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「大丈夫、こわくないよ。こっちにおいで」
木の枝に丸まって怯える姿に、思わず手を伸ばしていた。
けれど黒色のそれは、一向に降りてきてはくれない。
「もう、ちょっと――ああっ!」
ズルリと、身体が宙を浮いていた。
八歳の頃、王女アリアが事故を起こして目覚めると、世界のすべてが一変していた。
お優しかった父と母は、アリアをまるで虫けらを見るような目を向けるようになった。
相手になってくれていたお付きの侍女は一言も口を利かなくなった。
アリアの四歳上の兄ウォルドと、四歳下の弟ルイスとの交流は一切を禁じられ、街を歩けば憎しみの感情を向けられるようになった。
「みんな、どうしたの? わたしは、何かしてしまったの?」
環境の変化についていけないアリアは、混乱するも何度も皆に訴える。しかし、誰も少女の姿を見ようとはしなかった。アリア自身を訝しみ、憎悪を込めた鋭い瞳で睨んでいた。
「なにをいまさら……この悪姫が」
街人の誰かが、たしかにそう言葉にする。
その日から、少女の目に映る世界は、どこか薄気味悪く、これから絶望の日々を送ることなど思ってもいなかったのだ。
◆
日付を跨げば、アリアは十八の歳を迎えようとしていた。
バスカディル王国王女の生誕日ではあるが、何かが催されるわけもなく、きっと変わらぬ一日を過ごして終わるのだろうと考えながら明日に備えて床に着いたのは深夜過ぎ。
その日も薬の調合に明け暮れ、薬室に一日中こもっていたアリアは、いつも通り睡眠薬の手を借りて意識を手放した。
一刻も眠ってはいなかっただろう。
アリアは、形容しがたい胸騒ぎを覚え寝台から飛び起きた。
最近、このように体から魂が切り離されそうになる感覚が夜中に襲ってくるのだ。今夜は特にそれが酷かった。
寝汗で背中がぐしょりと湿っており、額からも尋常ではない汗の量が頬に落ち首へと伝う。
……城内が騒がしい。
嫌な起き方をしてしまったのはそのせいだろうか。未だに心拍数は高いまま、居ても立ってもいられず、アリアが何事かと回廊を一本の蝋燭の灯りだけを頼りに進んでいた時だった。
「その者を、どこか山の奥にでも捨て置け」
抑揚のない、父王の声音が王座の間から聞こえた。
それと同時に重量のあるものが床に叩きつけられる音がして、瞬時に嫌な予感が頭をよぎったアリアは無作法にも扉を荒々しく開け放つ。
「なにを、しているの」
声にならない、空気のような言葉が宙に消える。
玉座の間には、なぜか人が大勢いた。
深夜を回る頃だというのに、父や母、兄、弟、宰相、国の中枢を担う臣下、そして兵士が左右対称に整列している。
玉座には父母らが腰を下ろしていた。
ふたりは冷たく凍った表情を微塵も動かすこともなく、自分たちの前に倒れ込んでいる者を見下し眺めている。
その倒れ込んだ人物の姿をしっかりと確認できたアリアは、悲鳴の如く声をあげた。
「先生!」
ざわざわと、周囲の人間が突然は現れたアリアの存在に驚愕し、嫌悪感をあらわにする。
徐々にあたりは混濁の波が広がっていった。
すぐにアリアはその人に駆け寄った。
簡素な作りのドレスの裾が何度もつま先に引っかかる。スカートをあげる余裕はなく、アリアはその人の傍らに膝を折ったまま滑るように転がり込んだ。
じりじりと膝小僧に痛みが生じたが、自分の痛みなど吹き飛んでしまうほど、アリアの目にした光景は恐ろしいものだった。
「うそ、うそ……せん、せ? な、んで。どうして、どうして!――血がっ」
どくどくと、左胸が一突きで貫かれていた。
じんわりとアリアの膝にかけて生暖かい感触が支配していく。
薄暗闇で気づかなかったが、赤紅に染め上げられた絨毯には別の色も入り混じっていたのだ。どす黒い、変色し始めた赤。血の赤が。
「あ、ああ……どうしてこんなことをっ!!」
胃の奥からこみ上げてくる何かを必死に抑えながら、アリアは先生と呼ぶ師、オーギストの肩を抱き込む。
藍色の長髪がアリアの腕に絡まった。
就寝前、薬室の前で別れたばかりだというのに、確かめると見れば見るほどその顔色は酷く青ざめていた。血の気がどんどん失われ、細々と途切れ始める呼吸に悪寒が止まらない。
「っ……一体これは、どういうことですか――父上」
表の動揺を押し殺し、毅然とした態度でアリアは鋭くさせた視線を玉座に向ける。
忌々しくアリアを見ていた瞳と視線が交わった。
「極刑に処しただけのこと。そやつは私に毒を盛って殺しを企てた罪人なのだからな」
「……なっ!?」
「そやつはあろうことか今宵我らの寝所に忍び込み、水差しに毒薬を混入させたのだ」
「それは何かの間違いです! 先生は特効薬の調合に追われ薬室から一歩も出ていないんです! 寝所に忍び込めるわけがありません!」
そもそも、オーギストが誰かの殺しを企てること自体あり得ないことだった。
この世界を救いたいと望んだ人間が、人々を病魔の苦しみから解放することを長年の夢としてきた人間が、人の命を殺める行為をするはずがない。
「先生はっ、先生は『人喰い』から世界を救う特効薬の開発を遂げた救世主であるのに。自分のことなどいつも後回しで、患者のために身をこにしていたのに。そんな人が父上を殺すだなんて……!」
必死に訴えるアリアに、皆は冷ややかな目を向けるだけ。
一刻も早くオーギストの手当てをしなければならないのに、誰ひとりとして手を貸す者すらいなかった。
「間違いであることは調べればわかるはず。今一度、正当なお調べをなさってください!」
「……白々しいな、アリアよ。貴様もそやつに加担していた身であるというのに」
「なにを、言って?」
空気の温度が一気に下がる。父王の言葉の意味がわからなくて、堪らずアリアは聞き返した。
「知らないとは言わせないぞ。貴様ら二人が私を殺そうと計画を企てていたのは報告にあがっている。なんと愚かで、賎しいことだ」
「それこそ何かの間違いです! わたしはそのようなこと考えたこともございません!」
「……ではなぜ、王女である貴様は毎日毎日薬室にこもっている。王族には必要のない薬学など学びおって。やはり慈悲でその身分に留めておくべきではなかったな。はじめから私に手をかける算段だったのだろう!」
「なんて恐ろしい小娘なのかしら……!」
同調した母妃は衣服の袖で口元を隠しながらアリアをさらに批判する。
それに次いで、久方ぶりに顔を合わせる兄のウォルドと、弟のルイスもアリアを責め立てた。
誰もがアリアとオーギストを謀反人だと仕立て上げようとしている。誰も自分の言葉に一切耳を傾けようとはしない。まるで一方通行の考え、扱い。
ああ、またなのかと、アリアは悟った。
もう何年もこうなのだ。
十年前から、自分の知る人達は別の人間に豹変してしまったように性格が変わってしまった。
いいや、家族やこの城の者だけではない。この国全体がおかしくなっているのだ。
優しかったはずの父や母、兄弟、城内の人間は、十年前を境にアリアに対して酷い扱いを強いるようになった。
アリアは実の子ではないと、そう卑屈な顔で母の口から言われたのも覚えている。街を歩けば『悪姫』と呼ばれ恨みを向けられるのも日常茶飯事で、見覚えのない所業をいくつも押し付けられた。
まるでここは……悪夢の世界だ。
八歳の頃、アリアは木から転倒し、意識を失ってしまったことがある。
目覚めると自分の扱いは何もかも変わっていて、周りの人間が全員悪者に見えた。アリアには怖くて堪らなかった。
精神が追い込まれていき、この悪夢から自分を消してしまいたいと何度も願った。
そんなある日、オーギストが薬室長としてアリアの前に現れた。
彼だけは他の人間と違った雰囲気をしていた。
そう、言うなれば悪夢の世界に入り込んでしまう前の、自分に優しくしてくれた人間で溢れていた世界の人と同じ空気をしていたのだ。
自然とアリアはオーギストに懐くようになった。薬室にも入り浸り、ついでに薬の知識もオーギストから教えてもらい、いつの間にかアリアは彼を『先生』と呼ぶまでに心を許す存在としていた。
そんな人が、悪夢の世界で唯一アリアの心の拠り所となっていたオーギストが、生命の光を失おうとしている。
今のアリアにとって、これほど恐ろしいことはない。
「わたしも先生も、父上を殺めようだなんて思ってもいません。薬室に入り浸っていたのは『人喰い』の特効薬を一つでも多く作るためです。この薬で何万、何百万……いえ、何億という人々が救われる。それなのに、父上は人員を増やしてはくれない。助かる命も助からなくなってしまう! だからわたしも先生も、時間の許す限り薬の生産に当たっているんです! 謀反を考えている暇なんて一秒たりともありません!」
アリアはそう訴えるが、その言葉に父王は至って真剣な顔で信じられないことを言ってのけた。
「ああ、その特効薬……ただでは分け与えない。国の大事な産物だからな。その薬を欲している国は五万といるのだ。これを利用しない手はないだろう」
「……な、なにを。まさか人喰いの特効薬を、国政の道具に使うおつもりですか……?」
「当たり前だろう、頭が悪い娘だ。世界を蝕む不治とされた病魔を治すことのできる薬。それがこの国で作られたのだ。それをただでくれてやる馬鹿がいるものか。無論、調合方法の開示もしない」
欲にまみれた父親の瞳。
民から愛され、賢王と名高かったはずの人が利益のためにオーギストが生み出した特効薬を利用しようとしている。
こんなこと、許せないし、許されない。
怒りで身体が沸騰するように熱く、血の巡りが逆流しているような感覚にアリアは支配される。
「……道具になんか使わせない。絶対に使わせない! 調合方法は多くの人が知るべきです! それをこの国だけに留めておくだなんて、わたしがさせない!」
「……ああ、やはりお前もそちら側の人間か」
断言するアリアに、父王の表情に暗い影が差し込む。
それからアリアの腕に抱かれていたオーギストに視線を移し、苛立たしく顔を歪めた。