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「こっちへ、おいで」
あの日の夢をアリアは見ていた。
活発で、じっとしてられない性格であったアリアだが、無茶な行動は控えるようにしていたつもりだ。
あの日、自分の世界が変わった運命の日。
なぜ自分は木などに登っていたんだろうか。
あの日、一粒の雨が降ったんだ。
木陰で涼むアリアのおでこに落ちた一粒の雫は、舐めてみるとしょっぱい味がした。
そう、わたしはあの日。
「どうして泣いているの? 大丈夫だよ。こっちへ」
――何かに手を伸ばしていた。
「おいで」
――わたしは、何に向かって、伸ばしていた?
◆
「アリア殿下。……アリア殿下!」
震える体が大きく揺さぶられ、アリアは目の前で切羽詰まった顔をしているルドガーをぼんやりと見つめた。
目が合い正気に戻ったのだと気がついたルドガーは、アリアの細い肩に両手を添えたまま、安堵の深い息を漏らす。
視線を横にすると、ルドガーのほかにいたはずのアビィの姿はなくなっていた。そして、アリアが取り乱した元凶のウォルドの姿も。
いつの間にか自分を固定していた手足の枷は綺麗に取り外されている。
きつく締められていたのか、手首はほんのり炎症しかけていた。
「……喉、が」
酷いかわきに、横の飾り棚に置いてあったグラスへと手を伸ばすと、すかさずルドガーがアリアに手渡してくれた。
労わるように背を支える手の熱は、不思議とアリアの乱れた心を落ち着かせていく。
アリアが落ち着いたところで、ルドガーはアビィの指示どおり簡単な診察を始めた。
(呼吸、心拍は正常。顔色も戻ってきてるな)
ひとまずは安心だが、疲労を色濃く見せるアリアはあたりに視線をさまよわせ、誰かを探しているようだった。
「……ウォルド殿下は、薬師長とともに少しの間席を外しておられます」
「そう、ですか」
あからさまに胸をなでおろしたアリア。やはり彼女の様子が急変したのは、ウォルドが原因だったのだろう。
しかし、いったいなぜウォルドにあそこまでの反応を示していたのか、それは分からなかった。
「アリア殿下、ご気分はいかがですか」
ルドガーは慎重に、アリアに声をかける。
すると、またもや視線をふらふらさせ、ルドガーの顔をうつむきがちに見つめ、無理やり作ったような表情を浮かべて痛々しく笑った。
「はい。ご迷惑をおかけしました。……その、さっきは気が動転してしまって」
「そのお召し物だけではお寒いでしょう。こちらをお掛けください」
薄い寝巻きのネグリジェのみという肌寒い格好をしたアリアに、ルドガーは部屋に置かれた上質で柔らかい羊の毛皮から編み込まれた掛物を差し出す。
「ありがとうございます」
ためらった様子ではあったが、アリアは遠慮げに掛物を受け取ってくれていた。
――本当に彼女が、この国の悪姫、アリア・バスカディルなのか。
ルドガーにはとてもだが『悪姫アリア』と目の前にいる『アリア』が同じ人間には見えなかった。
悪姫アリアは、バスカディル王家が抱える問題であり、国民からは非道な少女だとささやかれている。
国民へ無情にも死刑を執り行おうとした問題発言は、年月が流れてた今でも人々から忘れられることはなかった。
そして、それはルドガーも同様のこと。
(なんなんだ、この王女は)
初めてアリアと出会うまで、ルドガーの持つアリアの情報量は一般の平民とほとんど変わらなかった。
人的関係のめんどくさいことは極力避けていきたい。それがルドガーのモットーである。
薬師長補佐となったことにより、ルドガーはアリアに面を通すことになったが、はっきり言って御免こうむりたい。
立場がなければ絶対に拒否していたと断言できるくらい悪姫アリアと関わりたくはなかったルドガーだったが、今自分の想像していた少女とは違う、別の意味で危なげなアリアに戸惑っていた。
ルドガーは自他ともに認める薬学研究マニアだ。
そしてそれらに関連する学問、病魔、精神病などにも日々の時間を費やして頭に叩き込んでいた。
中でもルドガーが力を入れているのは、未だ特効薬が開発されていない病の研究である。
ルドガーからしてみれば、スノーデンを拠点に活動できるのは最高の環境であったと言えた。
ただ、あくまでスノーデンでの彼の役わりは、液体の薬を結晶化させ持続性や保存性を高めるための研究で約半数を占めていた。
アリアのように明らかに精神疾患の類は彼があまり触れてこなかったものだ。
「……あの」
「はい」
口を閉ざしていたアリアが、思いきった様子でルドガーに声をかける。痛々しくかすれた声を不憫だと感じた。
「あなたは、その……ルドガーさん? で、合っていますか?」
「は、名乗るのが遅くなってしまい申し訳ございません。本日付けで薬師長補佐として城入りしましたルドガーでございます」
「あ、いえ、わたしにそんな気遣った言い方なんて」
名乗ったルドガーの腰の低さにアリアは戸惑っていた。長年城中で浮いた存在としていたアリアは、家族からは疎まれ、貴族らからは気味悪がられ、そのほかの者達からは父王の指示によりいないものとして扱われていた。
つまり、オーギスト以外でこんなに他人と目が合うことすらアリアにとっては久しぶりだった。
「……?」
しかし、事情を知らないルドガーは、アリアの言いかけた言葉に内心首をかしげた。
「……そう、ですよね。やっぱり、あれは本当にあったこと……あなたが……」
何かを言おうとしてグッと言葉を飲み込んで再び視線を下に向けてしまったアリアの瞳には、うっすら涙が浮かんでいる。
「殿下――」
いたたまれなくなったルドガーが声をかけようとするが、それよりも早くアリアは瞳を手のひらで覆い隠した。
そしてその状態のまま、ルドガーへ小さく問う。
「聞いても、いいでしょうか」
「え? ……ええ、何なりと」
「ルドガーさん。あなたは、宮廷薬師ということなんですね」
「はい」
「それでは、ここはクリスタル城で間違いないですか?」
おかしな質問をするものだと、ルドガーは思った。
長い月日をこの塔で過ごしていたアリアに、城以外の場所などあるわけがない。
その含みある言い方に引っかかりを覚える。
「それじゃあ……わたしは、どうして」
途端に、アリアの唇が震えた。
両目を自分の両手で塞ぎ、顔の半分を隠したアリアがどんな顔をしているのかルドガーにはわからなかったが、声音から伝わるアリアの緊張に思わず身構える。
おそらく涙を拭った行為だったのだろう。
顔から両手を離したアリアは、その整った横顔を覗かせると、小さく嘆いた。
「わたしは、どうして生きているのか。ルドガーさんには、わかりますか……? なぜ、わたしはここにいるんですか?」
「アリア、殿下。何を……」
ルドガーは先ほどのウォルドの言葉を思い返した。
「アリアは狂言も吐くようになったらしい」と、アビィとともに部屋を出ていったときの言い草を、ここで思い出してしまったのだ。
(狂言……これが、狂言を吐いてるやつの顔か?)
ルドガーの目に映るのは狂言を吐く少女の姿ではない。
ただ悲しくて、苦しくて、見えない影に押し潰されそうになっている、そんな少女の姿だけだった。