BIV――あるいは安楽死の過程における一瞬の恋について
私が最初に聞いたのは、窓を開ける音、吹き込む風の声、体に響く家族の足音。
私が最初に見たものは、大きな手の平、節ある五指、爪の桜色。
今となってはただの記憶に過ぎませんが、それは確かに、そうでありました。
祖母は私を一人で大学へやってくださいました。
入学式の日体調が悪かった祖母は、私の初めてのスーツを誉めてから一言、ごめんねとおっしゃいました。とんでもないと私が言うと、ありがとうと微笑みました。
黒いパンプスは少し大きく、歩幅に気を使わなければなりませんでしたが、人の群れの中、歩く私は晴れ晴れしく胸を反らせていたのではないでしょうか。
あの日身につけていたもの全てが、私にはとても誇らしかったのですから。
殊に、花をあしらった可愛らしいネックレスは、祖母が私を驚かせようと、今朝まで買ったことを秘密にしていたものです。愛らしいピンクの宝石が胸元で揺れる度、私の肺は喜びで破裂しそうになったものです。
どんなにか幸せな日々だったでしょうか。ええ先生、ただひとつの後悔もありません。貴方の眉がそんな形になる理由を、私はかけらも思いつきません。
知られた途端消え失せるものを、貴方は夢と名付けたのですか。違います、先生。知られてなくなるのは隠し事、醒めた夢は記憶と呼びます。
記憶に番号をふることは出来ませんが、今私が思い付いた順に語りますね。彩度三番、弟の記憶。
ああ、そんな顔をなさらないで下さい。彼と私が違う生き物であることは、何の暗闇でもありませんよ。私は幸福であったし、彼はこれからも幸福である、ただそれだけの違いを、貴方はどうして不幸と思うのですか。
彼の手はとても小さく、もみじのようでありました。ふわふわのそれをちょいと突くと、彼は指の五本を使い、私の小指を握りしめました。
そのなんと、温かいこと。
ベビーベッドには見覚えがありました。私がかつて横たわっていたものでした。薫るような白木の柵が、彼を包んで眠らせていました。
両親が死んでしまったときも、彼はそんな風に眠っていましたね。ただ寝返りを一度打ったとき、何も分からないはずの瞳から涙がこぼれた気がしたのは、私の勘違いというより、先生の思いやりでしょうか。いえ、教えてくださらなくて結構です。
なぜ両親を消したのかも。いいです。言わないで下さい。分かっています。教えてくれたのでしょう? 私の夢が捨てられたこと。
どうか、黙っていてください。祖母のことも。
私の記憶の中で、彼女は生きていた。彼らは死んでいた。弟は可愛かった。
それで十分です。
本当に十分です。
・
母親が最初に見たのは、クリーム色の壁紙、飾り気のない机、白衣の裾。
父親が最初に見たのは、立つ白衣の男、そばにいる看護師の女、窓の外の雲。
二人が暗い顔で腰掛けたパイプ椅子は、きしりとも鳴りませんでした。
どうすることもできないのだということを説明したあと、医者はため息を飲み込みました。飲み込まなくてもきっと、母親の嗚咽に紛れてしまったでしょうが、彼は下がった眼鏡を上げて、自分の手をじっと見つめました。
「夢想管をご存知ですか」
父親は、首を縦に振りました。じっと見ていないと分からないほど、微かな動きでした。
「娘に、夢を?」
空気がゆったり移動して、父親の言葉を伝えました。看護師はとがめるような表情を医者に向けましたが、医者は彼女を見ませんでした。
・
夏祭りは、好きになった人との大切な思い出です。指を絡めて人込みを渡る、私達はまるで魚のようだ、なんて考えたり。あの人の指先は冷たかった。足に纏わる浴衣は柔らかかった。
鼻緒で皮が剥けたこと、あの人は心配してくれました。コンビニで絆創膏を買ってきて、三枚も貼ってくれた。足の指がとてもくすぐったくて、恥ずかしくて、私は何となく息をとめて俯いていました。
思えば、先生。あの人、ちょっと先生に似ている気がします。先生みたいなおじさんじゃないけど。
……ごめんなさい。冗談です、怒らないで。
先生。ねえ先生、謝らないで下さい。
神経の一本一本まで、ああ、貴方に感謝せねばならぬようです。こうしてお礼申し上げることが出来て、本当に良かったと思います。
二回、ですね。私は貴方に助けられた。夢想管の維持は大変なんでしょう? お父さんお母さんも諦めたっていうのに、貴方は何の得にもならないことを、ずっと、ずっと、私が大人になるまで、続けてくれたのでしょう?
夢想管の中がどんな風だか、知っていますか。
何もかもが優しいんです。何もかもが鮮やかだ。全ての情報が直接的刺激という、それがどんなに素晴らしい状態か分かります?
私と事物の間に介在するものはなく、瞬きごとに更新される世界はひたすら美しい。どこもかしこも、そこらじゅう、地べたにも空にも、命の気配がする。知恵、労力、試行錯誤、息切れ、足元の歴史。色の全ては世界の努力だ。
先生の努力、って言ったほうが、正しいですか?
夢想管の中で、私を私たらしめているのは、私でなく世界なんです。
外側の人の書いた本で読んだことがあります。自分を信じることでしか世界を信じられないことが、先生達にはあると。
外の人は、眠っているのですか。夢でも見ているつもりで、生きているのですか。
先生、先生の世界は、綺麗ですか。生きていますか。目を開けていますか。
・
医者は言いました。
「娘さんに、生きていてほしいですか。自分達のためだけでなく、彼女のために、彼女の人生があってほしいですか」
どういう意味かと、父親は尋ねました。
「よく勘違いする人がいるんです。夢想管は、人を蘇らせる装置じゃない。ただ脳に、生きている夢を与え続けるだけの装置です」
母親が顔を上げました。頬に涙の跡がこびりついています。父親は彼女の肩を抱き寄せました。
「したがって」
医者は眉を寄せて、二人を見つめました。
「貴方がたの生活の中に娘さんは現れてこない。貴方がたの痛みは癒えない。お金だけがかかる。彼女の見ている夢を横からモニターで盗み見て、それだけです」
「娘の姿を見れるのですか」
「夢想管の中で、彼女が鏡を見たら」
母親の叫びに、医者が答えました。狭い部屋の中で、甲高い声はぐわんぐわんと反響しました。
「娘の声は」
「聞こえます。ただそれは、本来の彼女のものではない」
「構いません」
父親が、「おい」と、母親を止めようとしました。
「だめだ。そんなのは、命じゃない。人生じゃない。このまま、人間のまま終わったほうが、娘のためじゃないか」
「1年もない人生が何だって言うんです!」
顔を覆って、母親はまた泣き出しました。父親は苦い顔をしました。
考える時間はあるか。
ありません。
娘はそれで、幸せになるのか。
分かりません。
「ただ」
医者は言いました。
「夢想管は、こう言われています。『世界で一番幸せな安楽死』と」
・
ありがとうございます。先生、ありがとうございます。こんな可愛い声にしてくれて、ありがとうございます。こんな綺麗な髪にしてくれて、ありがとうございます。顔を両親に似せてくれて、ありがとうございます。可愛い弟を、ありがとうございます。
20歳の誕生日に届いた、ケーキとプレゼントの意味がやっと分かりました。
あのケーキ、おいしかったです。祖母と弟と、三人で食べました。おいしかったです。本当においしかった。ごちそうさまでした。ありがとうございました。
貴方にいただいた目覚まし時計、やっと本当に使えますね。鳴らしてもらっていいですか。
でも先生、あれ一つではきっと足りない。全然足りない。
世界中の時計を、一斉に鳴らしてください。思い切り大きな音を鳴らしてください。
それでも私の目が覚めるかどうか分からない。
先生。分からないんです、先生。
ここが本当に夢想管の中なのか、分からないんです。
むしろ私が外側なのではないか?
眠っているみたいに鈍感な人々——私はそれを、本を頼りにしか知ることができませんが——あの人たちの方が、もっとずっと重症で、夢を見ているのではないか?
怖いです。
私は間違いなく幸せで、不幸だと感じたことがない。悲しいや寂しいはあったけれど、不幸はない。先生が優しかったからですね。
夢想管の夢に欠陥があるとすれば、それが唯一で最大のものだと思います。
……そうですね。
貴方達が夢を見ているはずがありませんでした。
不幸せなことを考えられる貴方達が、私以上にリアルでないわけがありませんでした。
・
切らないんですか、と看護師が言いました。彼女の顔は尖っていました。
いや、と医者が言いました。彼の顔は濁っていました。
「でも、ご両親は『彼女』の廃棄を要請しました」
医者は、今度はためらわずため息をつきました。
「弟が生まれたらしいね。おめでたいことだ」
「だったらもうこれ以上、夢を続ける必要はないでしょう。」
「そうだね」
看護師が口を開きました。何か言いかけて、やっぱり言うのをやめました。
それから今度は、最初と別の形の口で、こう言いました。
「愛してるんですか」
医者は黙っていました。ずっとずっと、黙っていました。
・
先生、じゃあ、そろそろ。
お願いします。目覚まし時計を鳴らしてください。
さっきは、全部鳴らしてって言っちゃいましたが。一つだけでいいです。先生にもらった、一つだけで。
最後の言葉、何にしようかな。何がいいかな。
ありがとうございました。じゃ、ちょっと、芸がない気もしますね。
……決めた。決めましたよ。
それじゃあ言うので、言ったら、さようならです。恥ずかしいので、間髪入れずにお願いしますね。
「先生のこと、好き」
――switch off.