第一話:煉獄転生
薄く――ぼんやり――光が――見える。
揺れているそれは、どうやら電球大の照明だ。
そして俺を覗き込んでいる誰かがいる。
それは――こちらを――見ている。
ぼんやりと明らかになる視界を追いかけて、少しずつ聴覚が宿り始める。
「――よ――」
分厚い布ごしのような、ひどくこもった音が、少しずつ鮮明になっていく。
「――ど――な――よ――」
高音がはっきりとしてきて、母音だけでなく子音も捉えていく。
「――どうして死なないのよオオオオオオオオオオオ!!!!!!」
俺の体は、その大声に反応してかなり大きく跳ね飛んだ。
でもそれは下半身がちょっと浮いただけで、たいした動きにならなかった――首を押さえられていたからだ。
首?
逆光で見えにくいが、こいつは女だ。俺に向かって手を伸ばしていて、首の辺りにかなり強い圧迫感がある。
これはすなわち、首を絞められている。
ヤバイ! 俺の体のあらゆる筋肉があちこちに向かって勝手に動き回った。ひどい状態だ。まるで自分の思い通りにいかねえ。
首は絞められていたものの、ほんの少し気道を外れていて、というか、絞めているのは首の横っ側だったので、呼吸はかろうじて出来た。
でもこの状態が続くと死ぬ。首の骨がさっきからミシミシ言っている。
女は泣いていて、すすり上げたり涙を拭いたりしている。躊躇がある。俺はそう思った。俺はなおももがいたが、これを解放したのは俺の力によるものではなかった。
女は脇から突然突っ込んできた、女よりも小さい影に吹っ飛ばされた。
女はそのまま転げて俺の視界から消えた。ひどい音がした。俺は必死で首を動かした。無事だ。良かった。
見れば、女はそこに積んでいた金属製のケースみたいなものに突っ込んでいた。
で、反対の、突っ込んできた影。
こっちはガキだった。10歳くらいか。色が黒い。
というか、多分日本人ではない。
「ママ」
ガキはそう言った。ママ? なるほどね。ママも色が黒い。
「スリッピーを殺さないで」
ガキは言った。
ママはまるで動かない。すすり上げて泣いている。そのうち、うなるような泣き声に変わってくる。
「スリッピー、大丈夫?」
ガキは俺をなでた。
見たことのないような目をしていた。
色がちょっと薄いのもあるが、それ以上に、何というか、大変冷たい目だった。
俺は必死でうなずこうとしたが、でも無理だった。
ガキはママの方に歩いていき、それを起こした。ママは身を起こされてからも、しばらくぐずっていた。
俺は何とか周囲を見渡すことに成功した。これは天井、しかしひどい。鉄骨やダクトが剥き出しだし、汚い。壁、トタン? なんかすごく薄そうな何かで出来ている。
ここはどこだ?
「いつまでも泣かないでよ」
「ふっ、――ふっ、え、えふっ」
ママは嗚咽がとまらないらしい。
「ねえ、晩御飯に使うお金はどこ?」
「――ふうっ、うう、つ、つかった」
「やっぱりね。また薬?」
ママは応えない。
薬?
「ね、仕方ないからおじさんに借りに行くよ。銃をちょうだい」
ママがようやく立ち上がった気配がした。ふらふらとどこかへ消えた。
俺は身を起こせない。体が言うことを聞かない。
ばたばたと動かしまくる手足は、短い。
めちゃくちゃ短い。
俺はハッとした。
短い手足、言うことを聞かない手足。
「スリッピー、ごめんよ」
ガキに俺は抱き上げられた。
ガキは俺を軽々と持ち上げたのだった。
そして俺は、ガキと共に、向こう側の窓ガラスに映りこんだ自分を確認した。
そう、俺はマジで理解した。
マジで転生した。
見ろ!
俺はアカチャンになった。俺が動くとその窓ガラスに映ったちっぽけなまんまるい生き物も動いた。そう、あれは俺の姿だ!
「気をつけていってきてね」
女の声がして、それがママのものだと理解した。
そう、こいつは俺のママ!
――俺のママ?
少しずつ俺は冷静になる。
さっきコイツ、俺の首絞めてなかった?
で、「ママ」は、俺を抱いているガキに何かを渡した。
何か、じゃねえ。
銃だ。
ガキにマジで銃渡した。
その黒光りする重厚な表面と、受け取ったときにガキの手が重みでぐっと下に落ちたのを見て、そいつがホンマモンの銃だということを俺はなんとなく実感する。
正直これは夢じゃねえのというのが半分、しかしあまりにも細かすぎるそのディテイルとこの登場人物たちの息遣いのせいで、俺はもう半分でその情景を「現実」として受け入れた。
イエス、認めるしかねえ。俺は転生した。
しかしどうだ、母親と思しき女は俺の首を絞めていた。
で、剣とか魔法とか異能とか、そういうんじゃなくて、今「銃」が出てきた。
妙に冷静な頭で俺は考える。
こんなとき俺はどうする?
そう、俺には12年間培った、あの「異世界転生したらどうする」妄想による、素敵な行動リストが頭の中にあったのだ!
――まるで役に立たねエ!!
俺がそこに気付くのに時間はかからなかった。
俺の妄想の大半は、序盤をスッ飛ばして、ヒロインと出会って恋仲になって、別の女の子とも良い感じになってとか、後に味方になる強敵を倒すときにはこんな風に自分の能力を使ってとか、そういうことばっかり考えていたからだ。
ガキは俺をまたベッドにおいてどこかへ行った。ベッドは汚い。というか家全体が汚い。ボロボロであちこち穴が開いているし、掃除されてる気配は全くない。
ママがまた俺の首を絞めないかめっちゃ不安だったが、大丈夫だった。一度ママはこっちを向いて「ごめんね」とつぶやいた。クッソヤバい。
ママはやつれている。俺はまた少しずつ冷静さを取り戻してきて、「あれ、これはもしかしてヤバイんでは?」と思い始めた。
10歳のガキに銃を渡してお使いにいかせるようなおうち。
首を絞めるママ。
ボロボロの家。
抵抗の出来ない肉体。
これはいけない。
俺はしっかりとそう思った。これはいけない。
来てはいけない世界に来てしまった、そう俺は直感する。
何せ、さっきから、視覚聴覚に加えて第三の感覚、嗅覚が覚醒しつつあるのだが、このツンとした花火みたいな香り、すなわちこれは火薬のニオイだ。んで、ときどき香るめっちゃ甘いニオイは、これは多分アカチャンがかいではいけないとてもやばいやつだ。なぜならそれが香ると、このハートの芯あたりがとろけるように気持ちよいのだ。
ママはこっちをまた見て、なんでか分からないが笑った。
クッソ恐い。
俺はションベンをちびった。
そして気付いた。オシメがされていない。
俺の股間に生暖かい感覚が広がっていき、第四の感覚、触感が覚醒する。
それが少しずつ吹き込んでくる冷たい風にさらされて嫌な湿り気になってきて、しかしその窮状で、俺は何とか思い出した。
素敵な行動リスト:その1。
「アカチャンの頃は自分が転生していることがバレないように、アカチャンに徹する」!
突然喋り始める赤ん坊は、どんな世界であれホラーだ。だから、しゃべれる年齢までは自分がいかに何も知らないただのガキであるかを常に気をつけなければならない。
俺は何も知らない赤ん坊、俺は何も知らない赤ん坊!
俺は赤ん坊であるがゆえ、最低限の安全は身近な人間によって守られるはず!
俺はそう考えた。いやこれは祈ったというのがより近い。そしてそいつはすぐに裏切られる祈りであった。当然こんな世界にも神なんていなかったので、俺の祈りは現象に対してなんら影響力を持たず、純粋に浮かんで消えた。泡みてえだな。
でもいい。俺は赤ん坊。俺は赤ん坊。
何も知らないガキでいることが実際にリスクを下げるのは間違いない。
そして俺は兄であるところのあのガキ、マンチャスが帰ってくるまで指をひたすらにしゃぶり続けた。
本当の赤ん坊みたいだった――はずである。