月と晩酌2
それから15年間。彼は毎年この場所で同じ時間に晩酌をしている。
彼のその後の人生はこの晩酌の為にあったと言っても過言ではない。最後に黒い男が言った言葉をヒデオは信じ、毎年希望を抱いて公園にやって来ていたのだ。
黒い男の言葉はヒデオの生きる理由となったが、同時に彼を縛りつける呪いの言葉でもあった。
2本目の三番絞りを飲み干すと、ヒデオは空を見上げる。そこには、憎らしく満月が輝いていた。
「今年で俺も45歳か…。気づかないうちに随分歳をくったもんだ。」
あの夜の後、失意のヒデオは一週間有給を取り仕事を休んだ。理由は告げなかったが、成績優秀のヒデオの事を信用し、上司は深くは内容を聞かなかった。
働かなくては暮らしていけないので、7日後、ヒデオは精神に鞭を打ち、会社に出勤した。
そして、妻が居なくなってしまった事を嫌でも思い知る事となる。
ヒデオが会社に出勤すると、皆心配そうな顔で迎えてくれた。その中で、特に世話になっていた上司がヒデオの肩を組むと話し始める。
「よぉ。飯田。お前が休むなんて珍しい事もあるもんだな。岩田鉄鋼の社長さんもすごく心配してたぞ。どうしたんだ?随分と暗い顔してるな?」
「ご心配をお掛けしました…。急な休暇を頂いてしまい、申し訳ありません。」
「お前は頑張ってたからな。仕事の疲れが急に来たんだろ。これからも頑張ってくれよー。この部署はお前が居るから頑張って来れたんだからな!」
「いえ…。そんな事」
「謙遜すんなよ!そこで、頑張ってるお前にいい話があるんだ!どう?聞くか?」
にこやかに接してくれる上司にヒデオは少し安堵した。ああ。この人達は変わらないと。
「はい!ありがとうございます。」
しかし、次の言葉にヒデオは絶句する。
「いい縁談!持ってきたんだよ!お前は仕事もできるし顔も悪くない。自慢できる男だ。そんな男が独身なんてもったいないだろ?」
顔面蒼白になるヒデオ。やはり、思った通りだった。妻の存在はこの世界から消えている。休んでいた一週間のうちに戸籍も調べてみたが、独身になっていたし、知り合いに尋ねても誰もヒカリの存在を認識していなかった。
…俺は1人になってしまったんだな…。
喪失感が心を埋める。徐々に冷めていく自分。空っぽに近づいていくのを感じる。
「お前が好きそうな女性を選んできたんだ。取り敢えず会ってみるだけでも…。
ん?どうした?飯田。顔が真っ青だぞ!」
「やめてください!!」
ヒデオは気がつくと大声で拒絶し、上司を突き飛ばしていた。にこやかに話す上司が驚いた表情に変わる。
彼は、ヒデオの事を思って良心から提案しているのだ。それなのに自分の感情に任せて怒鳴ってしまった。罪悪感が心を蝕む。
「も、もしかしてもう心に決めた人がいたのか?それなら先に言ってくれれば良かったのに。悪かったな。」
上司は少し引きつった笑みを浮かべながらすごすごと見合い相手の写真をカバンにしまった。
「た、田中部長。申し訳ありません。」
「いや、いいよ。俺も無神経で悪かったな。」
部長は申し訳なさそうに言って自分の席に戻った。
「でも、飯田って彼女いなかったよな?」
隣に座る同僚の川島が唐突に話し出す。
「好きな人でもいるのか?あ!もしかして休んでたのって振られたショックか!!」
「…」
ヒデオは言葉に詰まった。言えるはずもない。もし、今ヒデオが自分には妻がいて、異世界人だった。そして、異世界に連れ去られてしまった。何て言うものなら、変人扱いされるのは目に見えているからだ。そこで、同僚の話に乗り、作り話をする事にした。
「あ…。そう。実はそうなんだ。この間プロポーズしたんだが、振られちゃってな…。一週間も凹んじまった。俺まだ彼女の事が忘れられそうにない…。」
これが、悪手だった。
「へぇ。あの頑固体質の湯川社長から信頼を勝ち取った我慢強い飯田がねぇ。色恋には疎いと思ってたけどそんなにショックを受けるなんて知らなかったな。
それなら俺に任しときな!そんな女の事忘れるくらいいい女を紹介してやるよ!」
嫌な予感がした。
それから、ヒデオには何度も縁談や、同僚からの合コンの誘いが来ることになる。
ヒデオは幾度となくそれらを断った。
もちろん彼らに悪気がある訳ではない。むしろ彼らはヒデオの事を思ってやっている事だ。しかし、ヒデオは話を断るたびに、良心を踏みにじる罪悪感に心が歪んだ。
…どうして俺に妻が居なくなってしまった事実を突きつけ続けるんだ!!
日に日に溜まっていくフラストレーション。そして、ヒデオが取引先の社長の持ってきた縁談を断った時。
遂にヒデオは信頼を失った。
どうやら見合い写真に写っていた女性は取引先の社長の娘だったらしい。取引先の社長はヒデオが結婚相手を探していると言う間違った情報を仕入れ、自慢の娘を自身も気に入っていたヒデオに紹介したようだった。自分の娘に自信があった社長は娘の容姿をヒデオが気にいると確信していた。
しかし、ヒデオはそれを断ったのだ。
自慢の娘を貶されたと感じた取引先の社長は大激怒。ヒデオは会社で大きな利益を上げていた取引先を失うという大失態を犯してしまう。
それから、ヒデオが会社で居場所を失うまで時間はかからなかった。
仲の良かった同僚は「あいつは女に興味ない変な奴だと罵り」、ヒデオを重用していた上司は「あいつはもうダメだ」と、ヒデオを窓際へと追いやり、雑務だけをまわした。
それでも、ヒデオが会社に残れたのはそれまでの功績からだった。今まで大きな利益を上げ続けていたヒデオをリストラするのは会社としても勿体無いと感じたのだろう。
会社では、厄介者扱いされ、家には誰もいない。孤児であったヒデオには親族すら居ないのだ。勿論知り合いがいないわけではなかったが、同じ施設の出身者と話すと、ヒカリの事を思い出してしまい、長くは一緒にいられなかった。
世界で自分は独りぼっち。
今までヒカリと共に歩んできた分。その事実が彼の心を強く蝕んだ。
ヒカリの為ならばどんな仕事も頑張れる。
ヒカリの為ならばどんな苦しみにも耐えてみせる。
ヒカリの為なら…。
ヒカリの為なら…。
そうやって生きてきたヒデオは、生きる意味を失ってしまったのだ。
もう、ヒカリはいない。
その事実を誰かと会うたび、幾度となく突きつけられてしまい。ヒデオの心は限界だった。
ストレスを緩和する為、彼は暴飲暴食を繰り返した。
好きでもない酒を潰れるまで飲み、食べ物を食べまくる。
そして、夜にはヒカリが消えた事を思い出し、なかなか眠れずにいた。
そんな生活を続けて15年。
彼は好青年だった姿からかけ離れた姿になっていた。腹は出ており、ストレスから髪の毛抜け落ち、目つきも悪ければ、服装も綺麗とは言い難い。小汚いおっさんという言葉がぴったりと彼にハマるほどに。
中年は缶ビールを片手にポンと腹を叩くと呟く。
「昔はこうじゃなかったのにな。」
隣には封の空いていないオレンジジュース。高校生の時にヒカリがよく飲んでいたものだ。しかし、それを飲む妻はもういない。
「まぁ、どうでもいいか。みせる相手もいないしな。」
隣で笑ってくれる人がいなければ彼は頑張る事が出来ない。ヒデオはそんな性格だった。
空を見上げれば満月。
あの日の夜の事を鮮明に思い出す。
バチバチと音がする黒い扉がこの公園に現れて…。
その時、何やら奥の方からバチバチと音がするのに気がついた。
と、同時にベンチの後ろ側から聞き覚えのある懐かしい声聞こえた。