頑張れ モテない君
このところすっかり肌寒くなった十一月の末、市内の大学病院を出た僕は木枯らしのふく山道をよろめきそうになりながら歩いた。途中で立ち止まり、さっき病院からもらった診断結果の紙を見た。
「HIVの検査 結果 陽性」
震える手で紙を持ち、悔しくて、悲しくて、ため息が出た。何度も何度もため息が出た。
どうして僕がこんな目に遭わなきゃならないんだ?
僕は生まれてから今年になるまで三〇年近く、女性と付き合ったことがなかった。風俗にだって行ったことはない。世間でいうところの典型的なモテない君のサラリーマンだった。同期の奴が次々に素敵な彼女をゲットし、その話をいつも羨ましい思いで聞かされた奥手な人間だった。なのにどうして……本当に辛い。
山道を出て市街地に入り、前の視界がよろめくような思いでしばらく歩いた。やがて車が行きかう国道が見えてきた。
「ブブー」
いけない、いつの間にかトラックがすぐそこにきてる。横断歩道が赤なのに渡ってたらしい。慌てて横断歩道をかけ渡った。トラックが怒ったようなクラクションを鳴り響かせて走り去った。
とにかく家に帰らなくちゃいけない。重い体を家の方角に向けた。自然と涙が出てきた。これからどうすればいいんだ? 母さんに何て言えばいいんだ?
寒さが身に染みてしょうがない。
半年前
四月一日の朝、僕はいつものように満員のバスの中で立って手すりを持ち、うとうとしながら会社に向かった。バスの中には初々しい感じのOLの姿も何人か見える。そういえば今日から会社は新年度だ。もしかして新入社員だろうか? そんな他愛もないことを考えてるうちにバスが停まった。僕が働く会社がある大手町に着いたようだ。
大手町のバス停を降りた。バスの中の圧迫された空気の中からようやく解放された。歩いて一分ほど歩くと僕が勤務する友愛商事のビルが見えてきた。このビルは一昨年新築したばかりの八階建てのきれいなオフィスビルだ。僕はビルの玄関を入って一階のエレベーターの前でエレベーターがくるのを待った。
エレベーターに乗り、六階で降りた。広いフロアー、ここが僕が働く経理部だ。いつものように僕の課長の黒柳が早くからきて仕事をしている。まだ四〇代だが頭がかなり禿げ上がった課長だ。あの禿げ頭が視界に入るだけで胃が重くなってくる。
「おはようございます」
「おはよう」
この課長、僕が挨拶してもこっちを見向きもせず、いつものように黙々と仕事をしながら愛想ない返事をしてくる。こっちだって好きで挨拶してるんじゃないんだから、そっちだってきちんと挨拶ぐらいしろってんだ。この課長、大変な働き者で、毎朝会社にやってくるのはいつも課で一番早い。働き者なのはいいんだが、人一倍口うるさい。仕事上のミスをいちいち嫌味っぽく言ってくる。おかげで課長と一緒にいるだけでストレスを感じてしまう。悪いことに僕の机は僕の席は課長のすぐ横だ。
机で資料に目を通していた課長が顔を上げ、僕を見る。
「ああそうだ、片平君、昨日出してもらった報告書さ、あれミスが何か所もあったよ」
「ああ、そうでしたか」
「そうでしたかじゃないよ。駄目だよ、もっとしっかりチェックしないと」
「すいません」
またいつものお小言が始まった。毎日これだからこっちはたまったもんじゃない。せめて席を課長から離してくれたらもっと楽しく仕事ができるのにといつも思う。
僕は机に鞄を置いて机の上を整理すると八階の休憩室に向かった。休憩室には自販機が置いてある。毎朝自販機でコーヒーを買って飲むのが日課だ。朝はコーヒーを飲まないと、どうも仕事に身が入らない。部屋を出て階段までやってきた時、一人の若い女性が廊下に立っていた。スマホを見ているようだ。どうもその様子からして、今度うちの会社に入った新入社員のようだ。
どんな女の子が今度うちに入ったのか気になって、横目でその女性をチラッと見た。その瞬間、僕の心が一瞬に奪われた。
かわいい。長い髪にくりっとした目にまだ学生のような面立ち。僕の心が激しく時めく。彼女、何か困っているようだ。思い切って聞いてみた。
「あの、どうかしましたか?」
彼女が一瞬戸惑う。
「あ、はい、今日入社式があるんですけど、私総務の奥寺課長から受け取らなきゃいけないものがあるんです。どこに行ったら会えるのかと思って」
「ああ、総務だったら僕案内します。一緒についてきてください」
「どうもすいません、助かります」
総務は六階だ。僕はエレベーターのボタンを押した。
僕は思い切って聞いてみた。
「あの、うちの新入社員の人ですか?」
「はい、そうなんですよ」
エレベーターがきたので二人で乗った。
「どこの部署に配属されたんですか?」
「はい、営業部の二課です」
エレベーターの中で彼女と二人きりだ。ドキドキしてきた。心なしか彼女嬉しそうな顔に見える。
やがてエレベーターが止まった。総務があるフロアーについたようだ。
フロアーを見ると奥寺課長が机にいた。
「あそこの少し腹が出た狸に似た人いますよね?」
彼女がクスッと笑う。
「はい」
「あの人が奥寺課長ですよ」
「そうなんですか」
「それじゃあ僕はこれで」
彼女がエレベーターから降りて、僕はエレベーターで上がろうとした。
「あの、すいません」
彼女が僕を呼び止める。
「お名前は?」
「ああ、尾田っていいます。経理部にいます」
「尾田さんですね。どうもありがとうございました」
僕はエレベーターで上がった。
本当にかわいい子だった。清潔感があって。彼女僕にマンザラでもなさそうだったし、うまくいけば彼女付き合えるんじゃ? いや、絶対付き合ってみせるぞ。
こころをウキウキさせながら八階の休憩室にやってくると、川島俊也がテーブルでコーヒーを飲んでいた。川島が僕を見る。
「よう、尾田おはよう」
「おはよう」
「どうだ、調子は」
「うん、まあまあだよ」
川島は同じ入社六年目の僕の同期だ。ここの営業部にいる、長身でモテ面だ。僕とはあらゆる点で対照的だ。
「なあ尾田、さっき今年の新入女子の女の子見たんだけど、一人めちゃかわいい子いるんだよ、営業部に配属される」
さっきの女の子のことだな。
「あの子、めっちゃ俺のタイプだわ」
何だって? 川島は社内で「ヤリチン」とあだ名されてる奴だ。かわいい女の子には目がない男だ。彼女がよりによってこいつに目をつけられるとは……。
「おい川島、朝からつまんないこと言ってないで早く仕事に行けよ」
「まあそう言うなよ。見てろよ、すぐに彼女落としてやるからな。じゃあな」
川島が席を立って休憩室の出口に向かった。
やれやれ。僕は自販機でコーヒーを買って口にした。さっきの女の子、今頃どうしてるだろう?
(続)