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興国の階(2)

 自分のことを師匠と呼んでいる、最近拾った少年が、中途半端に遅れて追いかけてきた。なんだかやたら必死な顔をしていたので、ヴァートはわざと呆れた顔で迎え入れた。

「どうして君が、そんな泣きそうな顔をしているんだか」

 ヴァートの第一声に、ツァイはあわあわと弁解しようとしたらしい……けれど、あまり言葉がぽんぽん出てくるタイプではない彼は、口を開いて、閉じて、唸っただけだった。

「意味がわかりませんよ」

「ぼくは! あんたを手伝おうと!」

「おかしいですね」

 ヴァートはひとつしか歳の違わない弟子から目をそらし、資料集めを再開した。

「僕は君に、技師の皆さんの手伝いをするよう言ったはずですが?」

「わかってるけど」

「しかも君が聞いてきたはずですよね、どうすればいいかって」

「あ、ああ……」

 ヴァートは資料をぴらぴらめくっている。

 風車と羽の枚数の関係を考察した資料は、まだ明確な結論に辿り着いていないから、持って行ったほうがいいかな、とか。

「技師の皆さんは避難しましたか」

「あ、はい」

 ツァイが初めてはっきり返事をした。彼らを見送ってきたから遅かったのかな、と頭の隅で思う。

 風車と連結する水路の資料は、あったほうがいいだろうか、とか。

 そうだな、これは必要かもしれない。

 頭の中にはすべて入っているけれど、いちいち書き起こすとなると骨だ。

「師匠!」

「……なんですか」

「ぼくも手伝う! なにをしたらいい?」

「どういう気合いだか知りませんが、少し静かにしてください。僕はいま、忙しいんです」

 なんだか頭に血が上っていそうなツァイに、ヴァートは努めていつも通りの口調で答える。

 急いでいるのは、事実だ。

 もう誰もが避難していることだろう。残っているのは自分たちだけかもしれない。

「う……はい」

 きっとツァイの目には、ヴァートはいつもどおりに映っているだろう。そう振舞っているのだから、そうでなくては困る。

 振舞うことで、自分自身をも騙しているのだ。

 このヴァート・エメルダが、なにを前にして焦るというのか。黄昏の女神にそそのかされたって、動じるわけにはいかないのだ。

「大丈夫ですよ」

 その声はツァイに向けて。そして、自分に向けて。

「僕はこんなところでくじけませんし」

 言って聞かせる。言い聞かせる。

「諦めませんし」

 そうだ、一体なにを諦めることがあるというのだ。

 自分がいるのに、なにが出来ないというのだ。

「それにいまのところ、この状況で、君を見捨てるつもりはありません」

 ちらりと目をやれば、自称弟子は明らかにほっとした表情をした。なのでいつものわざと作った、めっ、という睨み顔で、ほとんど視線の高さの変わらない相手にくぎを刺す。

「いまのところ、ですよ、言っておきますが」

 一瞬、う、と詰まったようにツァイは息をとめたが、冗談だと思ったのか、いや思おうとしたのか、すぐに頷いた。

 あまりそんな彼の相手に時間も割けず、ヴァートは資料の仕訳に戻る。

 すべて置いて行こうと一瞬でも思った自分が不思議なくらい、いまはこの資料が惜しい。

 少し考えれば当たり前だ。ここにあるのはすべて、ヴァートが王都の研究所で作成したものだ。無駄なものなんて一片もありはしない。

「ツァイ、そっちの棚の上に……あ、そこではなくて、ええ、そちらに。包みになるものがあるでしょう。ええ、それ、全部取ってください」

 資料を整えながら弟子に頼みごとをする。重要なもの、貴重なものは自分がよくわかっている。だから、大丈夫。

「さあ、出来ました。手伝ってくれるのですよね」

「ああ!」

「じゃあちょっと重いかもしれませんが、これを運んでくれますよね」

「わかった」

 ツァイなりに予想通りだったのか、彼に持ってもらおうと用意した資料の包みを、彼はさっと両腕で抱きかかえた。

「て、君が先に持ってしまうと、扉を開けるのは僕の仕事になるんですね」

「えっ! あっ!」

 焦ったツァイに苦笑して、ヴァートが扉に向かおうとした、そのとき、見計らったように扉が向こうから開いた。

 ぎょっとするツァイに、でもヴァートはおや、と思うだけで、資料に手を伸ばした。それから入ってきた闇色の人物に微笑みかける。

「良かった、来てくださったんですね。これは少し、手伝ってもらえるのでしょうか」

 期待を込めて声をかければ、彼女は静かに頷きすたすたと入ってきた。

 目を丸くしてるツァイの横を通り過ぎ、机の上に残っていた最後の荷を抱える。

「それでは行きましょう」

 ヴァートが歩き出すと、彼女とツァイも後ろをついてきた。

 一見奇妙な一行が建物を出て、そして町の避難所に向かったころ、町の人々はすでに森から遠いほうへと移動を始めており、三人は避難するというよりも人々を追いかけていくようなものだった。

 そして火の手は、そんな三人の後ろ、フィンダイの町のすぐそばまで、迫ってきていた。

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