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 トレノから馬車で移動すること一時間半。

 川の流れが響き渡る緑の多い渓流地帯。魚影が見えるほどに澄んだ川と、ゆったりとした爽やかな空気。川のせせらぎや小鳥のさえずりを聞いているだけで心が豊かになっていく。

 天気も良くキャンプをするには最適な環境の下、角の取れた大小様々な石で満ちた川岸を上流へと歩いて向かうのは、キルシェを先頭にアルティアとハルト。

 新たに仲間となったもう一人はと言えば、


「うぉー、水がすごく冷たいなー」


 集団から一人離れ、ミュールを履いたまま浅瀬をバシャバシャと満面の笑みで歩いている。その身に纏うのはスリットの入ったミドル丈の青いタイトドレス。ノースリーブのドレスの胸元は大きく開き、魅惑的な谷間を強調している。

 面倒くさがりでやる気のないハルト。良くも悪くも真面目なキルシェ。人見知りでオドオドしたアルティア。シルヴァはその三人とはまるで違うタイプの女性である。

 一方でハルトのように自由気ままであり、キルシェのように行動的であり、一人で偽勇者一行討伐に出たアルティアのように度胸もある。

 女性陣と仲良く話す機会はまだほとんどないが、彼女は相手を自分のペースに巻き込む才能があるので、どうにかなるだろうとハルトは思っていた。


「アルちゃんも来ないかー? 気持ち良いぞー」


 ハルトの考えを見通していたかのように、仲間になってからまだ二日目とは思えないほど自然体でいるシルヴァはアルティアを呼んでいる。呼称はアルティアだけでなく、ハルトは〝ハル〟、キルシェは〝キル〟と何の前触れもなく呼ばれ始めた。


「はぁ……これから何をしに行くのか分かってるのかアイツは……」


 何度も手招きされて仕方なくシルヴァの下へと向かうアルティア。キルシェは困惑した彼女の背中を見送りながら呆れたように漏らした。


「この任務だってアイツの為に行くようなもんなのに……」


 馬車だとさすがに揺れが酷く、馬への負担も大きいと近くの小村へと置いてまでハルト達がこの任務を受けているのはシルヴァの境遇が大いに関係している。

 ハルトは昨日のこと、キルシェとアルティアにシルヴァとの不埒な現場を目撃され、勘違いで怒られたその後のことを思い出す。

 

 

 キルシェの怒りも止み四人で移動したのは、前夜とは打って変わって人気のない地下一階。ハルトの部屋での弁解を聞いている中でバネッサとの賭けに勝ったこと、宿泊代がただになったことを評価し、キルシェはシルヴァが仲間になることを渋々だが許可してくれた。

 しかし、だからとすぐにシルヴァがハルト達と次の町へと旅立つことは出来なかった。

 シルヴァはこのホテルでの契約が半月も残っているとのこと。その為に、酒場やステージの責任者でもあるホテルのオーナーに事情を説明しに行くことにしたのだ。

 問題はそこで起こった。

 開店前の酒場での面接やビラを貼る許可を与えてくれたオーナーの老紳士は優しく、アルティアが初対面から目を真っ直ぐに見ることが出来たような良い人。彼と話せれば良かったのだが、


「あら、キルシェさん達じゃありませんか。何か御用ですか?」


 ハルト達を迎えたのはテーブル席の一つに行儀良く座ったバネッサと、その脇に立ち軽く目を閉じたブラウリオの二人。


「バネッサこそ何してるんだ? 旅は諦めて踊り子かウェイターにでもなるつもりか?」


 キルシェはいやらしい笑みを浮かべた同僚をあからさまに挑発する。ハルトから昨晩の賭けのことを聞いた際にこのホテルはガリバルディ家が運営していると聞いている。彼女がここに居るのは賭けに負けた腹いせに何か企んでいるのは明白だ。


「何故私がそのようなことを! それよりもあなた方はそちらのシルヴァーナさんをお仲間に迎えるようですわね」

「ああ、お前があっさりと負けてくれたおかげでね。なんだ? もしかしてやっぱり昨晩の賭けはなしにしてくれと頼みに来たのか?」


 バネッサに対するキルシェの辛辣な態度はいつも以上。バネッサが何を企んでいるのか、ある程度の見当が付いてるからだ。

 彼女の頭にあったその見当は決して間違っていなかった。


「そんなことする訳ありません。あなた方から滞在費を求めないよう既にオーナーにお伝え致しましたわ。

 ふふ、それから、あと半月残っているシルヴァーナさんの契約解除を認めないようにとも」


 気品に溢れながらもそれを台無しにする高慢ちきな笑みでバネッサは明かした。


「ふん、やっぱりそんなことだと思ったよ」


 キルシェに驚きはない。予想通りの言葉だ。


「え、それじゃあ、私はあと半月経つまで辞められないのか?」


 一方でシルヴァは乱れた感情を隠さない。


「契約したとは言っても口約束だし、別に契約金も貰ったりしてないのにか?」

「シルヴァーナさんが働いて下さっているおかげでお客様も増えていらっしゃいますし、あなたを手放したくないのは経営者として当然の考えですわ。

 もちろん私だって鬼じゃありません。これからシルヴァーナさんが稼ぐであろう金額の違約金をお支払い下さるのでしたら、契約解除をお認め致しますわ」


 バネッサは意地悪い顔でそう言い契約解除金の額を教えてくれると、


「契約解除金を稼ぐのが先か、契約期間が過ぎるのが先か、後者にならないようせいぜい頑張って下さいませ」


 終始無言でたまにハルトを睨み付けていたブラウリオを引き連れ酒場を後にした。

 代わって現れた雇われオーナーは主人とも言えるバネッサの要求を違えることも出来ずシルヴァに謝っていた。

 ハルト達を足止めしている間にもバネッサが偽勇者一行の討伐を画策しているのは明らか。奴等が偽勇者一行に勝てるとはハルトとキルシェ共に思えないが、ここで無為に過ごす訳にもいかない。

 だからとシルヴァのことを良く思っていないながらも、一度認めた加入をなしにするということは義理堅いキルシェには出来ない。

 そんな訳で、昨日の内に一件で違約金に相当する高額な任務を受けると、翌日の今日、早朝からトレノを出てこの地へとやって来たのだ。



「はは、気持ち良いだろー?」

「あ、はい。そうですね」


 川縁に立ち杖を持って居ない方の手で水に触れるだけのアルティアに対し、濡れることにお構いなしのシルヴァ。昨晩も仕事のあった彼女は狭い馬車内でずっと寝ていたおかげもあり、疲れなど微塵も見せないほどにはしゃいでいる。実際は二十歳だという大人びた容姿に反して、中身は意外と天真爛漫である。


「キルシェは行かないのか?」

「はあ、私がか?」


 唐突なハルトの言葉に振り向いたキルシェの眉間には皺が寄っている。


「ああ、小さい頃はお前もあんな風に川ではしゃいでただろ?」


 アウトドア派のキルシェは本当に活発で、嫌がるハルトをいろんな所に連れ回していた。


「確かにそうだが今と昔とは違う。私がシルヴァみたいにはしゃぐのはキャラじゃないだろ」


 後ろ歩きでゆっくりと進むキルシェの視線は浅瀬を歩くシルヴァに向けられる。幼馴染みのハルトからすれば、その瞳はどこか羨んでいるような感じがする。自分に素直に生きていられるシルヴァが輝いて見えるのだろうか。


「お前って良くも悪くも無駄に真面目だよな」

「なんだよ、無駄にって。私がつまらない人間とでも言いたいのか?」

「ああ、俺も相当つまらない人間というか、世界中の誰よりもつまらない奴だとは思うが、ずっと真面目なお前も相当つまらないと思うぞ」


 口を尖らすキルシェに、ハルトは騎士養成学校入学以来ずっと思っていたことを告げた。

 大魔法士の父の名を汚さない為か、一緒に王都に行った時からキルシェは気を張っており、羽目を外すことがなくなった。卒業しハルトが故郷に戻ってからもどうやらそのままのようで、今の真面目過ぎる性格が形成されたのだろう。


「ずいぶんな言いようだな。まあ確かに、お前の言う通り私は相当真面目だろうな。それは自覚してるよ。ただ、お前の手を引き一緒に駆けてた時の私はもう思い出せない。どんな気持ちではしゃげば良いのかなんてな……」

「別にそんなこといちいち思い出さなくても良いだろ」


 感傷的なキルシェの言葉をハルトはあっさりと斬り捨てる。


「はしゃぎ方を思い出せずとも、少しでもアイツ等と一緒にはしゃぎたいなら行けば良いじゃないか。鳥だって最初は飛び方を知らないが、チャレンジを重ねることで大空を舞うことが出来るようになるんだしな」

「ふん、私は雛鳥って訳か」

「ああ、最初から泳げる魚みたいなシルヴァとは違い、今のお前は騎士となることで遊び方を忘れ退化した雛鳥だよ」

「ふん、リハビリではなく一からまた始めるのか……。それも悪くないのかもな」


 淡々と告げられたハルトの厳しくもある言葉にキルシェは自嘲的に笑うと、


「ふぅ……ありがとな、少しは肩の荷が下りた。面倒くさがり屋なお前のお節介を無駄にしない為にも少しは気を抜いてみるよ」


 早速とシルヴァ達の方へと歩を進めた。

 話し掛けようともせずアルティアのように水に手を浸けるだけの姿はあまりにも不器用過ぎるが、ハルトが心配する必要はなかった。


「気持ち良いだろ?」


 満面の笑みで口を開いたシルヴァの助けもあり、アルティアとはまた別のベクトルで人見知りなキルシェも二人の会話に入ることが出来た。

 ハルト自身は自分の行いをお節介だとは思っていない。真面目過ぎるキルシェがピリピリした雰囲気を纏っていると自分に何かしらの弊害が振り掛かると経験から分かっているので致し方なく動いただけ。褒められる動機ではなかった。

 それから続いた女性陣にとっては楽しい時間だが、いつまでも遊んではいられない。

 主にシルヴァが騒ぎつつも着々と上流へと昇って行くと、左右に広がる緑が高くなり渓谷へと変わり始めた。


「――いつ来るか分からないから身構えておけよ」


 集会所で貰った地図に目を落としたキルシェは注意を促す。討伐依頼とあっても必ずしも先手を取れる訳ではない。目撃地域から離れているかも知れない対象は、ハルト達を見つけ次第襲って来ることだって有り得る。

 先頭を行くキルシェの指示によって、その後ろに並んで続くアルティアとシルヴァ、杖を手にした最後尾のハルトも気を引き締める。全員に遊び気分はなく完全に真剣モード。命を賭けた戦いとあってちゃんと切り替えが出来ている。

 渓流を上り始めて一時間ほど経過した頃。川岸に積み重なった岩を超え、ようやくと到着した場所。それは山水画にあるような綺麗な純風景。何段もの受け皿の重なった細い滝。滝壺に溢れるは桃色の花びら。一本の枝垂れ桜が滝を彩る、そんな場所だった。

 こんなにも美しい景色に出会うことなど二度とないかも知れないほどの一枚絵の世界。果たしてその主役は桜でも滝でもない。

 いや、その全てが主役なのだろう。

 滝壺の脇にある苔の生えた岩の上、今まさに身を起こした獣もまた主役なのだ。


「――来るぞ」


 キルシェに言われるよりも前に美しい景色から現実へと戻ったハルト達は辺りに散らばる。

 滝壺を構えた小さな池の前には石が積み重なった地面。足場の狭い空間の中心に剣を抜いたキルシェ。杖を強く握ったハルトは後ろへと退き、そのさらに後ろには服のどこかに忍ばせていた扇を両の手にそれぞれ持ったシルヴァ。

 アルティアと言えばもう〝それ〟に入っており、全く怖気づくことなくキルシェの傍で討伐対象を見上げている。

 サイにも劣らぬ巨躯の獣は、己のテリトリーへの侵入者にけたたましい雄叫びを上げた。

 三重に聞こえる三種類の叫び声。それはまさに奴の容姿を示している。立派なたてがみの雄々しいライオン。肩には鋭い二本の角を持ったヤギの首。激しくしなる尻尾はハルト達を激しく威嚇するヘビ。キマイラという三つの獣からなる魔国のモンスターだ。

 雄叫びに続きライオンの口から吐き出された炎の渦。自らへと向けられた炎をキルシェは両手で握った一本の剣で簡単に消し去った。

 牽制とも言える炎を防がれたキマイラ。その大きな口を開き嫌なほどに存在感を示す立派な牙を見せつけた奴は岩を蹴り、最前線のキルシェへと真っ直ぐに飛び掛かった。


「散れっ!」


 キルシェに代わり正面からぶつかりに行ったアルティア。地を蹴った彼女はお馴染みのセリフと共に鈍器と化した杖を奴の顔面へと叩き付けた。

 戦場へと木霊するキマイラの嗚咽。ゴブリンであれば一撃で殺せた打撃はしかし、強力なモンスターには通じない。地面に落とされながらも身じろぎ一つせず態勢を整えた奴は再び地を蹴り、着地しようとしていたアルティアへと鋭い鉤爪を伸ばした。

 阻止したのはハルトの放った魔法。杖から現れた太く鋭い十本もの氷の刃が奴を足止めした。

 ハルトの体を包む薄白い光。それはキルシェや狂戦士となったアルティアをも包んでいる。攻撃を仕掛ける三人の背後ではシルヴァが景色に映える舞を見せており、補助魔法が彼女を含むパーティ全体に掛かっている。

 前回の失敗もあり、ハルト達に掛けられたのは攻撃力と防御力に直結する肉体強化の魔法だけ。専門ではないハルトが一時的に使えるものとは違い、一分間は持続する強力なものだ。

 ただ、シルヴァ自身の魔力はアルティアにも劣るもので、踊ってから具現化するまでに時間が掛かる。その為にずっと舞い続けて効果の上塗りをしないといけない。いつ倒せるか分からないこういう強力な敵を相手にすれば、効力が切れた時に一撃を受ければ即死の可能性もあるからだ。


 岩の上へと戻ったキマイラ。最前線へと移動したアルティアへと放つのはライオンの口から吐き出される炎。キルシェを襲うのはヤギの角から生み出された雷撃。

 攻撃はそれだけに留まらない。鞭のようにしなったヘビの口から吐き出された紫色の禍々しい唾。確実に毒だろうそれはハルトを狙う。キマイラを相手にすればハルト達に数的有利などは存在しない。

 肉体を強化されていることもあり、あっさりと攻撃を弾いたアルティアとキルシェ。炎弾で蒸発させたハルト。前線の二人は再び向かって来るキマイラを迎え撃ち、ハルトは彼女達にぶつからないようタイミング良く氷や炎や風の刃を放つ。

 実力者である三人の連携は上手く、邪魔することなく互いをサポート出来ている。我を忘れたアルティアに二人が合わせているからこそ成立しているのだ。


 遠距離攻撃だけでは通用しないとキマイラは再び地面へと降り立った。今度はライオンの炎だけでなく牙や鉤爪を駆使し、ヤギや毒ヘビもハルト達に負けないほどの連携を見せる。

 肉体強化されてるとはいえハルトとキルシェは攻撃を受けないことを前提に戦っているが、


「散れっ! 散れ伏せっ! 散り失せろっ!」


 アルティアは避けることへの意識はほとんどない。嗚咽すら漏らさなくなった頑丈なキマイラへと攻撃を続けている。

 至近距離からの突進や炎を受けダメージを負うことも少なくないが全く問題はない。戦場を上手く俯瞰して見ることの出来ているシルヴァは、肉体強化に並行して治癒魔法を施している。

 直接キマイラを攻撃しないまでもシルヴァの活躍もあり優位に進めるハルト達。ダメージを与えた手応えがないだけに精神的に辛いが、このまま続ければゴリ押すことも出来るはずだ。

 そう、依頼書通り、あくまで敵が奴一体だけであればそうなったことだろう。

 シルヴァに強化された鈍重なアルティアの打撃、キルシェの剣撃、ハルトの魔法で足を引き摺り始めたキマイラ。

 もう少しで勝てるというところで事件は起きた。


「いやぁーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」


 岩に囲まれた上方から突然と落とされた女性の甲高い悲鳴。

 ハルト達だけでなくキマイラもまた手と足を止め声主を探した。

 わざわざ探す必要はなかった。キルシェとアルティア、そしてキマイラの眼前である戦場の中央へと落ちようとする声主。先に落下し彼女を両腕に受け止めたのは見覚えのある金髪優男の騎士――ブラウリオだった。

 もちろんその腕の中に居るのは金髪ウェーブのバネッサ。名家ガリバルディ家の令嬢はハルト達に嫌がらせをしている間に偽勇者一行の討伐に向かったのではなく、何故だかこの渓谷へと来ていた。あながちハルト達が苦戦するのを楽しみに盗み見ていたのだろう。

 だが、蓋を開けて見ればミイラ取りがミイラに。彼女達に次いで二体のキマイラが地上に舞い下りた。


「は、早く、お逃げなさいっ!」


 命令を受けたブラウリオは主人を抱えたまますぐさま下流へと走り出した。


「クソ、アイツ等め……」


 引き連れて来たバネッサ達を追うことなくこの場へと残っている二体のキマイラ。三体並んだ強敵と対峙したキルシェは舌打ちをした。

 バネッサ達が狙ったことだとは思えないが、敵の援軍により形勢は完全に逆転。一体で人間三人分の力を持つキマイラを三体同時に相手することは現実的ではない。


「一旦退くぞっ!」


 指示を出したキルシェは言い終える前にアルティアの首根っこを掴むと、強化された肉体でバネッサ達の後を追う。


「了解!」


 キルシェに答え続くシルヴァ。

 最後に残ったハルトは勢い良く杖を振るう。春いっぱいの景色に広がる冬の寒さを思わせる白い霧が現れるなり急激に広がりキマイラを包む。

 間発入れず再び振るった杖。加減を知らない魔法により滝の水は幾本もの鋭い刃へと変わり、キマイラ達を背後から襲った。

 ハルトはすぐさま反転し全力で走り出す。背後からはキマイラの苦しそうな嗚咽が何重にも重なって響く。

 どうやら少しは足止め出来たようだ。ハルトは霧が広がり掛けていた川を下り、仲間達の後を追った。



 障害物のない渓流を真っ直ぐに下って行くことは危険極まりない。アルティアを抱えた先頭の行くキルシェは途中で森へと入り、運良く見つけた洞窟へとハルト達は身を隠すことにした。


「はぁはぁ、奴等は私達を見失ったみたいだ」


 大きな入口の脇で森を観察していたシルヴァは洞窟の奥へと戻って来ると、息を整えながらに呟いた。ハルトの足止めのおかげもあり、一時的にでも難を逃れることが出来たみたいだ。


「はぁはぁ、そうか……はぁ、ホントアイツ等め……」


 微かに外の光が届いた洞窟の奥。狂戦士から目覚め眠ったアルティアを横たわらせたキルシェは改めてバネッサを非難する。

 依頼に反して他にもキマイラが生息していたとはいえ、最初の一体を倒し、その証拠となる証――今回はタテガミだと依頼書に書かれていた――を持って帰ることが出来てさえいれば任務を達成することは出来た。


「はぁ……違約金を求めるだけでなくこんな邪魔をしてくるとはな……」


 見に来ていただけで不可抗力であったとしても、結果的にこういう事態になっているのだからキルシェの怒りはもっともだ。

 果たして渓流を下っていたバネッサ達は今頃どうしてるのか。そのまま真っ直ぐに下ったのか。それとも同じように森に逃げ込んだのか。

 彼女達の安否が分からないからこそ、キルシェの文句はその二言だけで済んでいるのだろう。今はまた口を閉ざし、俯き息を整えている。


「うーん、このアルちゃんがあんな戦い方をするとはね」


 アルティアの戦い方、戦闘での変容ぶりを初めて見たシルヴァは、気持ちよさそうに眠るアルティアをまじまじと見つめている。


「本人はこのことを知らないから出来る限り秘密にしてくれ」

「え、知らないのか?」

「ああ、戦闘後の本人は無我夢中で戦いの記憶を失っているが、治癒魔法士としてやっていると信じ切っている」


 キルシェの説明を受けたシルヴァは納得したようで、


「だから四人目に治癒も出来る補助魔法士を求めた訳か。確かにアルちゃんはシスターだし、あんな戦い方をしてるなんて知ったらショックだろうね。まあ、この旅が終われば普通のシスターに戻る訳だし、一生知らない方がアルちゃんの為にもなるのか」


 十五歳という年齢以上に幼いアルティアの顔を優しく撫でた。彼女に対してキルシェもそうであるように、シルヴァもアルティアを妹のように思っているのだろう。

 本人はそうであろうが、シルヴァは妖艶な美しさを持っているので、見る人が見れば母娘にも見える。かくいうハルトもその一人だ。


「で、これからどうする?」


 洞窟の壁に背を預けて座っているハルトは二人の顔を順に見る。


「足を引き摺った奴が一体だけになるのを待つか? それとも無理矢理そいつ一体を倒すか?」

「うーん、任務を最優先に考えるなら一体になるのを待つのが良いだろう。群れている一体を狩れたとしても、どのみちタテガミを剥ぎ取らないといけないからな。ただ、キマイラが一体じゃないと知ってしまった以上、放っておくことも出来ないだろ」

「つまり、三体とも倒すと?」


 キルシェの言葉に嫌な顔を浮かべたハルトに代わりシルヴァが尋ねる。


「ああ。キマイラの存在が周辺に住む住民に脅威を与えてるから出された任務だ。王国の騎士である私が無視出来る訳ないだろ」

「はぁ、やっぱりか……」

「はは、さすがキルだ。そっちの方が面白そうだし私は乗ったよ」

「ふふ、ハルトと違ってシルヴァは意外と見所が有りそうだな」


 仲間として認めながらも、シルヴァと少し距離を置いているようだったキルシェ。そのシルヴァを見る雰囲気が穏やかなものに変わる。キマイラとの戦闘で補助魔法を受けたり、彼女の意外にもやる気ある意志に触れたりして、少しずつだが心を開いているのだろう。

 最初からハルトに拒否権はないのだが、行動的な二人に圧されて自然とキマイラ三体を討伐することに決まった。

 討伐したところでさらなる報酬を貰えるかも分からない追加任務。面倒なことをしたくないハルトは、これ以上キマイラが増えないことを心の中で祈っていた。


「アルティアも寝てることだし夜まで一旦休もうか。キマイラが昼行性であればそっちの方が奇襲し易いからな」

「そっか、それじゃあ時間も出来たことだし、今の内にキルとハルのことを教えてよ」

「え、私達のことか?」


 何の脈絡もないシルヴァの提案に目を丸くするキルシェ。

 一方のシルヴァは笑みを崩さない。


「うん、まだ仲間になったばかりでお互いのことを知らないからね、自己紹介みたいなもんだよ。そうだな、それじゃあ私の方から先に話すよ」


 一昨日の晩にハルトにそうしたように、強引に自分のペースへと持って行ったシルヴァは早速と楽しそうに語り始めた。

 彼女は遠縁に貴族を持つ裕福な家に生まれたという。両親はシルヴァを貴族と結婚させたいと小さい頃から躾けていたのだが、面白いことが大好きだという本人の性格は生まれ持ったもの。旅芸人一座を招いた際に目の前で披露された自分の知らない華やかな世界に惹かれ、十五歳となり結婚話が出始めた所で家を飛び出した。

 王都に向かっていた彼女は道中で別の旅芸人一座に出会い、熱い気持ちをぶつけて仲間に。三年ほど活躍した後に一座は解散となり、ロマノ王国各地を旅しているという。

 トレノでハルト達と出会うまでのその時々に起こったことを、途中で目覚めたアルティアも含めた三人に満面の笑みで楽しそうに教えてくれたシルヴァ。

 昨日は依頼書とのにらめっこやシルヴァに仕事があり――今日もあったのだが、バネッサのせいでこんなことになったので休むことに決めた――、往路の馬車でもずっと寝ていたので、それを取り戻すほどにいっぱい喋っていた。


 外からの光もなくなり、木々を集めて焚き火を起こしても会話は終わらない。

 シルヴァの人間味に触れたキルシェは彼女に応え、幼馴染みのハルトを含めた想い出を語り始めた。ハルトが彼女達父娘に振り回されたことや、学校で毎日のように起こったバネッサ撃退エピソード。そして、この偽勇者一行討伐の旅の流れなども。

 最後にはアルティアも自らの境遇を楽しそうに話してくれたことで、一気に距離の縮まった女性陣。外見年齢が離れているだけに、昔の職場が同じだった三人が集まって同窓会をやっているような朗らかな雰囲気だ。


 ハルトはその輪には入らず終始無言を貫いていた。ただ、決してその雰囲気を享受していない訳ではない。彼女達の話を純粋に楽しみ、たまに笑みも漏らしていた。

 キルシェだけでなくアルティアやシルヴァもハルトの様子に気付いており、巡らせる視線をハルトにも向けていた。彼女達もまたハルトの性格を理解し始め、それを認めているのだ。

 バネッサのせいで話し合いの場を持つことになったとはいえ、数時間前とは比べられないほどに深まった四人の絆。お互いを知り合うことで、このメンバーで旅を続けたいという意志がより固まった。

 それを実現させる為にも、目の前に置かれた三体のキマイラという脅威に敗れる訳にはいかない。四人で協力して打ち勝てた時にこそ、この話し合いが無駄にならなかったと証明される。


「もう陽も落ちたし、そろそろ勝負を着けに行こうか」


 話し合いと作戦会議も終わり静まった洞窟内。腰から外していた剣を手に立ち上がったキルシェは仲間達を順に見下ろした。


「そうだな、お腹もだいぶ減ったし早い内に終わらせたいな」

「そうですね、私達の方が限界に達する前に終わらせたいですね」


 シルヴァとアルティアはやる気に満ちた声で立ち上がる。


「まあ、こんな所で野宿もしたくないし、馬車で寝るのも嫌だからな」


 ハルトは相変わらずのだらけた調子で答えると、焚き火を消して出て行く三人の後を追う。

 キルシェ、アルティア、シルヴァにハルトという縦一直線の並び。カルガモの親のようなキルシェが入念に辺りを見回す様子に、付いて行く子達も真似するように辺りを見回し、ハルトは背後も確認する。

 幸か不幸か、暗闇の中にキマイラの姿はない。侵入者達を追うのを諦め自らのテリトリーに戻ったのか。それともバネッサ達を追って行ったのだろうか。


「ハルト、後ろはどうだ?」

「特に気になるものはないよ」


 小声ながらも最後尾のハルトにまでハッキリと聞こえたキルシェの言葉に、ハルトは呑気な調子で返す。


「そうか、とりあえずは最初の滝を目指そう」


 幼馴染みの単調なやり取りとキルシェの指示。ただそれだけのことなのに、緊張に満ちたアルティアとシルヴァにとっては安定剤となり、肩に掛かった重みが和らいだ。

 気が抜けた訳ではない。緊張感を持ちつつも心が落ち着き、体に無駄な力が入っていない。リラックスしていると言うのか、戦闘経験豊富な二人の平常心が余りにも心強く、狭まっていた視野が大きく広がった。


「やっぱりここに戻って来ていたか……」


 渓流を伝う道とは違い、森の中を遠回りして到着した滝口と同じ高さの崖の上。月明かりに照らされ別の趣のある桜の下の岩には一体のキマイラが両腕を枕に眠っている。その大きな巨躯は最初からここに居たハルト達と戦った獣だ。


「コイツが母親で、向こうに居たのが子供達という訳かな」


 木々に隠れじっくりと観察するキルシェに並んだシルヴァが漏らす。ここに来る前にもしかしたらと上流にある同規模の滝へと寄れば、一回り体の小さい二体のキマイラが眠っていた。侵入者の捜索を諦め自分達のテリトリーに戻ったのだろう。


「一気に勝負を着けないとまた奴等が来るだろうな」


 既に戦闘態勢に入ったキルシェは補足する。バネッサ達に引き連れられたのではなく、親の咆哮を聞き付け奴等は駆け付けていたのだ。下手に長引けば前回の二の舞になってしまう。


「ちょっと待っててくれ」


 林立する木々の中。かしこまったシルヴァはドレスのどこかから取り出した二つの扇を手にしている。

 静かに美しく舞い始めたシルヴァの補助魔法はすぐに四人の体を包み肉体を強化する。

 全身からみなぎる力。魔法に籠められずとも自然と昂る感情。このメンバーでなら勝てるという熱い想い。

 それが〝彼女〟を目覚めさせる合図となった。

 ハルトと同様に黙ってキマイラを監視し、仲間達の話を聞いていたアルティア。


「ふふ、散らす……」


 不気味な笑みを浮かべた彼女は既に狂戦士化。硬い地面を蹴り、捉えた獲物へと鈍器となった杖を向ける。

 再びの侵入者に目敏く気付き起き上がったキマイラ。奴は自らへと向かって来る攻撃を避けようとはせず、けたたましい雄叫びを上げた。

 子供達を呼ぶ為であり、アルティアを怯ませる咆哮はしかし彼女には通じない。


「散れえぇっーーーーーーー!」


 強化された体で大きく振りかぶり、光で覆われた杖を獅子の顔面へと叩き込んだ。

 崖の上のハルト達にも聞こえる鈍重な打撃音。前足を引き摺った獣はさすがに苦しそうな嗚咽を漏らすと、石の積み重なった地面へと逃げるように移動した。


「私等も行くぞ!」

「ああ、一気に終わらせる」


 舞い続けるシルヴァを横目にキルシェもまた飛び降り、ハルトは崖の上に残ったまま杖を奴へと振りかざす。具現化したのは幾つもの氷の刃。三十近い細くも鋭い氷柱は雨のように奴へと落下した。

 硬い表皮をも貫きキマイラの肉体から噴き上げる鮮血。

 さらに嗚咽を漏らしたライオンを助けようと、背後から追撃を仕掛けるアルティアをヤギの雷撃が制する。

 ヘビも毒唾でキルシェを止めようとするが、ハルトが次いで放った炎が毒を無効化。

 キルシェもまた落下した勢いのまま大きく振りかぶり、切っ先まで強化した刃を一閃。肩から不自然に生えたヤギの首を根元から切断した。

 悲鳴を漏らすことなく死んだヤギの頭部。これで残りはライオンとヘビだけだ。

 遠くから何度も響く何重もの雄叫び。徐々に大きくなる叫びは子供達が自分達も居るんだという侵入者への威嚇。

 しかし、そんなことなどお構いなしにその間にも消えるキマイラに宿った命。


「散れぇ失せぇっ!」


 ジャンプ一番、大きく振り下ろしたアルティアの杖は毒ヘビの頭を粉砕。重い斧を振り回すように体を反転させ、ライオンの横っ腹を殴打した。

 反撃することも出来ず苦しむばかりの奴の首へとキルシェが刃を突き刺すことで、キマイラはその重い体をゆっくりと地面に落とした。桜の木の下で眠っていたように両腕を枕に双眸を閉じているが、大量に溢れ出た血が眠っていないのだと証明していた。

 一方的に終わった戦いによりこれで残りは二体。


「あともう少しだな」


 崖の上で息を吐いたハルトに対し、未だに所狭しと舞い続けているシルヴァは軽い笑みを浮かべ呟いた。

 眼前に敵が居なくなったことで意識を失う可能性もあるのではと危惧したアルティアの狂戦士化。杞憂は無駄に終わったようで、返り血で赤く染まった修道服に身を通したアルティアは不気味な笑みを湛え、新たな敵が来るのを今か今かと待ち構えている。

 ヒーラーである彼女はバーサーカーの自分を全く覚えてないが、バーサーカーの彼女はヒーラーである自分が聞いた作戦を覚えているようだ。いや、咆え続ける二体の敵の声にただ興奮しているだけなのか。


 彼女の望みに応え、頭上へと同時に現れた二体のキマイラ。一回り大きな母親の死体を目にした奴等の怒りは一瞬で頂点に達し、世界の果てまで届くように一際大きな声で咆えた。

 奴等が矛先を向けたのは母の傍らに佇むキルシェとアルティア。同じ高さに居るハルト達に気付くことなく、目配せすることなく奴等はそれぞれへと真っ直ぐに飛び掛かる。

 その途中で放たれるのはライオンの炎、ヤギの雷、ヘビによる毒という三体同時攻撃。鏡に映したように二体ともに全力で母親の仇を討とうとしている。


 強化された体であっさりと避けた二人。奴等はそれでもどんどんと攻撃を仕掛けるが、我を忘れ怒りに支配された奴等の動きは大きく、伸ばした鉤爪だけでなく魔法すら当らない。兄弟同士ではもちろんのこと、一体の中でも連携はないからだ。

 手数が多くとも雑な攻撃を避けたアルティアは奴へとカウンターを入れ、一気に自分のペースへと持ち込んだ。

 キルシェは危ない賭けに出ずにずっと避けている。すぐに敵の動きに慣れたようで、タイミングを見て剣を入れている。

 経過は違えど、キマイラと同様に家族を失っているだけに奴等の気持ちは分かるが、ハルトは手を抜くことは出来ない。キルシェと対峙するキマイラに照準を合わせると、心の中で紡いだ剣をも超える太い十本もの氷の刃で背中をざっくりと貫いた。

 一度に全ての命を失い、キルシェの眼前で倒れたキマイラ。

 アルティアに一気に攻め立てられたキマイラもそれと同時に前足の両膝を突く。


「散れっ!」


 お決まりのセリフと共に振るった棍棒とも言える杖はキマイラの下がった頭を砕き、流れるように全てのトドメを刺した。


「ふぅ……」

「はぁはぁ……後味は良くないけど、これでようやく終わったね……」


 舞を止めたシルヴァは、溜め息を漏らしたハルトの隣に並び倒れた敵を見下ろした。

 皆の意志を代弁したシルヴァの言葉にハルトは小さく頷いた。

 地面にゆっくりと倒れ意識を失ったアルティアはおいておくとして、キルシェも息を整え心を落ち着かせるばかりで、勝利に喜ぶことはない。

 魔国から放たれたモンスターとは言え、狩る敵の心情をこんなにも伝わって来る討伐に良い気はしない。奴等もハルト達と変わらず感情を持った生き物なのだ。

 ハルト達は会話することなく淡々と依頼達成の証となる三体分のタテガミを剥ぎ取ると、キマイラ達を崖上の滝口の傍に家族一緒に埋めた。

 ここでなら一年を通して綺麗な世界を見渡すことが出来るだろう。


     ◇


 目覚めたアルティアを伴い休む間もなく川を下ると、小村で馬車を回収しすぐさまトレノを目指した。到着したのは日付が変わる直前。ホテルの地下にある酒場はまだ営業時間中という時だった。


「はぁはぁ、すみません、遅れました……」


 諦めていた今晩の出勤に間に合ったシルヴァは息も切れ切れにオーナーに頭を下げた。


「大丈夫だよ。シルヴァの出番は後に回したからね」


 地下ステージの奥にある控え室。綺麗に着飾った同僚達が見つめる中で行われた謝罪に、隠せんばかりの温厚な雰囲気を溢れ出す、六十歳を過ぎた黒い正装の老紳士は笑って答える。


「それよりもバネッサ様に命じられた違約金の方は大丈夫なのかい? あまり無理はしてはいけないよ」

「違約金はもう大丈夫です。遅れた理由は高額な討伐依頼に行ってたからで、それも無事に果たすことが出来たんで、明日集会所で報告したら払いに来ます」

「ほぉ、そうなのかい。ずいぶんと楽しそうに話すね。キルシェ様達と一緒に居るのは楽しいんだね」

「はい! すごい充実してます!」

「ふふ、そうかい」


 気遣う自らの言葉に答えるシルヴァの表情は今まで見た一番の輝き。心配する彼の心はほわっと温かくなり、また柔らかな笑みを浮かべた。

 シルヴァがここで働き始めてまだ一ヵ月半。ここで働く全ての踊り子達を娘のように思っている彼にとっては、短い期間であってもシルヴァはとても大切な娘の一人。そんな彼女が良い仲間に出会えたことが心から嬉しく、背中を押して上げたいと強く思った。


「違約金だけど、やっぱり払わなくても良いよ」


 だからこそ彼は主であるガリバルディ家の息女の命令を背くことに決めた。


「え、いや、明日になれば本当に払えるんで大丈夫ですよ」


 シルヴァはすぐに笑みを消し遠慮するのだが、一度決めた決定を彼は覆すつもりはない。


「いいや、それはシルヴァと仲間達とで命を懸けて手に入れた大切なお金だ。こんなつまらぬことに費やす必要はないよ。その代わりに、今日のオオトリとしてステージに立ってくれないかい」

「え……オオトリですか?」


 シルヴァは驚きを隠さない。彼女達の話に聞き耳を立てる者達もまた目を見開き、口を呆然と開けている。

 それもそのはずだ。踊り子として経験豊富で、この酒場でも一番の人気者だとは言え、短期契約ですぐに辞めて行くだろう彼女がオオトリになったことはない。古参との兼ね合いもあり、せいぜい前半のトリが良い所。その提案は誰にとっても青天の霹靂だった。


「ああ、オオトリとしてのシルヴァの最高の演技を私やお客様に披露しておくれ。それが私にとって何よりも幸せなことだ」


 そう言うオーナーの表情も夏の太陽のように燦々ととても輝いている。


「分かりました。オーナーが私を手放すのが惜しいと思うほどの最高の演技を見せます!」


 彼のことを本当の父親のように慕っているシルヴァは強く頷く。彼に見せる最後であり最高の演技をいつまでもその瞼の裏に焼き付けたい。

 シルヴァは強い想いを胸にステージの準備をしに離れる。


 ――シルヴァを手放したくないとはもう思っているよ……。


 嬉しさと寂しさの同居する笑みで彼女の背中を見送る老紳士は、声にはならない声で自分の想いを口にした。


     ◇


 シルヴァの最後のステージにより、深夜でありながらも大盛り上がりを見せるトレノの一角。

 結果的にそれを演出することになった彼女はそれを知ることもなく、暗い森の中を彷徨っていた。


「ブラウリオっ! いつになったら森から出られますのよっ!?」

「申し訳ございませんお嬢様、僕が方向音痴なばかりに……」


 主人であるバネッサのキツイ言葉に、ブラウリオは彼女の目を見ることが出来ない。

 キルシェ達に負わせた任務を観察する為に隠れて付いて来たバネッサとブラウリオ。彼女達は不幸にも二体のキマイラに襲われ掛け、森の中を逃げ回っている内に完全に迷ってしまったのだ。

 幸いにも肉食の獣に遭遇することのない彼女達は魔法で飛び上がったり、崖から辺りを見回したりしているのだが、逃げている内に方向感覚を失い、どこが出口なのか全く分からない。

 どちらか一人でも方向音痴でなければまだ救いはあるのだが、


「今度はあっちに行きますわよっ!」

「あ、お嬢様、そちらは先ほども行った所です。木に目印を付けあります」

「だったらこっちに行くわよ!」

「あ、いや、そちらにも目印が……」

「だったらどこに向かえば良いのよっ!?」

「いや、僕にもそれは……」


 互いに方向音痴であり、いつまで経っても森から出ることは叶わない。


「もう! それじゃあこっちに行きますわよ!」


 全てが同じ木にしか見えないバネッサは役に立たない従者に苛立ちを覚え、自分の思うままに進んで行く。


「あ、お嬢様待って下さい!」


 その背中をただひたすら追い掛けて行くブラウリオ。

 方向音痴の二人のこんな体たらくはいつまでも続き、結局彼女達が森を出たのは三日後のこと。キルシェ達に与えた嫌がらせに見合う罰を受けてからだった。


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