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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

腐りゆく世界

作者: ほまりん

 自分が誰なのか、どこで生まれたのか、そしてここがどこなのか、それさえも僕は知らない。


 この森で目を覚ました時にはもう、記憶は全て消えていた。


 パキ、パキ……


 屈んで、食い入るように眺める。初めて目にする孵化の瞬間を。


 死はたくさん見てきた。命の終わりにはたくさん関わってきた。


 だけどあの日、この森で目が覚めてからの三年の間、生に触れたことはなかった。命の始まりを目撃したことは一度もなかった。


 抱えなければ運べなかったほどサイズのある卵。パキリと音が鳴り、強固な殻にひびが入り始めたのは、中身を飲もうと巣に持ち運び帰っている途中のことだった。


 僕は、そのまま卵をそっと地面に置いた。孵化の瞬間に興味があったからだ。


 既にあれから幾分かの時間が経過していて、卵の周囲には割れた殻がパラパラと散らばっていた。


 パキッ!


「あ」


 遂に、一筋の大きなヒビが入る。これまでのとは比べものにならない大きさだ。


 そしてすぐに卵の殻の上部が、大きく割れ落ちる。


「……」


 中に入っていたのは、見たこともない生き物の赤ちゃんだった。くりっとした目で、こちらを見つめてくる。


「きゅい?」


 新たな命の誕生に、僕は言葉を失っていた。


 *


「ひゃっほー!」


「キュイイイ!」


 木の上を駆ける。太枝から太枝へ跳び移り、邪魔な葉っぱを搔き分け進む。


 その後ろを、キュイも同様に跳躍しながらついてきていた。運動能力の高い生き物らしい。


 キュイは標準的な体型――四足歩行で尻尾がはえている――をしていた。他の生き物と異なるのは、背中にとても小さな羽がついていることだろう。


 こんな生き物は見たことがなかった。一体どういう生物なのか、見当もつかない。


「そおっれぇ!」


 森を抜け、この辺りでは最も高い丘の上へ。キュイも後に続くように森から飛び出してきた。


「キュイイイ!」


 ちなみに、キュイの羽は全く役に立たない。小さ過ぎて体を持ち上げることが出来ないからだ。


「ここの景色は、いつ見ても綺麗だね」


「キュゥ」


 僕とキュイは並んで座る。眼下に広がる風景に心を馳せた。


 すぐ下は辺り一面の緑、その右には咲き誇る花の絨毯が敷かれていた。遠くには山も見え、空が晴れ晴れとそれらを見下ろしている。


「この景色の先には、何があるんだろう」


「キュイ?」


「僕には昔の記憶がない。あるのはこの森に来てからのものだけ。でもね、体が覚えているんだ」


 高所にあるこの丘には、よく風が吹く。伸びた髪がなびき、顔の前を覆い隠す。


 僕は手でそれを払いのけた。


「ここじゃないどこかで、僕は生まれたんだって」


「キュイ」


「いつかこの森を出て、そこに辿り着くのが夢なんだ。外にはどんな危険があるか分からないから、もっと強くなるまではこの森で暮らすけど」


「……」


 キュイが何も反応を示さないので、どうしたんだろうと振り向く。キュイは寂しそうな目でこっちを見ていた。


「あはは、心配しないで。その時はもちろん、キュイも一緒だよ」


「キュィイ♪」


「ちょっ、キュイ! 重いって! あはははは」


 キュイが飛びついて来た。キュイの成長速度は凄まじく、生まれた時には抱っこして運んでいたのに今では僕と同じぐらいの全長だ。


 まだあれから一年。こんなにもすぐ大きくなるんだと感心しているが、そのくせ羽だけはちっとも伸びないのが笑えてくる。


「でも一緒についてくるなら、キュイももっともっと、強くならなくちゃ……」


 その時だった。


「「!!」」


 キュイと一緒に気配を感じ取る。森の方からだった。


「なに、今の……」


 気配の出所はかなり離れた場所だ。こんなところにいても感知できるなんて考えられない。


「すごく大きな気だ。でも怖い。邪悪だ。感じたこともない不気味さだ」


 黒だろう。この邪悪な気に、もし色がついていたらきっと黒だ。


 心なしか、森の雰囲気まで不気味な風に見える。


「カアアアアッ!」


 バサッバサッ。


 数羽の、緋目鴉アカメカラスの鳴き声が響き渡った。彼らが、避難しようと森の上空へと飛び立つ様子がここからでも見える。


「緋目鴉が騒いでいる。冷静でずる賢く、普段は決して物音を立てることのないあの緋目鴉が……」


 なにが起こっているのかは分からないけど、なにかが起きていることは確かだった。どう行動すべきか迷っていると、その光景を目にしてしまう。


「なっ……!」


 黒と紫が混ざった煙のようなものが、森から緋目鴉の後を追うように飛び出してきたのだ。煙はどんどんと大きくなりながら、逃げ去ろうとする緋目鴉の群れを追従する。


 緋目鴉は瞬く間に煙に飲み込まれてしまった。煙はもくもくとそのまま一、二秒ほど緋目鴉を包みこむ。


 そして、緋目鴉のぐったりとした体が真っ逆さまに森の方へと落ちていった。その羽が広げられることはない。


 もう息の根が止まっているらしかった。その後に続くように、緋目鴉の群れがどんどんと落下を始める。


 煙が晴れた頃には、緋目鴉はただの一羽も生き残ってはいなかった。


「あれは、一体……」


「キュイ」


 そして更にある事実に気づく。煙の触れた所は、なにも緋目鴉だけでなく、全てが腐敗しているのだ。


 何百枚もの葉をつけていた木々が、今では枯れ木のように緑を失っている。現在はその煙が触れた部分だけだが、この正体の分からない脅威を放置していると森全体が腐敗しかねなかった。


「……行かなくちゃ。行って、何が起きてるのかこの目で確かめなきゃ」


「キュイ!」


「キュイは一緒に来ちゃダメ。危ないから」


「キュイ!!」


 同行しようとするキュイを止める。キュイは目をとんがらせ、僕へと抗議の視線を送ってきた。


 自分もついていくと、そう言いたいらしい。僕一人を危険な目に合わせるのは嫌なようだった。


 四足歩行で立つキュイと目線を合わせるため、さっとしゃがむ。目をしっかりと見つめて、言い聞かせるようにダメな理由を言った。


「キュイはまだ弱い。僕よりもまだまだ弱い。なのに、今回は僕だってどうなるか分からない。ましてやキュイならなおさらだ。だから来ちゃいけないんだ。分かった?」


「キュゥゥ」


 俯き、可愛らしく小さな鳴き声をあげるキュイ。どうやら僕の言っていることを理解してくれたようだ。


 しかしそれでも僕が一人で向かうことを心配して不安に思っている。キュイの表情からはそんな感情が読み取れた。


「心配しないで。必ず生きて戻ってくるから」


「キュ……」


「大人しく、ここで待っててね」


 キュイは素直だ。僕の言うことをよく聞いてくれる。


 こんなに良い子を死なせる訳にはいかない。また、悲しませるような真似もしたくはない。


 だから僕は、絶対に生き残る。


「行ってくるね」


 しょんぼりと首を垂らしているキュイの返事は聞かず、森の方へと引き返す。急がなければならない。


 邪悪な気は色濃く感じられ、どの辺りに発生源があるのか明瞭だった。森に入ると視界が妨げられ、腐敗の様子が肉眼で確認出来ないが、それでも正確な位置が分かるほどに。


 木々の間を縫うように走る。不意の事態が起きてもいいように、腰につけていたナイフ――魔鉱石を削り自作した不恰好なモノ――は手に持っておいた。


 森が騒がしい。多くの魔物達の叫びが耳に届く。


 どれも雄叫びのような勇ましいものではなかった。腐敗の侵食に恐怖する、喉を振り絞って出したかのような悲鳴だ。


「ジャイアントベアーの鳴き声まで聞こえる。森の主も恐れているんだ。怖い、怖い、怖い。でも、森を荒らされるのを黙って見ていたくはない」


 ひた走る。腐敗の中心地まではあまり遠くなく、二分と経たずに着きそうだ。


「!!」


 もやりと、嫌な空気が身を包む。体の芯に訴えてくるような気持ち悪さだ。


 どうやら瘴気が漂っているらしい。中心地に近づけば近づくほど、瘴気は濃くなっていった。


  本能が拒否する。生理的に受け付けない。


 瘴気から身を守るため、慌てて聖気で体を包んだ。不快感は多少は和らいだものの、まだ消え去らない。


 それに、瘴気以上に辛いモノが道中にはあった。


「……」


 それは、森に生息していた生き物達の死骸の数々だ。ただ死んでいるだけならまだいい。


 生命力の低い小動物は、どこかの部位が必ず腐り果てていた。骨が露出している。


 腐った肉と、腐った肉の纏わり付いた骨。不快感を抱かないなどあり得なかった。


 一匹、まだ辛うじて生きている赤毛兎セキモウウサギを見かけた。


 しかし右脚が腐り動かなくなっており、この瘴気の外へ逃げ出すことは叶わない。いずれ息絶えるだろう。


「……聖なる力よ、僕を守っておくれ」


 発生源は間近に迫っていた。息をするだけでも苦しい。


 皮膚が腐らないように聖気で体を覆っているが、それでも防げるのは外皮の部分だけだ。瘴気を吸い過ぎては、体内から腐らせられてしまうだろう。


 迅速に解決しなければならない。一刻も早くと走り、駆け、脚を動かし。


 目的地に到着した。そこには、何かが立っている。


「あれは、なんだ?」


 異形。そうとしか表現出来なかった。


 おおよそ生物としての形は保てていない。様々な生物の死骸を腐らせて、一つにまとめて。


 そんな風貌だ。動いているのが不思議だった。


「グオァ……」


 強いて言うなら、腕が二つあり二足歩行なので人に近いだろうか。一体何なのかは分からないが、こいつが原因なのは確かだった。


 体全体から瘴気が噴き出している。歪みきった口からは、赤目鴉を殺した黒と紫の煙がモクモクと発生し続けている。


 こいつだ。こいつが森を腐らせるんだ。


 刃物が効くのかも分からない。生きているのかも分からない。


 でもやらなきゃ。誰かがやらなきゃ。


 この森には、まだ四年ほどしか暮らしていないが、記憶を失った僕にとっては故郷のような場所だ。失わせてたまるか。


 この得体の知れない何かにも、聖気の力は効き目がありそうだった。僕の体が腐っていないことからも、少なくとも瘴気に対しては有効なのだ。


 ならば、こいつにも聖気を介した攻撃ならば効果を発揮するだろう。というより、してもらわなければ困る。


「すぅ」


 短く息を吸い。


「……」


 息を止め、飛び出した。


「!!!」


 腐り人――そう呼ぶことにした――が驚く。顔がぐちゃぐちゃで表情などは読み取れないが、それでも動きの挙動で察した。


 聖気で覆ったナイフを縦に振り下ろす。状況に対応出来ていない腐り人の腕が、二の腕の辺りからぼとりと落ちた。


「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛」


 身の毛がよだつような、どこから出しているのかも分からない悍ましい声を腐り人はあげた。腕を切り落とされたことへの悲鳴らしい。


 残った方の腕を振り回してきたのですぐに後方へ飛び退く。これは予想だが、あの腐った腕に触れるとこちらの体まで腐敗してしまう気がする。


 聖気でどこまで守れるのかも分からない。だったら触れないに越したことはない。


「良かった。腕を切ることが出来た。このナイフでの攻撃は通るんだ。それなら勝てる。きっと倒せる」


 瘴気に包まれているというだけで不利が激しかった。あまりの不快感にパフォーマンスが低下するうえ、僕の体内が腐るまでに倒さなければならないという時間制限もあったからだ。


 しかし今、勝機が見えた。敵の動作は思っていた以上に鈍い。


 確信する。聖気さえ扱えれば楽に倒せる相手だと。


「よしっ」


 気合いを入れ、敵の懐へ飛び込もうと地面を蹴る。身と自製のナイフを聖気に包み、腐り人を見据え……


「はあああああ」


 *


 記憶を失った少年が腐り人と対峙する直前。


 キュイはしばらく俯かせていた顔をあげた。地につけていたお尻を浮かせ、四つ脚で立つ。


 予感だった。キュイを立ち上がらせたのは残酷な予感だった。


 大切な人の未来が奪われる、そんな予感。


 ズキ、ズキ、ズキ、ズキ。


 キュイの頭を突如の頭痛が襲う。耐え切れないほどの痛みに、体が倒れそうになった。


 痛みは増す。時間が経つにつれ、どんどんと痛みが増大していく。


 そして頭痛が最高潮を迎えた時に……


 ぷつん。


 そんな、糸が切れたかのような音が頭の中でした。それと同時、頭痛が嘘のように一瞬で治る。


 そしてキュイはそれを見た。



 ――キュ……イ……元気に、生きて…………ね。


 仰向けに倒れている、キュイを育ててくれた少年。体からは大量の血がどくどくと流れ出している。


 片腕は腐っており、そこから飛び出していた白い骨は決して綺麗なものではなかった。大部分が血に赤く染まっており、白さが失われているからだ。


 少年の虚ろな目。掠れた呼吸と微かな心臓の音。


 やがて、少年は目を閉じ……




「キュ!?」


 その光景をキュイが見たのは一瞬だけだった。瞬きをした時には、もう視界は元通りになっている。


 死にかけの少年などいるはずもなく、丘の上にはキュイが一匹で立っている。キョロキョロと辺りを見回すも、特筆すべきような変化はない。


 今の光景が何だったのか、まるでキュイには分からなかった。戸惑い、パニックになりそうになるも、やけに鮮明だった光景に不吉な予感を覚える。


「キュイ!!」


 少年の言いつけを破り、キュイは森の方へと駆けて行った。


 *


「くっ」


 バッと飛び退く。一秒と経たないうちに、僕の立っていた地面に煙がぼふんとぶち当たった。


 黒と紫の、腐り人の口から出ているあれだ。腐り人は上手くそれを操作し僕へと反撃してくる。


 この煙が危険なことは分かっていた。緋目鴉の群れが全滅させられたあの瞬間を見ていたからだ。


 この煙はあまりにも毒が強い。聖気でも身を守るのはまず無理だ。


 触れれば一発アウトの死を孕んだ煙。僕の知るどんなものよりも禍々しい。


「まずい。あまり時間がない」


 上手くいったのは最初の腕を切り落とした時だけ。それ以降は攻めるどころか、むしろ防戦一方だった。


 その原因は、ほとんどがこの死の煙だった。僕の存在に気づいた腐り人は、煙を口からどんどんと吐き出すことで応戦してきたのだ。


 結果、全く近づくことができない。このままでは時間だけが過ぎ、僕の体が腐ってしまう。


 接近する隙もない。このままでは負けるだけだと、一旦大きくバックステップし距離を置いた。


「どうする。考えろ。頭を使え。僕の武器はこのナイフだけだ。魔法も使えない。だから近接戦でなければ倒せない。でも近づく暇なんて全然ない。どうやってあいつに近づけば。どうやってあの死の煙を潜り抜ければ……いや……そうか!」


 小声で独り言をぶつぶつ言う。頭の中を整理し、そして活路を見出した。


 周囲には立ち並ぶ枯れ木の群れ。原因は付近一帯に広がるこの瘴気だ。


 草、花、葉っぱ。この森に彩りを与えるものは全て腐ってしまい、塵と化していた。


 瘴気はどんどんと広がっており、森全体が色を失うのも時間の問題だ。しかしいくつか塵となっていないものがある。


 例えば僕が今踏んでいる地面。例えば地面にいくつか転がっている小石。


 例えば、葉を失いながらも、決して倒れることのない枯れ木達。


「……はっ!」


 考え込んでいる間に、死の煙がすぐ目の前まで迫っていた。間一髪のところで躱し、そして思いついた作戦の実行に移る。


 武器がなく、魔法も使えず、遠距離攻撃が出来ないのなら。


「枯れ果てた木々よ!」


 簡単な話だ。投擲武器を、今ここで作ってやればいい。


「君達の命は、無駄にしない!!」


 手に持ったナイフを二振り。木の幹の、目の高さの位置と腰の高さの位置の二箇所を瞬時に切る。


 それだけで、僕の胴と同じぐらいの長さの丸太が出来た。地面に落下する前に、ナイフを持っていない方の腕で抱え込むようにキャッチする。


 この森の幹は細い。腕全体で包むように持ってやれば十分片腕でも持つことができた。


「グオォ……」


 腐り人の唸るような声が耳に届く。こいつの声には嫌悪感しか抱かない。


「はあっ!」


 聖気を、たった今作った丸太に込める。そして丸太を両手で持ち――ナイフを握った手は、グーのまま丸太に添えている――、思いっきり投げつけた。


 丸太は勢いよく直進し腐り人の元へ。しかし、僕と腐り人の間にあった死の煙の中へと入ってしまう。


 そして丸太は、腐り人に届くことなく腐り、完全に塵となった。だが僕はその結末を見届けはしない。


 またしても二振り。別の枯れ木を切り、丸太を生み出す。


 同じようにして、腐り人へ向かって投げた。今度は煙が邪魔をしない方向から。


「ウ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛」


 腐り人はすぐに煙を操り間へと割り込ませた。投げつけた丸太はまたしても塵と化してしまう。


 だがその頃には三つ目の丸太が。


「はああああああああああ!!」


 聖気で包み、今度は思いっきり投げた。またしても腐り人は煙で防ぐが、それは狙い通りだ。


 僕が腐り人に近づけなかったのはこの煙が邪魔だったから。つまり、この煙さえどうにかしてしまえばいい。


 煙が丸太を塵にするために足止めを食らっている今、僕の行く手を阻むものはなかった。


「木々よ! 君達の命に感謝を!!」


 この森に感謝し、腐り人へと接近した。何か大きな投擲物が無ければ死の煙を攻略することは不可能だったからだ。


 そういう点で、丸太は優れていた。ナイフをきつく握りしめ、素早く腐り人の元へ。


「グオオオオオオ」


 動揺する腐り人。僕は、腐り人の左側から接近した。


 最初に斬り落とした腕は左腕だったからだ。最後の最後で、残った右腕に邪魔をされてはこの作戦は水の泡になる。


 もう時間があまり残されていない。ここで、決める……!


「覚悟しろ、腐り人!!」


 そして、それを目撃したのとキュイの鳴き声が聞こえたのは同時だった。


「キュィイイイイ!」


 グサリ。


「……え?」


 腐り人の片腕。僕が最初に斬り落としたその腕は、確かに失われていた。


 現に、視界の端には今なおその片腕が地面に転がっている。だから、これは腐り人の腕ではない。


 骨だ。腕の切り口から、瞬時に骨が伸びて飛び出してきたのだ。


「がはっ」


 僕の胸を貫いて。


「キュイイイイ!」


「グオオオオオオ」


 口から血を吐いた。今なお腐敗の侵食が続くこの森に、キュイと腐り人の叫びが響き渡る。


 悲しみと喜び。それぞれの声に含まれている感情は対称的だった。


 胸が痛い。焼けるように痛い。


 呼吸をすることでさえ苦しくて、体を覆う聖気が剥がれそうになる。


「キュイ! キュイ!!」


 遠のきそうになる意識を、キュイの悲鳴が繋ぎ止める。毎日のように聞きなれたキュイの声だったが、ここまで悲痛な響きは初めてだった。


「キュイイイイイイイ」


 涙目になりながら腐り人へと挑んでいくキュイ。僕を放せとそう言っているのだろう。


 しかし無謀な突進だった。


「やめ……かっ、がふっ」


 やめろ、キュイ。そう叫ぼうとするも声にならなかった。


 喉に力が入らない。口に溜まった血が邪魔をする。


「グアアアアアア」


 腐り人が死の煙を操り、キュイの進路上へとやった。あの煙は大きさに反比例して速度が上がるらしい。


 煙はかなり小さかったために、相当な速さで操られていた。キュイは避け切ることが出来ず、右の前足を煙で包まれてしまう。


「キュッ!」


 ズザザザザッ。キュイは転び、勢い余ってそのまま地面の上を滑って行った。


 整地されていない地面と皮が擦れる。砂埃が微かに舞い上がった。


「キュ、キュ、キュゥ……」


 キュイ!


 声にはならなかった。心の中で名前を強く叫ぶ。


 キュイの右前足は腐敗していた。原型は留めているが、もう使い物にならないのは見て分かった。


 地に伏せるキュイに、追い打ちをかけるように腐り人は煙を操作する。あれに包まれればどんな生物でも命を落とすだろう。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」


 僕はどうなってもいい。胸を貫かれたんだ、どうせもうじき死ぬ。


 だけどせめてキュイだけは。せめて、僕を四年間見守ってきてくれたこの森だけは殺させてはいけない。


 力を振り絞る。体中のありとあらゆる生命力をかき集め、一歩前進した。


 骨に貫かれたまま。


「グア?」


 僕の動きに気付いた腐り人が間抜けな声をあげる。しかしもう遅かった。


 胸を貫通させて、それで僕が動けないと思ったか。あとは死を待つだけの力なき弱者だと思ったか。


 ざまあみろ。僕はまだ動くぞ。


 貫通した骨は抜くことが出来ない。それならばもう抜かなければいい。


 抜かずに前へ。一歩進むたびに、骨がずぶりずぶりと傷口を抉ってくるが痛みはもう感じなかった。


 足は動く。痛覚が麻痺した今なら、更なる傷を負うことへの恐怖などない。


 全力で走った。ズブズブズブと傷口を広げてくる骨を無視し、腐り人へと接近した。


 やっとナイフの届くところまできた。


 今度こそ終わりだ、腐り人。


「があああああああああああああああ」


「グオアアアアアアアアアアアアアア」


 手の感覚もほとんどなくなっていたけど、それでも不思議なほどにその一振りには力が込められていた。きっとその力の源は、何も僕だけのものじゃない。


 キュイの、この森の、この森に住む生き物達の。様々な思いが込められているのだ。


 だからこの一振りはこんなにも力強く、そしてこんなにも簡単に腐り人の首をぶった斬る。


「グオッ……」


 ぼとり、腐り人の頭が地面に落ちた。腐り人は死骸から作られたような見た目をしているため、これで倒せたのか、首を斬られてもまだ動くのではないかと不安にも思ったがそれは杞憂だった。


 なぜなら首を斬ってすぐ、腐り人の体は――地面に落ちた頭や左腕も含めて――塵となったのだ。さらさらと、全てが塵に。


 風にさらわれて、腐り人だったものはどこかへと飛んで行った。誰が見ても分かる僕達の勝利だった。


 僕の命も、もう長くはないだろうけど。


「やっ……た……」


 ばたり。地面に背中から倒れこむ。


 仰向けの姿勢からは、晴れ渡る空がよく見えた。


 そういえばこんなにも今日は晴れていて、綺麗な空をしていたんだ。瘴気の淀んだ空気に晒されていた僕は、そんなことも忘れていた。


 ちなみに、今はもう瘴気は霧散していた。腐り人と共にどこかへと消えていった。


「キュウ、キュウ……」


 晴れた空を眺めていると、キュイが目に涙を溜めて歩いてきた。三本足での、器用な歩行だ。


 やがて僕の傍まで来たキュイは、僕の左腕をペロリと舐める。聖気を保つことが出来ず、瘴気にやられてしまった左腕を。


 腐り果てていて、骨も露出している。血の色も普段よりも濁って見えた。


 キュイ、汚いよ。舐めるのはよしな。


 そう言うことも出来なかった。もう、限界だったからだ。


 だけど最後に、最後に一つだけ言っておきたいことがあった。なけなしの力で、声を何とか絞り出す。


 キュイ。


「キュ……イ……」


 元気に生きてね。


「元気に、生きて…………ね」


 この一年間は、キュイと出会ってからの一年間は宝物だった。記憶のない自分にとって、キュイは唯一の友達だったのだから。


 だから、どうか元気に生きて欲しい。その思いを伝えたところで。


 僕は息を引き取った。


 *


 少年が、腐り人を倒す二日前。


「ねー、おばあちゃーん!!」


「どうしたんだい?」


「あのね、あのね」


 どこかの国の、どこかの地方。どこかの村にある、一軒家で。


 少女は泣きながら祖母へと叫んでいた。


「お花畑がなくなっちゃったの! 全部枯れて、なくなっちゃったの!!」




 更にその二日前。


 どこかの農村。ある一人の農夫が、絶望したような顔でへなへなとへたり込む。


「なんじゃ、これは……」


 彼の目の前には、一匹残らず息絶えた家畜たちと、それに群がる蠅たち。そして一切の緑を失った田んぼと草原が広がっていた。


 健康的に育ってくれていたはずの彼の大切なもの。その、全てが。


「いったい……どうして」


 腐り果てていた。




 更に二日前には。


「おい、来てみろよ」


「なんだー?」


「いや、魚の死骸がぷかぷかと浮かんでんだ」


「時々あることじゃねえか」


「いや、それが……」


 どう話したらよいものか、若者は言葉に詰まった。


「川が埋まるぐらいなんだよ。死骸の数が」


「……はぁ?」




 そして、更に遡ること一週間前。


「これは……」


「どうかしたか?」


 宮廷のとある一室。豪華な装飾が施されているが、常に部屋が暗いためにまるで意味をなしていない、そんな室内で。


 男と老婆が会話をする。老婆の前には特上の水晶が置かれていた。


 老婆が占いをするために使用する媒体だ。老婆の能力は、不吉なことや不穏なこと、反対に楽しいことや喜ばしいことなど様々な未来の出来事を占うことだった。


 抽象的であるのが欠点だが、その便利な能力を買われ老婆は宮廷勤めとなっている。


「もうじき、新たな神が誕生する」


「神? それはまことか?」


「嘘など言わん」


「では何を司る神だ」


「腐敗じゃよ」


「は?」


 老婆の顔色は、いつにもまして酷かった。


「腐敗神の誕生じゃ。世界は、世界は……」


 皺だらけの顔が恐怖にゆがむ。


「一年と経たぬうちに、終焉を迎える」


 *


 キュイはやがて、ゆっくりと立ち上がった。視線は、安らかに眠る少年の顔へと固定されたままだったが。


「……」


 あれからどれだけ時間が経ったのかは分からない。しかしまだ太陽は沈んでいなかった。


 ペロリ。


 キュイは最後に少年の顔を舐める。もう動かなくなった少年の顔を。


 いつもと違って、やけにひんやりとしていた。


「キュイ……」


 キュイは振り返り歩き出した。未だ慣れぬ三足歩行に苦戦していると、ふと今朝の少年の言葉を思い出す。


 ――この景色の先には、何があるんだろう。


 キュイは、森の外へと旅立つことを決めた。

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