しょうねんしょうじょ
これは、どこにでもある物語で、どこにでもある苦悩と絶望なのかもしれない。それでも書き切りたかった。それだけの情熱で書きました。
序章
がたん、と音がした。
誰かが勢いよく椅子から立ち上がった音だろう、大したことじゃない。そう思った瞬間、教室に響いたのは、
――ぱァん。
何かが、何かを強く打つ、乾いた音。
ストーブによって温められた空気は、その音によって一瞬にして凍りついた。
昼食を取り終え、午後の授業が始まるまでの束の間のひと時――各々が好きなように過ごしている、緩慢とした空間。それを、たった一瞬で変える方法。考えられる可能性はこれだけ。
平手打ち――すなわち、修羅場。
「ふざけんな、馬鹿にすんなよ!」
ひとりの女子生徒の怒声が、静まり返った教室の空気を貫く。頭にきぃんと残る嫌な声に、秋野夏目は顔を歪めた。
その夏目の視線の先では、ひとりの派手な女子生徒が、長い茶髪の隙間から向かい合う相手を睨みつけている。
その相手は、派手な女子生徒とは対照的な短い黒髪の女子生徒だった。その姿をみて、ああ、と思う。相手は校内でも有名な“変人”じゃないか。
その二人を中心にして、数人の派手な女子生徒たちが取り囲んでいる。所詮は取り巻きだ。
構図だけ見れば集団リンチのようだが、様子が明らかに違う。中心の二人は立っているが、取り囲んでいる連中は椅子に座って呆然としている。その顔は、全て目の前の出来事が理解できない、と物語っていた。
派手な女子たちと “変人”と揶揄されている女子。組合せとしては全くもって異色である。
教室中がひやひやと――だが、どこかわくわくとしている中で――平手打ちをされた本人は、実にけろりとした表情をしていた。赤くなり始めた白い頬を気にする様子もないまま、興奮している派手な女子生徒をしっかりと見ている。
「馬鹿にしているつもりなど、一切ないのだが」
それは、凛とした、動揺のない声だった。
“変人”は、いつもクラスの端で静かに過ごしていることを、夏目は知っていた。誰かと話している姿を、同じクラスになってから一度も見た事がない。大人しい印象を持っていたけれど、それとは相反する意志の強い声だった。
叩かれたのに、冷静な“変人”の態度にさらに苛立ったその女子生徒は、髪を振り乱して叫ぶ。
「その態度で馬鹿にしてない? ふざけてんの?!」
「そう見えたのならば、潔く謝ろう。馬鹿にもしていないし、ふざけてもいない。――ああ、でも」
さらり。肩口で切り揃えられた“変人”の短い黒髪が、揺れる。それはまるで風に靡く草木のような、穏やかなものだった。の、だが。
「――見下してはいるかもしれない、な」
穏やかなイメージとは裏腹に、放たれた暴言。――とんだ神経の持ち主だ。夏目は即座に顔を青くした。
今、この状況で、こんな事を言うなんて。頭がおかしいとしか思えない。
当然、この発言に相手の頭に血が上らない訳もなく。
その可愛いと評判の顔が、さっきまでの顔つきよりもさらに歪み、熱を帯びた。夏目は直感した。あれはまずい。
そう思った時には、再び教室に乾いた音が鳴り響いていた。
――ぱァん。
二度目の平手打ちに動揺したのは、取り囲んでいた女子生徒の方だった。
「ねえ、まずいって!」
「いくらなんでも、やりすぎだよ!」
慌てて、女子生徒の腕を取り、間に入る取り巻きたちだったが、頭に血が登ったそいつは止まらない。彼女の口から出て来たのは、
「うるっせえな! てめえらは黙ってろ、邪魔なんだよ、ブスが!」
取り巻きの手を乱暴に振り払い、浴びせる暴言。そのあまりの迫力に、
「――ひどい、よ。そんなこと、言うなんて」
手を振り払われた女子生徒が、よろめいて、へたりとその場に崩れ落ちる。顔を覆って、肩を揺らして泣き始める。
ああ、怒りのあまり、この女子生徒は友人を失うのか。冷静に考えれば、それは駄目だと分かるのに、ここまで怒らせるとは、“変人”は一体何を言ったのだろう。
「茶番は済んだだろうか」
“変人”は、自分の目の前で起きた事をそう言い捨てた。そこに臆する様子は一切ない。短い黒髪の合間から見えた黒目は、声と同様に凛としていた。
「あ? てめえ、いい加減にしろよ! 調子のってんじゃ、」
女子生徒が、言い終えることはなかった。
――鈍い音がした。
頬に拳が入る音、骨と骨がぶつかる音。普通に過ごしていれば、聞くことのない音――、
がた、がたん! 机がいくつも倒れる。その上に、女子生徒が倒れこんだ。がた、がた、どすん!
きゃあああ。周りで傍観していた女子が、後ずさりながら叫んだ。まさかのまさかだ。夏目は息を止める、あまりの驚きで。
平手で返すならまだしも、拳とは。これは倍返し――いや、倍以上ではないか。
女子は叫び、男子は息を潜める。騒然となる教室の中から、先生呼びに行こう、やばいよこれ。――あちこちからそう声がする。何人かの女子生徒が、教室を出て行ったのを視界の端で捉えた。ぱたぱたと、廊下を走る何人かの足音。大人が来るまで、そう時間はかからないだろう。
すると、床に倒れた女子生徒が、机を支えにゆっくりと起き上がった。取り巻きたちは手を貸さない。独りきりになったそいつの、長い茶髪の合間から見える顔は、今までにないくらい歪み、醜く、変形していた。
「――てめえ、何、しやが、」
「利き手で殴らなかったのは、君の両手で数えきれない程いるセックスフレンドたちへの、私からのささやかな気遣いだ。本来なら気持ちよいはずのセックスの相手が、顔を腫らしているとなると、彼らの興奮は萎えてしまうだろう? ――ああ、でも。ひっくり返せば関係ないのかもしれないな」
セックスフレンド。その言葉に、再び教室は静まりかえる。
それは、避けるべき言葉だ。曖昧にぼやかして、それとなく相手に悟らせる言葉。それなのに、“変人”はなんの躊躇もなくはっきりと告げる。
「はあ?! 何のことだよ! セフレなんて、適当な事ぬかしてんじゃねーよ、クソが!!」
女子生徒の本性丸出しの言葉遣いに、夏目は驚きを通り過ぎて呆れてしまった。この動揺の仕方は、暗にその存在を肯定している。あまりの怒りと動揺で、この女子生徒は頭が回っていない。
ふいに、“変人”は女子生徒から視線を外した。そのまま、足を動かす。一歩、二歩、三歩。近づく距離に、また殴られるのではと身構える女子生徒の隣を、するりと通り過ぎて、真っ直ぐと“そこ”へ向かう。
そして、そのまま。
「…」
がらがら、ぴっしゃん。
何の躊躇いもなく、何も言い残すこともなく。
無言のまま、“変人”は教室を出て行った。
予想外すぎる展開に、呆気に取られたのもつかの間、女子生徒はぶるぶると体を震わせる。
「ク、ソが!!!」
がんっ! 蹴られた机は、中身を盛大に撒き散らして倒れた。がたん、がたん。ばらばら。
誰も何も出来ない中で、女子生徒の息切れだけが鼓膜を揺らす。
すると、突然がらりと教室の扉が開いた。全員一斉に、扉へと視線を移す。そこにいたのは、若い女の担任教師だった。目を丸くさせている。それもそうであろう。
いくつも倒れている机と、静まり返った教室。その真ん中で、ひとり息切れをしながら女子生徒。あまりにも変わり果てた教室に、
「一体何があったの?!」
声を荒げて訊ねるが、誰も話さない。動かない。否、出来ないと言った方が正しいだろう。今少しでも動いたら、この女子生徒に何をされるか分からない――。
今にも人を殺しそうなその瞳は、真っ直ぐと“変人”が出ていったドアに向けられている。
だが二度と、そのドアから“変人”が現れることはなかった。
彼女が学校を辞めたのは、その翌日の事である。