちゃになっていくマーマン。
そっか。魚人族は乾燥や暑さに弱いからな。俺達よりも感じる苦痛は大きいだろう。彼が携帯している水分補給用の水筒も亀達から逃げるのに必死で置いてきてしまったので、相当喉も渇いているはず。
「あら、思ったよりマズイ状況のようね」
「逆に何で同じ魚人族なのにお前は平気なんだよ?」
「それは、まぁ?余の魚人族としての格の違いってやつ?力の差ってのは残酷なものよね………でも安心してほしいのよ鮟鱇魚人。これは余があまりにも凄すぎるだけで決してあなたがダメなわけじゃあ………」
「茶化すな!速くマーマンをなんとかしろ!」
「あーあーあー分かってる分かってるわよ、だから揺らさないで!というかもうしたわよ!周りをよく見なさい!」
すると、俺は薄い膜のようなものが自身の周りに張られていることに気付いた。それはマーマン達や吸盤で床に張り付いているえっちゃんにも同様にだった。
俺はつんつんとその膜を触ってみる。ブヨブヨとして触感で、ひんやりしていて気持ちがいい。ずっと触っていたくなるぞこれ。癖になる。
―――と、そこで更に気付いた。暑くない。さっきまでこの船内を蝕んでいた蒸し蒸しした暑さが消え去っている。
「あぁ……生き返るようでござる……ひんやりぃ~~」
「おお!これはワイルドに快適だな!」
「ふっふっふ。驚いたようねあなた達。これこそ、余が残った力を全て集結させて作った『水泡玉』!魚人島に張られている結界と同じものを小規模化させて作った断熱空間よ。ここでは、いかなる高熱も受け付けないわ!」
エヘン!と体を反らして胸をはる乙姫。
魔術にはとんと疎い俺だが、魔術とは繊細で効果が多重なほど行使難しくなるそうだ。特に空間魔術。
ベリアル先生曰く、クロウリーが魔術対決の際に使っていた水でイッカクイルカを作り出すあれとか、『目白鮫』の拠点での転移魔術などは相当な技術らしい。
空間に干渉する魔術は使用する魔力量も当然多いのだが、魔力を『魂』に通してから現象に起こすまでのイメージが掴みにくい。
考えてみて欲しい。炎や水、土などは生活していれば必ず目にしその特徴や性質を理解することができる。だが、『空間』を理解しろと言われたら中々想像しにくいだろう?
魔術を研究する学者の中には、魔術の才能とは創造力、想像力が豊かであることでもあると提唱する者も少なくはないらしい。
そして、そんな空間魔術を力を失ってもなお高度な技術で作り出す乙姫は本当に凄いやつなのかもしれない。彼女が本来の強さを取り戻したら、一体どうなってしまうのか。
―――などと考えていると、吐き気が収まって一息ついたエルザが乙姫に質問を投げかける。
「そう言えば、今から向かう乙姫さんの友人ってどんな人なんですか?」
「あぁそれ。俺も気になってたぜ。乙姫のダチって聞いてそいつも何だかヤバいやつというか阿呆っぽそうで不安なんだが」
「誰が阿呆よ金髪!………で、あいつのことについてだっけ?そうね。安全の為にもあいつについて話しておくべきね」
乙姫は一呼吸おいてから、その人物について語り出す。
「―――奴の名はセイレーン。科学の島とも言える魚人島を支える竜宮城直属の科学者集団『歌妃女』、その最高責任者。異国より持ち帰った前代未聞も技術や知識を用意て、魚人島の発展に貢献した科学者よ」
「あれ……でも竜宮城直属の科学者集団なら、その人は魚人島にいるんじゃないですか?なんなら、もう亀達の手が回っている可能性も……」
「あいつは極度の人嫌いでね。基本的には誰も寄りつかない海底火山に身を潜めて日々研究を重ねているの。機嫌が良いときじゃないと余でも追い返される程度にはね。けど、今回はその人嫌いに救われたわね。あと、ついでにあいつは他人に容赦しないわ。下手したら余以外は研究材料とか実験台に使われてもおかしくないかも………特にそこの天使族の金髪」
「み、身震いするぜ………」
強大な科学力を有する魚人島の中でも、国の研究機関の最高責任者に選ばれるほどの凄い研究者。
しかし極度の人嫌いで他人に容赦せず、友人だろうと機嫌が良くない限り閉め出す………。そんな奴を頼る………。
んんんーーーーーーーーーー……………………。
「ほんとに大丈夫か?」
「ほとんど博打よこんなの。大丈夫なわけないじゃない」
「えぇ…………」
「あぁそうそうあと一つ。重大なことを忘れていたわ」
乙姫が思い出したかのように手の平に拳をポンとのせる。人差し指を立て、真剣な顔つきで警告する。
「あいつの、セイレーンの研究所に身元不明の者が近づくとね――――」
と、その時だった。
ギッッギィィィィィィンン!!!
乙姫の言葉を遮るように響いたそれは、不協和音というのも生温い鼓膜を破壊せんとする轟だった。
聴覚を一瞬の内にズタズタにしたそれは、ポワンポワンというサイレンと共にここら一帯に響く。
「うぐ、アガァァァァァァァァァ!?!?!?」
脳を直接弄られたみたいだ。耳を塞いでも僅かな隙間から入り込み、頭をシェイクしていく。洗脳か何かの類いか!?
「おち、つきなさい……これは『歌』よ!」
「はぁ!?こんなのが歌であってたまるか!全世界のアイドルと歌手と作曲家に土下座して詫びろぉ……アァァ耳がぁ!?」
「ただの歌じゃあないわ……ッ!あいつの、セイレーンの歌声よッ!!あいつはね、世界最悪最低破滅的破壊的なまでに………そう、」
はぁぁ、と大きく息を吸いこの不協和音にも負けない大声で、
「音痴なのよッッッ!!!!」
音痴なんてレベルじゃねぇ!!
プオンプオンと船の装置が警報を鳴らし始めた。システムが故障したのか?それとも何処が破損したとか………
―――まさか、この歌が!?
この音波が機械を壊したのか!なんて恐ろしい、凄まじい音痴力。
「……………あ」
あ、やばい。これ、は。
もはや脳の警報すら聞こえなくなった。意識が朦朧とし、くらくら、くらくらと揺れ始める。
始めに何も聞こえなくなった。キーーーンと鳴る殺人音波が遂に鼓膜を突き破った。いや、むしろここまでよく耐えたと言っていいかもしれない。
視界も黒くなり始める。必死に眠るまいと眼光を開く。船のシステムも故障して、しかもこんな深海、蒸し殺されるほどの暑さ。
こんなところで気を失ったら何がどうなるかなんて分からない。少なくともただじゃ済まない!、
が、その努力も虚しく全てが音によってかき消されていく。一切の妥協を許さず、ただ無作法に無遠慮に『歌声』はここにある全てを掻き消していく。
最後に見えたのは、俺よりも先にダウンしていたみんなの姿だけだった。