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午前七時。自宅のカーテンを開ければどんよりとした灰色の雲が空一面を覆っていた。テレビを付けて天気予報を確認。湿度が高く、蒸し暑い日になるでしょうと天気予報のお姉さんが晴天の笑顔で伝える。降水確率は五十%らしいが、余計な手荷物を持つのは嫌いなので、七十%までは傘を持たないようにしている。
もぞもぞと布団から起きて着替えて顔を洗って、今日も元気に仕事に向かう。悲しいことに啓太の至って普通の日常だった。
ぼんやりとした頭で朝食にトーストとサラダを食べていたところで、上司の速水から着信が入る。
『おはよう成瀬くん』朝から速水は凛とした声だった。
「……おはようございます」朝から覇気の無い声で啓太も挨拶を返す。
『露骨に不機嫌なのは無視しましょう。あなた、今日は財務部に来なくていいわ』
朝っぱらからとんでもないことを口走る速水に、一気に血圧が上がった啓太は牛乳を飲んで一旦落ち着く。
冷静になるんだ、これはきっと悪い夢だ。こんな歳でクビにされて路頭に迷うなんて冗談じゃない。
彼女にも慈悲があるはずだ。媚びを売ってみよう。
「朝から悪い冗談はよしてくださいよぉ~先輩」
『冗談でこんなこと言わないわ。これは決定事項なの』
どうやら自分の解雇は決定事項らしい。潔く再就職先を探すことにし、大きなため息を一つ吐いて、啓太は速水にお別れの挨拶を切り出す。
「先輩、短い間ですがお世話になりました。引継ぎは済ませておくので」
『いや、ちょっと、成瀬くん?』
「先輩には、俺が優秀になって恩を返したかったのに……迷惑ばっかりかけてしまって申し訳ない。ここで得た経験は次の職場で活かしますので! あ、年賀状も毎年出しますからね」
『な、成瀬くん!別にあなたクビじゃないのよ、ちょっと聞いてるの⁉ 』
「あー、聞いてますよ。それで今日はどこに向かえばいいんでしょう」
急に茶番に飽きる。やっぱり朝は調子が悪い。
『………………』
「お、怒らないでくださいよ。ちょっと、速水先輩?」
『こんな仕事もできないふざけた後輩クビにしていいのに……』
おそらく速水の本心から出た言葉だっただけに、啓太は冷や汗をかきながら謝る。
「す、すみませんでした、ちょっとした冗談のつもりでした」
『……まぁいいわ。あなたは今日、治安部に帯同してもらうことになっているの』
「治安部?」
政府の部署の一つである治安部。おそらく世間で一番認知されている部署とも言え、その理由は彼らに逮捕権が認められているからである。警察権力というとても強い権限を有しているだけに、啓太もできれば近寄りたくはない部署だった。
「なぜ、治安部に俺が?」
『人手不足だから、要は助っ人ね。うちの部署だけじゃなくて他からも何人か集めているらしいわ。それで、財務部は大して使えないあなたを派遣することに決めたの』
「拒否権は?」
『あるわけないでしょう』
期待するだけ無駄だった。
「はぁ……わかりましたよ。それで、具体的に俺は何をすれば?」
『八時にあなたを政府正門前に行かせろ、と言われただけだから、活動内容までは知らないわよ』
「了解です、八時に正門前ですね」
『確かに伝えたわよ』
通話が切れる。最悪の気分としか言いようがないが、他の部署の仕事を体験できるチャンスだと、頑張って意識を切り替える。それでもやっぱり治安部は怖いことに変わりはないが。
トーストを噛みながら、つけっぱなしのテレビを見る。テレビでは十五歳くらいの可愛いらしい少女が大きなステーキの食レポを行っている。
朝からあんな豪華なステーキを食べさせられている少女を気の毒に思いつつチャンネルを変えると、反政府派の集団がプラカードや旗を持ちながらデモ行進している様子をニュースが中継していた。
プラカードには大きな赤字で「独裁政府の打倒! 自由と平等を!」と書かれている。啓太は思わずトーストが喉に詰まりそうになった。
そのままニュースを見ていると、デモ行進はちょうどさっき始まったらしく、その規模の大きさから政府も対応に追われているとアナウンサーが伝えている。
治安部に啓太が招集された理由は、十中八九これが関係しているのだろう。思ったよりも厄介な仕事を回されたらしい。
携帯を出して着信履歴を見る。表示された時間を見ると、デモが起きてからわずか十分ほどで速水からの着信が来たことを示していた。
「朝からお疲れさん……」
あまりにも早い同僚たちの対応に半ば呆れつつ、残っていた牛乳を一気に飲みほした。
通常、政府の正門前に人は集まることはない。豪華な建物ではあるが一般人は入ることはできないし、待ち合わせに利用しようにも、怖い顔をした治安部の生徒が警備しているので居心地も悪い。
ただ、この日は違っていた。見るからに男の人口密度が高い。そして揃いも揃って体格がいい。まさに体育会系の野郎どもが集団になって正門前を占拠している。あれでは他の部署の人たちも政府内に入りづらいのではないかと、勝手に啓太は心配していた。
とりあえず集団から少し離れた場所で様子を窺っていると、政府に入学するには明らかに年齢が足りていない子供の一団があった。ざっと見て二十人ほどいる子供たちは小さな背丈に揃って黒い制服を着て、胸には赤い文字で『訓練生』と刺繍されている。訓練生の制服は、政府の制服と心なしか似ているようだ。
「「「…………」」」
訓練生たちは政府や治安部に興味津々といった様子でキョロキョロと辺りを見回していた。
彼らはこの世界で何を夢見て、幼い頃から学業に明け暮れるのか。個人的にとても興味深かった。そういえば高橋家の妹も訓練生だったのを思い出したが、彼女はこの場にいるのだろうか。
「お前は確か……成瀬、だったか」
啓太がぼんやりと訓練生を眺めていると、後方から声がかかる。
その声の方を見ると、なんとそこにいたのは治安部の部長である真嶋龍太郎だった。昨日の一件で自分のことを覚えていてくれたのだろう。啓太は姿勢を正して返事をする。
「はい。本日財務部から駆り出されました、一年の成瀬です」
「そうか、お前が来たのか。昨日はすまなかったな……それと、急な招集にも関わらずによく来てくれた。感謝する」
真嶋は啓太をまっすぐ見て礼を言った。見た目のわりにとても真面目な性格らしい。
啓太の方も、何かあれば役立たずや不良債権と呼ぶ政府の同僚たちと比べて普通に接してくれる真嶋には好感が持てた。あとは表情を少しでいいから和らげてくれるとなおよいのだが、という要望は言えずに、無難に返す。
「今はどこも人手不足ですから、気にしないでください。……ところで今日、俺たちは何をすればいいのでしょうか」
「ここから少し離れた自然公園で、大規模デモが一時間ほど前に発生したのは知っているか?」
「はい、ニュースで少し見た程度ですが」
「突発的に1000人ほど集まったそうだ。その集団がデモ行進を始めたせいで行政活動や交通状況にも大きな影響が出ている。これを速やかに鎮圧するためにお前たちを招集した」
「なるほど、わかりました。しかし普段は治安部の方々だけでデモ活動の取り締まりはできていると思ったのですが、何かあったのでしょうか」
「今回は事情が違う……あれを見ればわかるだろう?」
言いながら真嶋は訓練生の集団を見た。
「今日は元々、訓練生たちが治安部の見学にくる予定だった。ところが今朝デモ活動が発生したせいで我々はその鎮圧に動かねばならん。訓練生の面倒を見ながらデモの鎮圧となれば、我々も動きづらい上に人手も足りない」
「訓練生の見学をキャンセルしようという話は出なかったのですか?俺の想像だと、現場はちょっと危ないと思いますけど」
「……我々もこんな場所に子供たちを連れてくるのは反対だった。ただ、訓練生側の要望と、上の承諾があれば従うしかない」
治安部の上ともなると、生徒会くらいしかこの国にはない。やはり生徒会の権力は強いらしい。ともあれ、人手不足の原因は把握できた。
「もちろんデモの鎮圧は治安部が中心に行う。迅速な鎮圧のためにも、お前たちには訓練生の引率、保護を頼みたい。絶対に危ない目に遭わせるわけにはいかないからな」
「了解しました、お任せください」
啓太の返事に、真嶋は満足げに一つ頷くと、治安部の集団へと歩いていった。これから全員に向けて挨拶をした後、号令を出すのだろう。下っ端、もとい助っ人の啓太はその指示を待つだけである。
見れば他の部署から来た助っ人たちは訓練生に挨拶をしていた。訓練生は目を輝かせて敬礼をしたり、熱心に話を聞いていた。政府の人間は良くも悪くも、彼らにとっての目標であるのだろう。
自分だけ挨拶をしないわけにもいかないので、啓太も動き出して訓練生の集団に向かう。無難に挨拶をしたつもりだったのに、生徒会から来た一年生が啓太を指さし「こいつみたいにはなるんじゃないぞ」と付け加えたせいで、訓練生たちからの視線が冷めてしまった。「ふりょーさいけん」と子供から口々に呼ばれるのはやはりキツイ。
子供の視線に耐えていると、真嶋から号令があった。先に治安部はパトカーで現場に急行、訓練生たちはバスに乗せてその後ろを追う形になるらしい。危険な事態も想定されるため、訓練生はバスから出ないように、とも釘を刺された。啓太たち助っ人の仕事は、バスの中で訓練生とともに待機するという拍子抜けしたものであった。これならば自分にできることはあまり無いのかもしれない。
バスに揺られ、窓から景色を眺めていると、隣に座っていた訓練生の男の子が袖を引っ張ってくる。何事かと思い、視線をやると右手を広げて何かを催促している様子だった。
ポケットからガムを取り出して右手の上に置くと、男の子は嬉しそうに「ありがとう」といってガムを食べ始める。気を許したのか男の子は声をかけてきた。
「ねぇ、ふりょーさいけんさん」
「何かなボク? お兄さんは成瀬っていうんだけど」
「ボクじゃねぇよ。ねぇ……なんでデモなんておきるのか、わかる?」
「ん? そうだなぁ……政府に文句がある人がいっぱいいるからじゃないのかな」
そう啓太が返すと、男の子はにっこり笑って「違うよ」と言った。
どうやら自分なりの考えがあるらしく、啓太は聞いてみることにした。
「じゃあどうしてかな」
「デモをする人がバカだからだよ」
男の子は自信満々に胸を張って答えた。一分たりとも自分の考え方に疑問を持っていないようで、男の子は啓太の反応を窺っている。そう答えた理由を聞いてほしいと男の子の顔に書いているので、それに従う。
「どうして君は彼らをバカだって思ったのかな」
「だってあいつら、文句ばっかりいうけど何もできないじゃん。そうやって文句をいうばっかりで、マジメに働いてる人にめいわくかけてることに気づいてないんだもん」
「それでも、伝えたいことがあったんじゃないか」
「あいつらバカが伝えたいことなんて、たかがしれてるよ」
男の子は辛らつに切り捨てる。啓太は笑うしかなかった。
この男の子はまだ九歳ほどの子供だったが、『訓練』が行き届いているのかその思考や着眼点は子供らしくないように思えた。これが子供らしくない教育を受けた『訓練生』の思考回路なのかと、啓太は興味深く思い、もう少し会話を続けてみることにした。
「たかがしれてる、か。じゃあ君は彼らが言いたいことは何だと思う」
「知らない。じゆーとかびょーどーとか、中身のないことじゃないの?」
「それは人間にとって大事なものだと思うけど」
「そんなものは政府がすでにほしょうしてるし、あいつらが政府に成り代わったところで、今よりそれをほしょうすることなんてできないと思う」
「……それは学校で習ったのかな?」
「そうだよ。オレたちはみんなそうやって習った」
「そっか」
なるほど、教育は上手くいっているらしい。この考え方が子供たちにうまく広がっている以上、『二十年国家構想』はこのままならば安泰だろう。生徒会長の凛々しく自信に満ちた顔が頭に浮かんだ。
それに啓太自身、この男の子の考え方に似たようなものを抱いている。ちょっとだけ方向性がずれているだけで、啓太はこの子にシンパシーを感じることができた。
だからかもしれない。
「君は賢いんだね。……よかったら名前を聞かせてもらっても良いかな?」
つい、啓太は名前を聞いた。
男の子は褒められたことに喜んだのか、無邪気に自分の名を名乗った。
「いいよ! オレはあんたが死んだ後有名になるからね。オレは真嶋大河っていうんだ」
男の子の口から飛び出した信じられない名前。聞き間違いかもしれない。いや、そもそも苗字が同じなだけかもしれない。
啓太は確認を取る。
「え…………真嶋ってことは……」
「うん! オレの兄ちゃんは治安部部長をやってる。知ってるでしょ?真嶋龍太郎っていうんだけど。ああいうバカどもをやっつけて、捕まえている兄ちゃんが大好きなんだ!」
「オレの兄ちゃんは治安部部長」と言ったところでもう啓太は大河の言葉など聞いてはいなかった。その言葉だけで十分だった。
頭の奥がガンガンと痛む。軋むような痛みとともに、思考が鮮明になる。頭の中で音を立ててパズルが組み立てられる。真嶋の弟、そして大規模デモ……何者かの手によってピースは半ば強引に集まっていくことに、得体のしれない気持ちの悪さを感じる。
「そうか。大河くん、喉乾かないかい?お兄さん何本かジュースを持っているんだ。よかったらあげるよ」
「ほんとう?! ありがとな、えーと、成瀬の兄ちゃん!」
今日は曇りで、雨は降っていないもののジメジメと蒸し暑い。仕事中に飲もうと思って用意していた飲み物だったが、こんなところで役に立つとは思わなかった。
「お、ようやく名前を憶えてくれたね。はい、どうぞ」
顔がニヤけるのを抑えて、啓太は大河に持参していた飲み物を渡す。
大河は嬉しそうに受け取り、ごくごくと飲み始めた。啓太は黙ってその様子を眺めながら、デモ集団のもとにバスが到着するのを待ち続けた。
山場はこれからだ。