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そのまま一時間が経過したのに気が付いたのは、啓太を呼ぶ声が耳に届いた時であった。
声の方を見ると三年生のブースから、森という男子の先輩が手招きをしていた。
「お呼びですか、森先輩」
「おう成瀬。今日はもう帰ってもいいからさ、帰りにこれを技産部に届けてきてくれないか」
そう言って手渡されたのは分厚い資料の束が入った青いファイルだった。おそらく啓太が一生携わることのない、本来の財務部の仕事で生み出された紙の束は、グラフやら数字やらがびっしりと並んでいた。
「別に明日でも良かったんだけどさ。今日出来上がっちまったから、まだ残業している奴もいるだろうし、帰りがてらちょっと届けてきてくれよ」
「あー、わかりました。技術産業部に届ければいいんですね?」
「おう、頼んだぞ。そんじゃお疲れ」
「お疲れ様ですー……」
くるりと椅子を回して、森は啓太からパソコンへと視線を移す。まだこの人は仕事をするつもりなのだろうか。
荷物をしまい、コートを着て帰り支度を済ませ、隣の席の速水に挨拶を済ませてから啓太は財務部を出て、技術産業部、通称技産部へと向かった。
財務部は校舎の正面から向かって右側の三階に位置しているが、技産部はその対極とも言える位置に置かれているため、同じ建物内でも移動に時間がかかった。
珍妙なジュースを売る自販機が設置された中央広間から、そのまま廊下を渡って校舎の左側へ向かっている途中のことだった。
「……ん、そこの一年。ちょっと待った」
壁にもたれかかっていた白衣の中からフードを被った小柄な女性が、黙って通り過ぎようとする啓太に声をかけてきた。立ち止まった啓太が視線を向けると、謎の女性は口元に何かを咥えてこちらを見ていた。
「何か用ですか」
「技産部に用があるのは君だろう?技産部四年のあたしが話を聞いてやると言っているんだ」
咥えていた白い棒を手で持ち、透明な煙を吐き出した。どうやら電子タバコらしい。
煙を吐き出した際にちらりとフードの中の顔が見えたが、病人のように青白い顔色と、射るような鋭い目が印象的だった。
啓太はファイルを女性に見せる。
「なるほど。このファイルを技産部に届けるのが俺の用事です」
「余計で非生産的な質問をしないのは好印象だ、財務部の不良債権くん。一応、名乗っておこう。おそらく知っていると思うが、技術産業部部長、八雲燈子だ」
そう言うと八雲はフードを脱いで顔を露わにする。日本が誇る大企業、八雲技術研究所の社長を務め、そして政府の技産部の部長も務める彼女は、名前だけなら日本でもかなり有名である。ただし露出嫌いでメディアには顔を出すことがないので、啓太は顔を見るのは初めてだった。
サイドテールにした金色の髪にエメラルドのような緑色の目、そして深い知性をたたえた顔は間違いなく美人であったが、左の頬にある大きな火傷の跡に目を引かれる。
「……?ああこれか、ちょっと昔にね」
女性にとって命でもあるはずの顔についた火傷跡を触りながら、八雲はどうでもいいことのように笑いながら語る。啓太は居心地の悪さを感じ、さっさとファイルを渡して帰ろうと思った。
「あ、これファイルです。受け取っていただけますか」
「さっさと帰りたいところで申し訳ないが、君と少し話がしたいのでね。そのあとならば受け取ろう」
「あなたを無視して直接技産部に届けることも出来ますよ」
「出来るかな?おそらく君はそんなことはしないと思うが」
緑色の目が生物観察するかのように啓太の顔を覗き込んでいる。その舐めまわすような目からは何を考えているのかは読めない。ただ気持ちが悪いうえに、おそらくこの人とは仲良くなれそうにもないと思ったが、どうせ彼女は満足しない限り自分を開放はしてくれない。
諦めて啓太は八雲と話すことにした。
「……それで、俺と何を話したいのでしょうか」
「二十年国家構想について、だ。率直に君が抱いている感想を聞きたい」
「非常に優れたシステムだと思います」
間髪入れずに啓太は反射的に答えるが、八雲は納得していない様子で首を振った。
「そんなことを聞きたいのではない、もっと具体的に聞かせてほしい。ほら、テストでも解答しただろう」
「……人の寿命が二十年に短縮された世界で、その二十年をより効率的に、生産的に社会に組み込み国家を機能させ、その繰り返しが新しく生まれてくる命の保護にもつながる理想的なシステムかと思いますが、これではご不満ですか」
「いいや、優秀な官僚らしい模範解答だと思う。あたしは君の感想が聞きたかったのだが」
「………………」
「答える気はないか。まぁいい、あたしは君を買っているんだ。ぜひ君の頭の中に従ってこれからも行動してほしい。影ながら応援している」
後頭部がずきりと痛む。最近になって痛みとその頻度が増えてきたようにも思える。ストレスが原因なのだろうか。
「どういう、意味でしょう」痛みを無視しながら八雲の言葉の真意を聞いた。
「そのままの意味さ。成瀬、少しの時間だったが楽しかったよ。おやすみ」
啓太の手から乱暴にファイルをひったくり、スタスタと背を向けて去っていく。
「ああそうだ」
数歩歩いたところで八雲が立ち止まり、振り返った。窓から差し込む月の光が、彼女の顔を静かに照らしている。
「おそらく自分でも気づくと思うが……ヒントを挙げておこう。天城姉妹は互いに呪縛されている。それと……少しは政府の外にも顔を出してみることだ。使えるものがあるかもしれないからな」
彼女はいたずらっぽく笑った後に再び背を向ける。
「怜樺をよろしくな」
そう一言呟くと、小柄な技産部部長は今度こそ去っていった。
頭の中でパズルを組み立てる。想像を働かせる。
なるほど今日彼女に出会えたことはまさに幸運……いや、おそらくこの出会いは彼女が仕組んだものなのだろう。ますますその真意は謎ではあるが。無人の廊下を録画する小型カメラのほうをちらりと見て、啓太は思考を修正した。
その後誰もいなくなった廊下で啓太がしばらく八雲の去った方向を眺めていると、不意にポケットに違和感があった。何かと思い、取り出してみると、黒い電子タバコが入っていた。彼女がファイルを乱暴に受け取ったときにこっそりと忍び込ませたのだろう。煙が水蒸気式のものであり、身体には無害なタイプだった。
「…………帰るか」
彼女からの贈り物を咥えて吸うと、ほんのりと甘い風味が口の中に広がった。疲労した身体と頭を包み込むような心地よい甘さだった。
今日一日でいろいろなことがあった気がする。おおむね実りのある一日だと評価できるが、かなり身体の方は参っている。さっさと帰って眠りたかった。
もう一度、今度は深く味わうように煙を吸って、啓太は静かに自宅への帰路へとついた。
燈子は政府内の自室の窓から、雲に大部分を隠された月を眺めていた。せっかくの満月であるのに、雲に隠れてしまってはその半分も見えていないのだからつくづく難儀なものだと思う。
机の上に置いた携帯が着信を告げる。我が親友からだ。
「もしもし」
『私だ。……例の件の進捗はどうなっている?』
携帯から聞こえてくる、ガラスのように透明で、無機質な美しい声。あの演説を日ごろから聴くものならば、この声が彼女だとは思うまい。
「半分程度、かな。小型遠隔無人飛行機の改良増産、通信機器の増設メンテナンス、式の計画になにぶん金も時間も随分とかかるから」
スラスラと嘘をつく。進捗どころか既に準備は完了しているが、その旨はまだ告げる気はなかった。今は勇者が武器と仲間を集めているのだ。そこを邪魔するのはフェアじゃない。
『頼む。私にはあまり時間がない。誕生日までには必ず間に合わせてくれ』
「わかってる。妹さんのためにも、ね」
『…………』
返事はない、が向こうの表情は手に取るように分かった。気にせずに続ける。
「ああそういえば。今日、彼に会った」
『……成瀬か。どんな奴だった』
「見た目のとおり冴えないつまらない男だよ。怜樺が気にするほどではないと思うが」
感じたこととは真逆のことを意図的に彼女に伝える。実際に彼女も奴と相対すれば同じ印象を受けるはずだ。こんな報告などあたしたちには何の意味も持たない。
『つまり私が会う価値はあるということか』
そうだ、よくわかっているじゃないか。さすがは親友といったところか。
「人の言葉は素直に捉えるべきだね。これじゃまるであたしが嘘つきみたいじゃないか」
『お前はつまらない人間の見た目など見ないからな。……わかった、後日彼に直接会ってみよう』
「そうするといい。要件はさっきので終わり?」
『ああ、こんな時間に悪かった。それでは、おやすみ』
「おやすみ」
携帯を切り、机の上に放り投げる。啓太にあげたものと同じタイプの白い電子タバコを取り出し、一服する。果たして奴は今何をしているのだろうか。
それにしても、こんなどうでもいい要件で電話をしてくるとは、彼女もだいぶ余裕がないらしい。不本意ながらとはいえ、彼女も一国の女王になってしまったのだから、その苦労は察せるが。
窓際に立ってもう一度月を見てみる。
雲はすっかりどこかへ流れて、綺麗な満月が姿を現していた。