#1-1
広場と呼ぶには少し頼りない、それでも、何人かの人々と荷馬車が往く交う様子を、一人、じっと見つめている。
不満はない。だが、満たされてもいない。何をすれば良いのか、満足するのか、思春期のモラトリアムが彼女をそこに留めているかのようだった。
荷馬車が過ぎ、砂埃が舞うと、長く赤い髪をさっと撫でて埃を払い、思い立ったかのように歩き出した。数本先の小さな路地までのわずかな時間こそ、この旅の最初の一歩、とでも思ったのだろうか。程なくして自宅に着き、意を決したかのように深呼吸をし、玄関のドアを勢いよく放つ。
「ベリー!わたし、行くことにした!」
一瞬、なにが起こったのかわからず、狭い家の中から、ベリーと呼ばれたブロンドの少女がきょとんと見つめている。
「お姉ちゃん?いきなりどうしたの?」
これはいつものことのようだった。いつも突拍子のないことを、この「姉」は言うらしい。
「わたしね、旅に出る。お父さんを追って。」
神にでも誓うかのように鋭い目つきで宣言するが、そんなことできるわけがなかった。二人の父は、船に乗って遠い東の国を目指して旅に出た。これから船に乗ろうというのか?まさか遠い異国まで歩いて行くというのだろうか。どちらにせよ、答えは決まりきっている。
「…いきなり宛もわからないで旅に出るなんて無理だよ?」
やっぱりそう言うのか、と姉は思ったが、悟られぬように言い返す。
「なるほどぉ!それもそうねぇ!」
まるで理解も納得もしていなかった。腕組みをしながら、物憂げなふりをして天井を見つめたり、つま先で床をトントンと叩く。
「お姉ちゃん、やっぱり何も考えて無かったんだね…。」
溜息は、呆れているだけではなかった。姉がすることは、ベリーにとって全て思い出であり、生きてきた時間そのものだった。
※
― 時間の長さを、正確に判断できるだろうか?
世界の大きさを、具体的に説明できるだろうか?
ある人にとってはとても大きく、ある人にとってはとても小さい。
尺度は常に曖昧なものである。―
― 遺跡というよりは、廃墟に近い。街というよりは村と呼ばれる集落の外れに、その建物はあった。
かつては集落の祭礼に用いられていたと思しき祭壇に、ぼんやりと浮かび上がる人影がある。この世の者ではない何者かが、今起きたかのように背伸びをした。
「まだちょっと早いかの…それにしても…」
言いかけて、その場に横になる。
「退屈じゃ。あと10年くらいは寝てようかのぉ。」
再び、森の奥は静寂に包まれた。
※
「なんだか、嫌な予感がするなぁ…」
少しずつ、ベリーは不安にあおられた。姉の考えたふりは、いつもより長かった。小芝居のつもりだろうが、もしかするといつも以上のアイディアかもしれない。
「そうだ!ベリー、なんかいいアイディアある?」
だが、期待もむなしく、いつもの台詞だった。姉は考えることが苦手だった。
「お姉ちゃん、自分で考えるつもりないでしょ?」
妹の指摘に、指を左右に、「ちっちっち、」と振りながら、
「ベリーはまだ子どもねぇ、わたしは姉として、妹の想像力を鍛えようと思って、わざと質問をしているの!」
そう言われたら、言い返さないわけにはいかない。
「んもう!いっつもそういうこと言って、結局なんでも私に押しつけるじゃない!だいたいお姉ちゃんは考えなしに思いつきで先走るからダメなんだよ?思いついたことをテキトーにやろうとするから迷惑かけるし、あの時だって、いきなりトマトを投げつけたりするから…」
姉はほとんど話を聴いていないし、ベリーは本心で怒ってはいなかった。どこにでもある、姉妹喧嘩の風景のように。
※
洋上、穏やかな波にキャラベル船の帆が風を受ける。船内の各部屋は、貿易品を多く積むため、間取りはとても狭くなっており、個室が与えられているのは船長ほか、わずかな者だけだった。地理の知識があり、測量の技術があり、かつ、絵心も持ち合わせていたのは、この男にとって幸運といえる。放浪の画家、と言えば格好がつくが、ただ自分が描きたいだけで続けてきたことだった。
男が黙々と描くキャンバスには、女性が三人、描かれている。狭い船室のドアがノックされ、一瞬、絵筆が止まる。「入りますよ」とだけ発して、体格の良い大男が入ってきた。すぐに描かれている絵に気づく。隠す場所などないし、隠す必要もなかった。
「ほう、これは立派な航海記録ですなぁ、フェデリコさん。」
「あー、船長、これは、まぁちょっとした息抜きです。」
この船長は、息抜きに絵を描いていたところで職務怠慢だと怒るような男ではない。画家への尊敬も持ち合わせていたし、一介の船員とは違い、教養があり度量もある。船長が船長たる所以でもあり、ただ、「これは美しい女性ですねぇ」と興味津々に絵をのぞきこむ、そういう男だった。
「妻と二人の娘です。思い出しながら描く、というのもまた一興と思いましてね。」
フェデリコは頭を少し掻きながら、照れくさそうに答える。
「姉の方がタニアで、妹がベリンダです。しばらく会ってないので、もう少し大人になってるはずですが。」
ひとしきり照れ笑いを浮かべると、船長は腕組みをし、考え深そうに目を閉じた。
「私にも娘がいますからなぁ。こうして海に出るたび、会いたい気持ちは募るものです。親というのは、下手な積み荷よりも厄介なものですなぁ。」
そう、自虐のように、照れるかのように海の男は笑った。航海は順調のようだった。
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