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「そやつも、同じことを言っていたな」
「……っぐ、ごほっ、ごほっ!」
オーギストは体を揺らして激しく咳き込み、何度も吐血を繰り返すと、閉じていたまぶたをわずかに開けた。
「……ア、リア、僕は……」
「……先生! しっかりしてください。すぐに手当てをしますから、もう少しの辛抱ですからっ」
自分の袖口で彼の唇に付いた血を拭い、液で呼吸が出来なくなってしまわないようにオーギストの身体を横にしようとするアリアだったが、それを止めたのは他でもないオーギストであった。
「……すまないね、アリア。僕はもう、手遅れらしい」
「せ、先生? なにを言っているんですか?」
「君は頭の良い子だ。この出血を見れば……助からないことくらいわか、るだろう? それに、治療も、おそらくさせてはくれ、ないよ」
虚ろな目のオーギストの様子を見れば、あとわずかな命だというのはアリアも重々承知だった。
だが、そこで諦めてしまえば師を失ってしまう。
この世で自分を理解し支えてくれる人間がいなくなってしまう。その恐怖に自分はきっと耐えられない。
「……やだ、嫌だよ。お願い先生、わたしを置いていかないでっ。先生がいなくなったら、わたしはひとりになっちゃう」
通常の振る舞いと比べ、オーギストに向かって幼い話し方をするアリア。
こんな話し方をするのも彼の前だけだった。
アリアにとってオーギストは父のような存在でもあったから。
「ごめんね、アリア。もう、僕には何も無いと思っていたんだ。すべて、失ったと。そう思っていた。残された僕には特効薬を作ることだけが、生きるすべてだった…………けれど、今こうして君を残してしまうことが、未練で仕方ない」
オーギストの声音が段々と萎んでいく。
口元の近くに耳を寄せ、やっとの思いで聞くことが出来るほど小さい声なのに、アリアは聞き逃すことなく彼の言葉をすべて汲み取っていった。
聞きたくない、けれど聞かなければならない。
これがオーギストとの最後の会話になることは、アリアも理解していたからだ。
それでも信じたくなくて、首を横に振ってしまう。
「未練なんて、言わないでよっ。まだ終わってない、まだ多くの人が助かって元気になったところを、先生はまだ見てない。きっとみんなが先生に感謝する! それなのに、先生がいなかったら意味ない!」
「……はは、そう、だね。君は本当に優しい子だなあ」
血塗られた手が、アリアの頬に触れた。
汚れてしまっても構わなかった。奪われていくオーギストの体温を必死に温めようとしているのか、アリアは彼の手を両手で握りしめ擦り合わせる。
「…………もし、あの子が大きくなっていたら、アリアと仲良くして、欲しかったな。あの子も、君と同じで優しい子だったんだ」
「せ、せんせ」
「アリア。僕はね、君を本当の娘のように思っていたんだよ。失ってしまった、あの子との時間を、まるで取り戻しているかのよう、だった。君は僕のことを、自分を救った人間だと、言ってくれたね。でも、違うんだ」
慰めるように、オーギストは最後の力を振り絞ってアリアに柔らかく微笑む。
「本当は……僕が、君に救われていたんだよ、アリア」
こぼれ落ちたアリアの瞳の滴が、オーギストの頬に流れては弾ける。ぽろぽろと子どものように涙を流すアリアを、オーギストは愛しみを込めた温かい瞳で見つめていた。
けれど、ふとオーギストは今以上に顔色を曇らせた。
「……すまない、本当にすまないねアリア。君にとって、この世界は生きにくい場所だろう。僕もそうだった、今も同じさ。そんな場所に、ひとりにしてしまう僕を、許して欲しい。けれど、きっと、君なら元いた世界に……戻れる、君を、待っている、本当の家族が……」
「もといた、世界?」
ここは自分が知っている場所とは違う。
そう感じて生きてきたアリアは、いつだったかオーギストに話したことがあった。
目覚めると周囲の人が変わってしまったということ、国全体がどこか気味の悪い空気で覆われ、これまでの場所とはまるで『正反対』のような世界だと。
その時オーギストは真剣にアリアの話を聞いてくれた。何がどう変わったという訳ではなかったが、知っている人間がひとりでも居てくれただけでアリアは安心できたのだ。
悪夢のような世界だと、アリアは思っていた。
だが、元いた世界とはどういうことだろうか。アリアにはオーギストの言葉の意味が理解出来ないでいた。
「……こんなことになるなら、もっと早く話しておくべきだった。……よくお聞き、アリア。僕の推測に過ぎないが、こ、こは、アリア……君がいた世界とは、別の場所なんだ」
「別の、場所? せんせ、何を言って」
「過去の文献に、載っていた。──平行世界の存在が、あるということを。自分が知る世界のはずなのに、少しずつ違ってくる。おそらく、君も……」
「そ、そんなこと……」
すぐには理解し難い内容だった。
世界が違う、平行世界、同じようで異なる場所。
辻褄の合う点は多くあるものの、そんな非現実的な話が実際に起こり得るのだろうか。
──別世界を越えてきた、なんてことが本当に。
「だ、から。諦めないで欲しい。ここは、君のいるべき世界じゃ、ないんだ。君の帰るべき場所は、君を待っている人間は必ずいることを、忘れないで。君を心から愛している家族を、絶対に忘れないで、惑わされず、想い続けるんだ」
「……それでも、嫌だっ。先生がいないと、先生がいたからわたしはこうしてここまで来られたのに。もっと、もっと教えて欲しいことだってたくさんあるのに!」
「……ふ、ありがとう。その言葉だけで、僕は、充分」
オーギストの瞳から光が失われていく。
アリアは何度も、何度も彼の手を温めたが、効果などなかった。
自分を娘だと言ってくれた。父親のように思っていた。この十年間、アリアが自分を見失わずにいられたのは、堕ちてしまわなかったのは、オーギストが居てくれていたから。
(ひとりに、しないで。いなくならないで。置いていかないで、死なないで。お願いだからっ)
だが、アリアはその懇願を言葉にはしなかった。
もう、感謝を伝えることしか自分には出来ないのだと痛いほどわかっていたから。
「あな、たは……わたしのかけがえの無い家族だった。本当に、感謝してもし切れない。わたしを娘に思ってくれて、ありがとうございます」
「……ああ、僕も、だ。…………そ、だ、今日は、誕生、あの子と、同じ………おめでとう」
「うん、うん……ありがとう……先生」
両手に包んでいたオーギストの手が、ぶらりと床に滑り落ちる。
柔らかく微笑み、まぶたを閉じた彼は、永遠の眠りについたのだ。
「……」
たった一人の師を、家族を、この瞬間に失った。
拠り所が消えたアリアの心は、すでに崩壊寸前だった。
「――ああ、ようやく終わったか。最後の手向けに、待ってやったんだぞ。感謝するんだな」
でっぷりとした父王の声に、アリアは力なく顔を上げる。
たった今、一人の人間が目の前で死んでしまったというのに、自分には関係ないといった顔で玉座に腰を沈めている人間に、嫌悪感が渦巻いた。
「……ない」
「なんだと?」
「わたしは、あなたたちを許さない。みんな許さない。こんな世界、無くなればいい。いっそのこと――人喰いに蝕まれてしまえばいいんだ!」
「貴様……! その言葉、極刑に値するぞ!」
がたりと音を立て、父王が立ち上がる。
アリアはもう、どうでもよかったのだ。
国王の逆燐に触れようが、処罰を受けようが、追放されようが、そんなことはもうどうでもいい。
「……いくら頑張っても、あなたたちは元には戻らなかった」
──そう、変わらなかった。
「お優しくて、バスカディルの賢王と呼ばれた。慈悲深く、バスカディルの女神と呼ばれた。安寧を望み、次期国王と期待されバスカディルの希望と呼ばれた。新たな生命、国を支える柱となる、バスカディルの未来と呼ばれた」
ぶつぶつとアリアはひとりでに呟く。
俯いたままのその様子は異様なもので、周囲の人間は肩を震わせた。
「一体何の話をしている」
「……わたしが知っていた、あなたたちのことですよ。ですが、今は見る影もない。バスカディルはあなたの世代できっと滅びるわ」
瞳をぎらりと細め、ひとりひとりに向けていく。
きっと、いや……既にこの国は崩壊していたのだ。
「……貴様! 己の状況が理解出来ないようだな、この期に及んで私を愚弄するというのか!!」
その言動を薄気味悪く思った父王は、アリアを捕らえるように兵士らに命じた。
「近寄らないで!!」
ガシャガシャと鎧の音を響かせながら、アリアに近寄った彼らであったが、たった一言によって足を竦めてしまう。
ただ一人の少女の気迫に圧されていたのだ。
誰もがハッと息を短く引き切り、その怒号に金縛りめいたものを起こした。
「まだ、先生を弔っていないの。邪魔をしないで」
それからアリアは、オーギストの両手を胸の中心に固定させ、ハンカチを顔に掛けてやった。
おそらく彼が正しい手順で埋葬されることはないのだろう。本当は自分がしてやりたいが、アリアにはわかっていた。
この先、自分がどうなってしまうのかが。
「……」
「な、なにをしている! 早くその者を引っ捕えろ!」
黙祷を捧げ、アリアはゆっくりとした動作で立ち上がる。停滞していた時間が動き出すように、今度こそアリアは兵士によって捕えられてしまった。
腕を後ろで縛られ、床に頭を近づけひれ伏す体勢を無理やりさせられたアリアは、悟ったように涼しげな笑みを浮かべる。
そんなアリアに、父王は問うた。
「何が可笑しい?」
「いいえ? こんなにも家族を憎らしいと、呪い殺してしまいたいと思えるなんて、不思議だと思っただけです」
「まあ……なんてことを!」
母妃は発狂し、早くアリアの息の根を止めろと兵士に命じた。
誰も反対する者はいない、この場にいる人間がアリアの死を望んでいたのだ。
それはアリアにとっては異質であっても、周囲の人間は当然と頷く処罰であった。
「命乞いもなしか。……十年前からそうだ。貴様はまるで人が変わった。善意という、最も愚かな思想に取り憑かれた。実に薄気味悪い娘だ」
目覚める前のアリアは、彼らと似た性格の持ち主だった。それゆえ民からは『悪姫』と呼ばれ、最悪な王家の王女として生きていたのだ。
だが、十年前からアリアは人が変わってしまった。
善の心を持ち、彼らと反対の意見を出すようになった。
それは彼らにとって異常であった。
だから極悪非道と名高いバスカディル王家にとって、アリアの言動は危険視されていったのだ。
オーギストの言葉どおり、ここはアリアが元々いた世界とは反対の性質の人間が多く存在する世界であった。
だが、その事実にアリアはまだ気づいていない。
今この瞬間に考えることを放棄しているのだ。
「命乞いなんてしない。ほら、そこのあなた、早くしなさいよ。早く、剣をわたしの首に当てなさい。……あなたたちに命乞いをするくらいなら」
(先生、ごめんね。平行世界とか、帰れるとか、教えてくれたけど。そんな不確かなものに縋るくらいなら、わたしはここで)
「――首を斬られ死んでいくほうが、まだ救われる」
「殺せ」
肉を裂く音か、耳孔に深く刻んだ。
(…………大好き、だった)
命が尽きる、その瞬間。
アリアは愛していた、愛そうとしていたはずの彼らに対して、憎悪の感情以外何も抱けなくなっていた。
お優しかった、お父様。
温かかった、お母様。
妹思いで甘やかしてくれた、ウォルドお兄様。
無邪気な笑顔を向けてくれた、弟のルイス。
――もう、皆をそう呼ぶことはないのだろう。
首を斬られたというのに、アリアには身体が床に倒れるまでの記憶があった。
それは不思議な感覚で、同時にいくつもの走馬灯が脳裏を駆け巡る。
(……さようなら)
こうして、アリア・バスカディルは齢十八の生涯に幕を下ろした。
「……」
はずだった。