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「そのお話、私にも詳しくお聞かせ願えますでしょうか、殿下」
アリアの「どうして自分は生きているのか」発言に内心頭を悩ませていたルドガーは、ようやく戻って来たアビィにほっと安堵した。
ここから先は自分一人で聞いていい話ではない。
薬師長補佐とはいえど、アビィが城にいる以上は彼女に従うのが賢明な判断だ。
アビィが戻ってきたことにより、ルドガーは記録用の日誌を手に、ひとつ横へと場所を移動する。
アリアの言動、様子、状態は毎日このようにして記録するようになっていた。
扉を押して入ってきたアビィに一瞬身構えたアリアだが、他に誰もいないと分かると警戒をゆるめていた。
ふたりは見ず知らずの人間であるが、これまでの自分にしてくれた対応を思い返す限り、今のところは悪い人たちではないのだろう。
信じているわけではない。
だが、何も分からない状態のほうが単純に怖いというだけの話だ。
「長く席を外してしまって申し訳ございません。よろしかったら、こちらをお飲みください」
アビィが渡してきたのは、とても美味しそうには見えない緑色の液体が注がれる手のひらでほどの大きさの器だった。
思わず息を呑むアリアだが、鼻を近づけてみるとマーマリー草のにおいがふわりと香ってきた。マーマリー草は血行促進効果と、人体に必要な栄養が含まれた薬草である。
アリアも調合ですりおろしたり、煮たり、乾燥させたりと、よくお世話になったものだった。
おそらくこれは、液体状の飲み薬なのだろう。
「殿下、あなたは一週間ほど寝たきりの状態だったんです。少しずつで構いませんので、栄養を摂ってください」
「一週間、寝たきり……?」
あの広間での惨劇から、ということだろうか。
しかし、何度も確認するが自分の首には刃物で切り落とされた傷が一切残っていない。
あるのはアリアが自ら爪を立て傷つけてしまった掻き傷のみ。その傷も赤く爛れて酷い有様ではあるが、首の切断に比べれば軽いものである。
こくんと、緑の液体を飲み込む。
胃が空っぽだからなのか、どろりとした状態の液体を入れるだけでも違和感があった。
「ありがとうございます……すみません、こんなに余らせてしまって」
数口飲んだだけで器をアビィに渡したアリアは、残った飲み薬を見て申し訳なさを感じた。
けれど、今はこれ以上のものを喉に通すことは難しい。
「いいえ、お気になさらないでください。ゆっくり慣れていきましょう。……話を再開する前に、まずはそちらの手当てからいたしましょうか」
にっこりと優しく微笑んだアビィは、アリアの爛れた首に目を向けた。
あらわになった掻き傷は、部屋の冷たい空気に晒されてひりひりと熱い痛みとなっている。
ただ、首を他人に手当されるのはなんだか抵抗があった。
「あの、道具だけ貸してもらえれば大丈夫なので。このくらい自分でできますから」
「……かしこまりました。それでは、御髪だけあげていてもよろしいですか?」
「……わざわざすみません、お願いします」
結局、手当はアリア自身がすることにした。
寝台のシーツに届いてしまうほど長くなった自分の髪をアビィにあげてもらいながら、アリアはルドガーに渡された薬品箱から消毒液、なるべく柔らかく清潔な布、そして包帯を取り出す。
その無駄のない慣れた手つきを、アビィはじっと観察していた。
アリアの手当ては少しの迷いもなく、手慣れている。……いや、手慣れすぎていると言ったほうがしっくりくる。
包帯は分かるとしても、数多くある薬液の入った小瓶の中から、何の躊躇いもなくアリアは消毒液の瓶を取っていた。
普段から見慣れていない限り、そう簡単に判断がつくものではない。ゆえにアビィの中で違和感がどんどん募っていった。
「随分と、手慣れていらっしゃるんですね」
「これくらいは……よくしていました」
パタリと、薬品箱の蓋を閉じる。
綺麗に巻かれた首の包帯に、アビィは険しい表情を浮かべていた。
「あの、何か間違っていましたか?」
「いえ、そうではないのです。むしろ、文句のつけようがないほど完璧な手際ですよ。いつそのような手当の勉強をなさっていたんですか?」
「……勉強というか、実際に手当ては日ごろからしていたので」
質問と、答え。両者には大きな食い違いが生じていた。
(記憶の混濁……それだけで済む話ではなさそうだ)
アリアの意識ははっきりしている。
目覚めた直後や、ウォルドがいたときの動揺も収まっていて、しっかりと自我を持って話ができていた。
「では、中断させてしまいましたが。お話の続きをいたしましょうか」
アビィは不安げに揺れるアリアの瞳を見つめながら、ようやくその話を切り出した。
話の続き、と言われても状況が掴めていないのはアリアも同じだった。ただルドガーと話したとき、ここはクリスタル城であるの言っていた。そして彼は宮廷薬師であるということだった。
城内にいる薬師でアリアと交流を持っていたのはオーギストただ一人だけ。ほかの薬師等は父王の指示によりアリアをことごとく避けていたので、顔と名前を言われたとしてもオーギスト以外の薬師をアリアは知らない。
(ううん、違う……)
アリアははたと気づいた。
それ以前に、もっと不可解な部分があるじゃないか。
自分の目の前にいる少女が薬師長だというが、そこからすでに食い違いが起こっているというのに。
(だって、薬師長は先生で……)
そしてアリアがアビィと顔を合わせたのはついさっきである。だが、アビィはアリアに自分を覚えているかと言っていた。それはすなわち、アリアとアビィは顔見知りだったということにはならないだろうか。
「あなたは……アビィさん、というんですよね」
「はい。薬師長として四年前から王宮勤務をしています。殿下とは、その頃からの付き合いになります」
「……」
「やはり、覚えておりませんか?」
アリアはゆっくりと首を縦に動かした。
覚えていないのではなく、目覚めたアリアからしてみれば本当に初対面の人間だったからだ。
「わたしが……わたしの知る薬師長は、ただ一人だけです。けれどそれは、アビィさんじゃないんです」
「……それは、どういうことですか?」
震える声。アリアの心がその先を知るのを拒絶しているようだった。
それでも今度こそ話さなければ、知らなければならない。
(先生……)
まだ、オーギストの温もりが手に残っている気がした。そんなはずはないというのに、アリアの腕の中で体温が失われていく恐怖すらも憶えている。
すべて、忘れられはしない。
「わたしの知る薬師長は、先生は……オーギストという人です。その人は城で唯一、わたしの味方でいてくれた人です。わたしは決しておかしくないと正してくれた人、孤独から救ってくれた人――十年間、ずっとわたしの、たった一人の家族だったのに……っ!!」
◆
アリアの語る横で、アビィは両の手を密かに隠していた。つい先日、新調したばかりの自分の制服は袖が長く、指の爪が隠れるか隠れないかの長さであったため、作業中は腕まくりをしなければ鬱陶しく思っていたが、今日ほど新調し直さなくて良かったと思ったことはない。
情けないことに動揺が、震えとなって手に表れてしまっていたから。
記録を残すルドガーもこれには表情を歪めている。
無理もない。アリアの口から紡がれる話は、あまりにも悲惨な死を遂げたというアリア自身の話だったのだ。
自分は城で疎まれ、民から恨まれていた。
王陛下に毒を盛ったという濡れ衣を着せられ、最後は斬首されたと、アリアは言うが……アリアは今もこうして生きている。
悪姫と呼ばれる彼女の話をすべて信じるというのは薬師長の判断として褒められたことじゃないのだろう。だが、震えた声のアリアが嘘を言っているようにもアビィには見えなかった。
アビィやルドガーが何も言わず、話を受け止める体制を取っているからか、堰を切ったようにアリアはぽろぽろと話を続けている。
……話しているというよりは、吐き出しているのかもしれない。
だが、アリアのいうオーギストという男の名に、アビィは何一つ心当たりがなかった。
それでもアリアには確かにその男の存在が大きく住み着いている。アリアの言うとおりオーギストは光のような存在だったのだろう。
(オーギストという男の存在は皆無。だが、アリア殿下は嘘をついているわけではない。これがただの妄想や幻想によるものだろうか。もっとこう、次元の違う話に――いや、十年間?)
さきほどアリアが言ったことを思い出す。
『十年間』……そう、アリア王女殿下の性格が豹変したのは、十年前。
(まさか……本当にそんなことが?)
頭ではありえないと思いながらも、アビィの体はゆらりと寝台に座るアリアと距離を詰めていた。
「アリア殿下」
その肩に、アビィはそっと触れた。
「アビィさん……?」
「もしかすると、あなたの言う周囲の人間の反応が変わってしまったのは……おかしくなったというのは、あなたが木から落ちたあとのことですか」
――沈黙が訪れる。だが、それは本当に一瞬だけ。
すぐにアリアが反応を見せる。
「……どうして」
きらりと、アリアの瞳に光が見えた気がした。
その目が、みるみる変わっていく表情が、アビィが知りたいことすべてを物語っていた。
長々となっているかな……と、心配です。
次話でこの章は終わりです。