We Hate Our Great Teacher
「先生、どうして僕達は勉強をしなくちゃいけないんですか?」。意を決して立ち上がり声高らかにそう言い放った僕の胸の内には、不安や怖れ、気後れの類のものは一切なかった。革命を前にして多少の興奮はあったもののそれを一切表に出さず、落ち着き払った態度を保ちながら、自信に満ちた、勝ち誇ったような笑みさえ浮かべていたと記憶している。 中学三年生の秋のことである。高校受験を直前に控えていたため教室の緊張はピークに達していて、「勉強しろ、勉強しろ」と呪文のように繰り返される先生の訓辞を有難く頂戴しながら、ひたすら机に向かい、板書を一字一句逃さずにノートに書き写す作業を僕らは強いられていた。皆が肉体的にも精神的にも疲れ果てていて、文句を言ったり逃げ出したりして公然と反抗する者こそいなかったが、我慢の限界は少しずつ着実に近づいていた。誰かが立ち上がらなければならない。圧政の下、絶対的な権力を盾に服従を強いて我々から自由を奪っているにもかかわらず、罪の意識もなく平然としている独裁者を、倒さなければならない。その思いは僕ら全員の間で一致していて、体制に反旗を翻すタイミングを狙っていたところへ、いつものように先生がやってきて授業を始めるや否や「夜遊びなんかしてる場合じゃない」「気が緩んでるんじゃないか」などと、僕らの振る舞いや心構えについて口うるさく時おり汚い言葉を混ぜながら説教するものだから、僕が皆を代表してこのような行動に至ったという経緯である。
この一撃は先生にとって致命的であったはずだ。この一撃により先生は屈服し自らの非を認め僕らの自由を許し、その影響は教室の外へ出てどんどん加速度的に広がっていき、最終的には成文化されたこの日本を支配する教育方針そのものを根底から覆し、全ての生徒を勉強から解放することができるだろう。僕らはそう期待して疑わなかった。しかし、窮地に立たされているはずの先生は全くうろたえる様子を見せなかった。そしてそれから間もなくしてこちらを真っ直ぐ見据えながら一切の感情を込めず淡々と言い放たれた先生の言葉は、僕らがひたむきに信じてきた正しさと、それを基盤として僕らの間に息づいていたプライドを完膚なきまでに打ち砕いた。曰く、「お前みたいな馬鹿は、一生負け続ける」。
お前は勉強ができない。そしてお前だけではなく「勉強は必要である」という自明たる事実に対して疑問を抱く者は例外なく勉強ができない。この考えに異論を挟む余地はない。勉強ができる者は勉強は必要だと考えるし、勉強ができない者は勉強は不要だと考える。頭が良く幼い頃から好奇心に任せて知識を貪欲に吸収して優秀な成績を獲得した者が「勉強なんていらない」なんて言うはずがないし、その逆も然りで、頭が悪くやる気もないため授業についていけず落第した者が「勉強をしなきゃいけない」なんて言うはずがないのだ。なるほど、「勉強に青春を捧げて後悔している」「学生時代は大いに遊ぶべきだ」などと言って昔の自分について反省するふりをして勉強不要論を説く学者や知識人も一定数いる。「All work and no play makes Jack a dull boy.」などの諺からもそうした主張を読み取ることができる。しかしそこに隠れている魂胆は実際には恐ろしいもので、彼らは知識や物の見方をたくさん身につけた今の学生達がいつか自分を批判したり自分の立場に取って代わったりすることを危惧して、学生達を洗脳して勉強に対する熱意や義務感を奪い、既に権益を持つ者にとって都合の良い社会を維持しようとしているに過ぎないのだ。
そして、今の世の中は、まさにそういった人達の思い通りになりつつある。お前らは社会に出ると否応なしに「教養」を基準として「勉強のできる勝者」と「勉強のできない敗者」、どちらかのカテゴリーに分類される。しばしば取り沙汰される貧富の格差は、そもそも教養の格差を原因としている。にもかかわらず「勉強のできない敗者」はそうした点を取り違え、教養の格差は貧富の格差の結果である、などと転倒した解釈をして「だから自分は悪くない」といったような見当違いの結論に至る。さらに悪いことには、「勉強のできない敗者」は勉強を経ずして成功を収めたスポーツ選手やタレントといったごく一部の例外を持ち出してきて、その例外が自分にも当てはまるのではないかと何の根拠もなしに信じることによりますます勉強をしない自分、できない自分を正当化しようとする。「勉強のできる勝者」は「勉強のできない敗者」のそうした心理を見抜いていて、それを巧みに利用することによって「勉強のできない敗者」を徹底的に支配している。しかし「勉強のできない敗者」はいつまでも自分が支配されていることに気づかない。なぜなら、彼らは馬鹿だから。
先生は以上の内容のことを話した後、チャイムの音が聞こえると何事もなかったのように教室を出ていった。革命は失敗した。僕らは負けたのだった。ところが僕らの間に敗者特有の不満、怨恨、悲壮感といったものは全く見られなかった。むしろある種の清々しさに満ちていた。誰か一人が堪えきれずに「ぷっ」と噴き出したのをきっかけに、僕らは全員腹の底から声をあげて笑い出した。これまでの自分らの愚かさに、笑っていたのだった。
この出来事以来、僕らが改心してこの“偉大なる先生”の指導の下で、もがき苦しみながらもそれぞれの希望する高校を目指して真面目に勉強に励んだことは言うまでもない。だが、この話で一番面白いのは、あれから四年近く経過した現在、僕らの中であの先生のことを尊敬している者など誰一人としていないということである。