Le Muguet
冷たい風に凍えるように枝を震わせていた街路樹が、日の出と日の入りの時刻が変わってきたのを感じ取り、新芽が少しずつ伸び始めた。風に温もりが含まれて、その接吻を全体で受けようと若葉は懸命に手を拡げる。
春の散歩は発見の喜びに溢れている。いつもの通りで菫や蒲公英の花を見付け、果樹の花が花弁を散らしているのを眺めやる。
大通りを行く少女たちも春の陽光に負けず煌いている。
「ルイーズ、今日もリュクサンブール公園に行くの?」
「そりゃあ勿論よ、ルイーズにはお目当てがいるもの」
ルイーズと呼び掛けられた少女がムキになって言い返した。
「違うわよ。いつもの場所が安心できるってだけよ」
「そうよねえ、いつもの場所ならいつもの人が散歩しているから」
もう! とルイーズが手を振り上げる真似をすると、仲間の少女たちが図星だから怒るのよ、と駆け出した。待って、シャルロット、ジャンヌ、とルイーズも追って、走り出した。セーヌ河を渡り、左岸のリュクサンブール公園まで、疲れを知らぬ勢いで辿り着く。春の盛りから夏の訪れを感じさせる黄金の日差しは、あまねく降り注ぎ、少女たちの頬を染め、うっすらと汗ばませる。公園の入り口を過ぎて、少女たちは弾む息を整えると、ちょっと澄ました顔をしてみる。リュクサンブール公園は、一種の社交場であるテュイルリー公園や広いブローニュの森とは雰囲気が違う。巴里では先月から万国博覧会が開かれていて、今はどこでも観光客で賑わっている。それでもリュクサンブール公園は落ち着いている方だろう。元々子ども連れが多い。学生街やオデオン座が近い所為もあって、学生や俳優の卵の姿もよくある。
「今日もいるかしらね?」
ジャンヌが言うので、ルイーズは何でもない様子を装って答えた。
「いてもいなくても折角ここまで来たんだから、中まで行きましょう」
「うんうん、わたしたちだって、気になるし、もしかしたら素敵な人と出会えるかも知れない」
「あら、シャルロット、ニコラは?」
「近所に住んでて小さい頃から知ってるから、今更好きとか感じない」
「へええ、あやしいなあ」
「そういうジャンヌだってどうなのよ」
大人っぽく振舞おうと背伸びをしようと、好奇心一杯の幼さは隠せない。
公園の中で、花束を並べて売ろうとしているほかの子どもたちが少女たちを見掛けて、声を掛けた。
「今日は五月一日です。鈴蘭の日です」
「ごめんなさい、お金を持ってないの」
ルイーズたちは公園の彫刻や花々を眺めながら、お喋りをし、中を進んでいった。
最近、ルイーズがリュクサンブール公園に遊びに行くと、学生か俳優の卵か判らないが、二十歳前くらいの青年がいるのに気が付くようになった。向こうもルイーズの顔を覚えてくれたようで、擦れ違う時によく視線を投げ掛けてくる。友だちからからかわれようが、気になって仕方ない。今日、五月一日は鈴蘭の日。親しい人に鈴蘭の花を贈り合う日。これを切っ掛けに一歩踏み出せたらどんなにか素晴らしいか、いやでも知らない人だからやっぱり怖いと、少女の胸の内は複雑だ。
大きな彫刻の側を通り過ぎて、ルイーズの足が止まった。シャルロットとジャンヌが気付いて肘で突き合った。
陽光に透けそうな淡い金髪の青年が両手を後ろに回して現れた。
「こんにちは、お嬢さん方」
ドギマギしているルイーズに代わってシャルロットが応じた。
「こんにちは、ムシュウ」
声を掛けてきたのは青年なのだが、その後言葉が出ず、大分ためらってからやっと再び口を開いた。
「あの、その、先刻花を売っている子どもたちから花を買ったんです。良かったらもらってくれませんか?」
「いいですよ」
ジャンヌはシャルロットと顔を見合わせて、慌てるルイーズを押し出した。
「皆さんに」
青年は両手を前に回した。手には鈴蘭の花束。一茎ずつ、シャルロットとジャンヌに渡した。どうするのかと見守っていると、残った一茎をルイーズに差し出した。
「受け取ってください」
「有難う」
おずおずと手を伸ばし、ルイーズは鈴蘭を受け取った。
「これ、数えてみたら一本に十三個の花が付いています」
と青年が付け加えた。
シャルロットとジャンヌは歓声を上げた。鈴蘭は幸運のお守り、その上一つの茎に十三個の花が付いていたら更なる幸運のしるしと言われている。それをわざわざ選んでルイーズに渡すとは!
「あの……」
青年は照れたように赤面した。
「有難う」
やっとの思いでルイーズは答えた。
「公園で何回か貴女たちを見掛けて、その、ちょっとでもいいから貴女とお話ししたいと思っていたんです。今日は鈴蘭の花を贈るのがフランスでの決まり事だって聞いたから、それで、その、勇気を出してみたんです」
ルイーズは顔を隠したかったが、鈴蘭の花を持っていた。どうしよう、かっかと頬が熱くなる。変なふうに見られないだろうか。
「僕はソルボンヌの学生でイロジオン・レベジェフといいます。ご迷惑だったでしょうか?」
ルイーズはイロジオンと名乗る青年を直視できぬまま、かぶりを振った。
「ううん、違うの、嬉しいんです。ただびっくりしちゃって」
青年はほっとしたように微笑み、シャルロットとジャンヌはまた歓声を上げて拍手をした。
ルイーズの顔が赤いのは西日の所為にしておこう。眩しいばかりの光が溢れている。
小さな仕合せをもたらしてくれた白い花に大きな感謝を贈ろう。