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第一章[7]


 ハッと目を開いて、辺りを見回す。

 灯りのない部屋。窓から差し込む月影は青く、絨毯にくっきりと窓の形を落とす。

 自分の他は誰もいない部屋。廊下の外にも人の気配は感じられない。それなら、あの歌声は……。

(夢、か……)

 いつの間にかうたた寝をしていたらしい。こんな時に寝てしまうなんて、と我ながら呆れてしまう。いや、むしろこの豪胆さが自分の持ち味なのだ。そう思うことにして、物音を立てないように椅子から立ち上がった。

(また、あの夢か……)

 今となっては淡い輪郭しか思い出せない、儚い夢。繰り返し見るその夢は、目覚めたが最後、まるで砂漠にかかる蜃気楼のように消え失せてしまう。

(まあ、いい。夢は夢だ)

 それよりも今は、これから成すべき「仕事」に意識を集中させなければ。

 書き物机を離れ、月明かりに己の姿を晒して今一度装備を確かめる。念入りな点検を終えたところで、はたと机の上に肝心のものを置き忘れていることに気づいた。

(いけない、いけない……)

 そっと手を伸ばし、机の上から一枚の紙切れを取り上げる。上質な紙に濃紺の墨で認められた文章。もう一度文面を確認し、そっとそれを服隠しにしまい込んで、準備完了。あとは、合図を待つだけだ。

 足音を殺して窓辺に立ち、外を窺う。高い塔の上から見下ろす地上は、夜の海を連想させた。鬱蒼と生い茂る木々は黒い影となり、風に揺れる梢のざわめきがまるで波音のように響いてくる。

 ――と。その林の一点に、ぽぉ、と淡い光が灯った。一度、二度、少し間をおいて三度。

 合図だ。

 寝台の脚にくくりつけておいた縄を窓の外に放り投げ、それを握り締めて窓の外へと足を踏み出す。

 慣れた足取りで壁を蹴り、二階部分の窓枠まで一気に降りていく。そこからは壁の取っ掛かりを伝って、あっという間に地上へと降り立った。

 遠くに篝火が見える。そのそばに立つ見張りの兵士に気取られないよう、足音を殺して素早く林の中に身を投じる。するとそこに、合図をくれた人物が神妙な面持ちで待ち構えていた。

「……準備はよろしいですか?」

 囁く声は、聞き慣れた女声。寝巻き姿に髪を下ろしていても、彼女を見間違えるわけはない。物心ついた時からそばにいてくれた彼女のことを、ただ一人の親友とも、また姉とも思い慕っている。

「いつもすまない」

 小さい声で言うと、彼女はいいえ、と穏やかに首を横に振った。

「もう、文句を言う気も失せました」

 あけすけにこんなことを言ってくれるのは彼女だけだった。だからこそ、彼女を協力者に選んだ。最初は猛反対されたが、熱心な説得にとうとう折れて、こうして手を貸してくれている。下手をすれば自分の立場すら危ういと言うのに、ありがたいことだった。

「お帰りの時間を間違えないように」

「分かってる」

 そう言って無意識に、左手首を探る。そこに嵌められている腕輪からは、ごくかすかな音が響いていた。律動的なその音に、いつしか胸の鼓動が重なる。

(焦るな……! 大丈夫、今夜もうまく行く)

 そう自分に言い聞かせ、ぐっとこぶしを握り締める。そんな様子を見守っていた彼女は、小さく頷いてみせた。

「お気をつけて」

「ああ。それでは、行って来る」

 そう答え、小さな人影は音もなく走り出す。すぐにそれは木々の影に紛れ、やがて見えなくなった。

 密かにそれを見送ったもう一つの人影は、角灯を手に寝巻きの裾を翻した。急がなければ、もうすぐ巡回の者がやってくる時刻だ。

「……何卒、お気をつけて……」

 小さく呟いて、彼女もまた闇の中へと消えていった。


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