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「……っ!」
なぜか、アリアは寝台の上にいた。
吸い込まれそうな形をした天幕の奥を、ただじっと凝視してどれほど経っただろうか。
どっ、と体中が心臓になったような感覚が襲った。動悸は一向に治まらず、“先ほど”のように寝汗がべたべたと背中に引っ付いて鬱陶しい。
「な……ど、して……!?」
(声が、出ない!)
喉が干からびたように乾いている。一声出すことすらもやっとで、出せたとしても掠れて酷い有様だった。
加えてこの強い眩暈、頭が割れるようだ。
こめかみを強く押さえたアリアは、訳がわからないままそこかしこを見渡し始める。
(ここは……)
記憶の片隅で薄らと見覚えがある気がするが、それにしても豪華で煌びやかな印象の室内だった。
薬室と部屋を行き来しながらアリアが暮らしていたのは、王女にしては質素な作りと、最低限の物だけが置かれた城の端の細い塔。光もわずかしか当たらない、荒く削った石を敷き詰めただけの床が丸出しになった冷たい空気が漂う部屋。それがアリアが十年の歳月を過ごした場所である。
しかし、ここは……なぜ、こんな場所にいるんだろう。
自分はいま、王座の間で首を斬り落とされたはず――。
「……! うぇっ」
思い出した途端、とてつもない吐き気に襲われたアリアは、顔全体を毛布に押さえ付けた。吐こうにも胃は空っぽのようで何も出てこない。
がたがたと悪寒が治まらず、脳内に先ほどの実体験が鮮明に何度も繰り返された。
「……はっ、はっ……ああああっ――!!」
頭の中が、多くの景色で入り乱れる。
大切な人が、先生が死んだ。父王に、家族に殺された。自分の命も、首を斬り落とされて終わったはずだった。
では、なぜ? なぜ自分は生きているんだろう。
この鼻につく懐かしい香りが、心を穏やかにしていく香りが、涙腺を刺激してふたたび瞳から雫を溢れさせる。
『……すまない、アリア』
声が聞こえた、気がした。
「……せんせ、せんせい! せんせい!!」
からからと水分のない喉が激痛をあげる。
上手く声は出ない、それを無理やりにでも出そうとして傷を負っていく。口の中が鉄の味に染まる。
「……ひっ、うぅ、くっ!」
喉の痛みが煩わしくて、首筋に爪を立て掻きむしり始めたアリアは錯乱状態に陥っていた。
多くの足音が近づいてくる気配がする。その足音は扉の前で止まることなく、そのまま部屋へと侵入してきた。
「――アリア!!」
荒々しく扉が開け放たれる。大きな音に反応したアリアは、ふとそちらに目を向けた。
「……な、あ」
扉の前には大勢の人が佇んでいた。
……父、母、それに兄のウォルド。他にも困惑した面持ちの使用人や兵士、護衛騎士たち。とにかく大勢が驚愕した様子でアリアを見ている。
「……ア、アリア。目が、覚めたのか!」
父王らしき人が、目尻に涙を浮かばせて言った。
それは隣に立つ母妃も同様であり、口元に手を添えて必死に嗚咽が漏れるのを抑えているようだった。
だが、その姿形はあまりにも違いすぎる。
アリアの知る父母は、もっと体が肥えていたはずだった。
それがどうだろう、こうしてアリアの名を呼び、安堵の表情を浮かべる二人はいつかの面影を持っている。
「……っ」
アリアは己を守るように毛布をかき抱いて体中を覆い隠した。向けられる視線の先はすべて自分であり、玉座の間と酷似している。
だが、オーギストはどこにもいない。一番見たくて堪らない人の姿は、どこにもいない。
当たり前である。何度も頭で繰り返し告げているのだから、彼はアリアの腕の中で息を引き取った。
「先生、先生……ごめんなさいっ、先生、う、うう」
何に対してかはわからないが、アリアの心の奥底には罪悪感が重々しく沈んでいた。体を小さくさせ、うずくまったアリアに扉の前にいた人間たちはどうしたのかと顔を顰める。
「アリア、どうしたんだい。一体何が……」
「……っ! それ以上近づかないで!!」
父王が一歩部屋に入ろうとした瞬間、気配を察知したアリアは腹の底から響かせた声音で制止した。
その様は、まるで怯えきった獰猛な獣である。少しでも近寄れば噛み付いてきそうな、瞳の奥で鋭く光らせた警戒心がぎらぎらと揺れ動いていた。
「どうして、わたしは生きているの? だって、殺されたのに! わたしは今死んだ!!」
「落ち着きなさい、アリア!」
「父上が! あなたがわたしの首を落とすように命じたではないですか!」
「アリ、ア? あ、あなたは一体、何を言っているの……?」
言葉を震わせた母妃が顔を真っ青にさせた呟いた。何を言っているんだと言いたいのはこっちの方である。濡れ衣を着せられ、謀反人として処されたアリアにとって、今起きている状況は理解し難いものだった。
人を助ける医療をオーギストに学んでいながら、憎らしい、呪い殺してしまいたいと強く望んだ奴らが、目の前にいるのだ。
誰もがアリアの様子を心配そうに伺っている。
いいや、違う。一人だけは厳しい顔をしてアリアを見ていた。
「父上、よろしいですか」
そして父王を庇うように手で制すと、アリアの言葉を無視して部屋に入って来る。
「いいご身分だな、アリア」
アリアと近しいアッシュブロンドの髪色をした青年が、きつく眉間に皺を寄せ言い放つ。
長い丈の黒地に金の刺繍をあしらった美しいデザインの衣装と、真っ直ぐに伸びた髪を一本にまとめ、美しい中にも凛々しい印象を青年は他者に与えていた。
「……ウォルド、さま……」
「なんだ、それは」
か細い声のアリアが、「ウォルド様」と、そう呼んだ途端、ウォルドの顔が今まで以上に恐ろしいものになっていた。
より距離を詰めてくるウォルドに、アリアは瞬時に後ずさった。だが、広い寝台といってもすぐに背中は壁にくっ付いてしまい、逃げ場は無くなる。
寝台の脇に立ったウォルドは、警戒心むき出しのアリアを見下ろした。
不機嫌そうに歪まれた端正な顔は、とてつもない迫力があり、あることに気がついたアリアはその瞬間言葉を失った。
似ている――まだ、妹を可愛がって甘やかしてくれた頃の兄の面差しと。厳しい顔を崩したりはしないが、くすんでいたはずの目の奥が澄みきっている。
先ほどアリアを謀反人と批判していたウォルドとは打って変わり、揺るぎなく強い意志が垣間見えた。
「周囲の者に悪態を付き、散々振り回したと思えば次は狂言ということか。…………救われない愚妹だな」
「……え、な」
ウォルドがこんなにもアリアに直接的に話しかけてくれたのは、いつぶりだっただろうか。
木登りで起こした事故以来、アリアは兄弟との接触を意図的に避けられ、近寄らせないよう兵や護衛騎士が配置されていた。母妃が親しくさせないように工作していたというのもあるが、それ以前に兄弟はアリアを家族として扱っていなかった。
だから、まともに顔を見合わせたのは――あの玉座の間だったのに。
(この人は……ううん、この人たち、は?)
アリアは、もう一度部屋の扉の前にいる父王や母妃、その他大勢と、目の前のウォルドを確認していった。
十年前を境に、アリアは家族の呼び名をすべて変えていた。お父様を父上、お母様を母上、ウォルドお兄様をウォルド様、弟は愛称のルイからルイス様と。
兄弟の敬称は、彼らがそれをアリアに強いたのだ。
でも、アリアはそれでよかった。
それがアリアの中で区別だったからだ。
幸せだった時間を過ごした彼らと、豹変した彼らとでの区別。
家族が、世界が変わってしまったことを受け入れなければと思っていても、目の前で起こっている事実のすべてを認めたくなかったアリアの足掻きだった。
優しかった彼らもいたのだと、アリア自身が忘れてしまわないように……呼び名に区別を付けて、時折皆が向けてくれた笑顔を思い出せるように。
「ど、して、あなたは……」
もう、わけがわからない。
どうして、どうして、どういうことなの。
「ウォルド、おに、さま……」
疼く首筋を無意識に押さえながら、その呼び名を口にする。
アリアの脳裏に残る笑みを向けてくれた兄と、目の前にいるウォルドの姿は、遠い彼女の記憶の中でパズルのピースを埋めるように、重なった。