進級
四月になって、クラス替えがあった。
音大、に行くつもりは無いけど。父さんがいつだったか言っていたように、”音”の勉強をするなら数学は必須みたいで。だからといって、国公立理系を目指す理数系クラスを選択するほどの成績は無いので、数学重視の文系コースを選んだ。
由梨は、生物重視の理数系って選択らしく。この年から、クラスが離れた。
軽音部にも一年生が三人入ってきて、入れ替わるように俺たちの学年の、ベースとギターが一人ずつ部活を辞めた。
今年の一年は完全に初心者ばっかりで、指導なんてものを初めてやった。
やったのはいいけど。自分でも教えるセンスが無いのを実感する。将来、音楽を教えるって進路は無しだなって、早々に見切りをつけたくなる。
放課後の練習は、そんな自分にイライラしつつ、進まない指導に手をとられるから、自分の練習に使える時間が満足に取れない。自宅での練習と音楽室での”朝練”で、なんとか補っている状態。
由梨にいつだったか、『自分の部活はどうなっているのよ』って言われたけど。
少しずつ始めた、ジン達との練習のほうが数倍楽しい。
このままでは、うちの部の文化祭はどうなるんだろ。
音楽の吉村先生にOKを貰って、ジンたちとの練習も朝の音楽室でやらせてもらえるようになったのがゴールデンウィークがあけた頃。リョウも音楽を選択授業でとっていたおかげで、話はすんなりとついた。
音楽室にキーボードを持ち込むわけにいかなかったので、グランドピアノを使って、って変則的な練習だったけど。
ジンが日直で一足先に教室に戻ったある日。
「ピアノって弾いてて、指疲れないか?」
練習を終えて教室へ向かいながら尋ねると、リョウは
「俺、もともとピアノだから。キーボードのほうが鍵盤が軽すぎて」
「ああ、だから」
「なに?」
「いや、打鍵のパワーが違うなって」
「違うか?」
「俺には、あのボリュームは出せない」
ピアノにはアンプが無いのに、フォルテのときの音といったら……。
俺がピアノであの音量を出したら、途中で腕も指も疲れて弾けなくなるだろう。電子オルガンは、ボリュームペダルがついてたし。
「マサって鍵盤もやるのか?」
「むかーしな。小学校の頃は、電子オルガンをしてた」
「あー。”シーマイナー”とかって勉強してたんだ」
あれは俺にはよく分からん、って言いながら、リョウは三連符のリズムで小走りに階段を下りる。
「そうか? たいしたこと無いけど」
「俺にとっちゃ、ドミソはドミソだろって。いちいち和音に名前があるのが理解できねぇ」
リョウは五線の上の音符の並び方で、反射的に手が動くらしい。だから、楽譜に書いてあるコードは意識から締め出してるって。
俺は、コードを見るほうが早いから、五線譜はメロディーしか見てないこともあるな。
同じ楽譜を見ながら弾いていても、アプローチって違うもんだなって、二人で笑いながら予鈴の鳴り響く渡り廊下を走った。
そして、今年も水泳の授業が始まった。
体育の授業は二クラスが合同で行われる。四組の由梨は三組、六組の俺は五組と。
クラスが離れた時点で分かっていたことだけど。
俺の見ていないところで、彼女が水着姿になるんだって思うと、一緒の時間の男子全員の目をふさいで回りたくなる。
多分、去年の俺たちみたいな目で見る奴、出てくるよなって。四組は女子が多いけど、理数系クラスの三組は限りなく男子クラスに近いし。
あー。何で俺、理数系クラスにしなかったんだろ。
悶々としている俺のことなんかお構いなしに、水泳の授業のあとの濡れ髪で廊下を歩いている由梨。
いつものポニーテールを解いて、肩にスポーツタオルをかけて。特に、火曜日は四時間目が体育らしく、そのままの格好で昼休みに友達とパックジュースを飲んでいたりする。
「おい、あれ、誰?」
「男バレのマネージャーだろ」
「高校生、じゃ無いだろ。いろっぺー」
「ばーか。二組の山岸の女だってよ」
「マジ? じゃぁ、無理だな」
「無理無理。勝負になんねぇって」
コソコソと交わされる、男子の密談を小耳に挟む。
はぁ? リョウの彼女?
いつの間に?
「リョウ、由梨と付き合ってる?」
居ても立ってもいられなくって、翌朝の練習のときにリョウに尋ねる。自分でも、目つきがおかしい自覚がある。
「何で、俺がゆりと」
唖然、って顔でピアノの蓋を開けていたリョウが俺のほうを見る。
「なんか、そんな噂が……」
「噂は、噂」
鍵盤のカバー布を丁寧に畳みながら、リョウはそう言って、ちょっと考えるようにした。
「ジンが来るのを待つ間に、ちょっとだけ。恥ずかしい話、するな」
そう、前置きをしてピアノに体を預けたリョウは、他校に好きな子が居るって言い出した。
「中学の同級生でさ。卒業前に喧嘩別れ、みたいな感じで、もう話もできないかもしれないけど。まだ、俺は思い出にできてないから。そんな状態で、マサの前からゆりを掠め取るようなこと、するかよ」
「そう、か」
「俺、今は恋愛ごとより、ジンの声を多くの人に聞いてもらうほうが大事だし。そのために、マサの腕は絶対必要だし」
「……」
「な、ちょっと夢みたいなこと、言うけど。マサ、将来プロになる気、あるのか?」
また、えらく話が飛んだ。
「プロって言うか、音楽で飯食えたらいいな、とは思ってる」
むしろ、音楽でしか飯、食えない気がしてるって言うか。由梨の言う、音楽馬鹿だし。
「ジンの声ってさ。このままにしたら惜しいだろ? あれは世に出なきゃって」
「まぁな」
俺がギタリストになるより、ジンがヴォーカリストになるほうが、”ありえる”って思う。
ガラガラっと、音楽室の戸が開く
「悪い、待たせた」
肩で息をしているジンの姿を見て
「じゃ、はじめようか」
リョウが、『この話はここでおしまい』と目で言いながら、ピアノの椅子に座った。
指導していた一年のギターが、何とかコードを弾けるようになって。文化祭の要綱が発表になる頃には、部活動の先行きもちょっと見えてきた。
今年は、二年の五人で一組って大所帯になりそう。ボーカル二人のうち、去年俺と組んだほうが春からギターに転向していたから、ツインギターってことで。うん、歌うよりマシじゃないかな?
一年生は、三年生との混成で。三年生も、受験を前に何人か辞めたし。一年生だけじゃ形にならないからって。
「中尾、今年の野外ステージはどうするんだ?」
部活の休憩中に、黒木が話しかけてくる。
「ジンたちと、組む」
「ああ、去年一番人気だったって奴か」
「うん」
野外ステージのあとで行われる、人気投票。上級生を抑えてぶっちぎりのトップが”ジンとリョウ”の二人だった。だから今年は、彼らが出るなら二年のトリになることが既に決まっている。
「そうかぁ。あそこに取られたら、文句は言えないな」
「なんだ、それ」
「いやー。俺、今年はどうしようかなって」
トイレ、行こうぜって言う黒木に引きずられるように、部室を後にする。
「みんな、今年はステージに出る気、無いみたいでさ」
「なんで、また」
「おまえと組んでいた部長たちより、ジンたちのほうが投票結果、上だったじゃん? そんなうまい奴と一緒に比べられるのが嫌なんだって」
「なんだ、それ」
わけ、わからん。
上手くなれるように、練習すりゃ良いだけだろ?
事あるごとに、『ホント、音楽馬鹿なんだから』って由梨に言われる俺の練習量が異常なのは置いておいても。リョウたちは今、この時間バレーやってるんだぜ? 一年生のうちに、レギュラー取るレベルで。
なんだかなぁ、って気持ちで手を洗う俺の横で、
「俺もやっぱ、今年はパス、かなぁ」
黒木がボソッとつぶやく。
「誰かに声かけて一緒にやればいいんじゃないのか?」
「えー。俺ってほら、シャイだから」
「はぁ?」
左手を耳に添えながら聞き返してやると、笑って濡れた手を俺のワイシャツで拭いてくる。
「おまっ、きったねぇ」
「洗ったから、汚くねぇって」
「いや、汚い」
二人で、わーわー騒ぎながら部室に戻る。
休憩は終わり。
さて、練習。
この日も部活の後は図書室で宿題をしながら少し時間をつぶして。司書の先生に追い出されるかたちで、下校時刻間近の部室棟へ向かう。
こうやって、何度も顔を出している間にバレー部の連中とも仲良くなった。うーん。性格的に俺、実は運動部のほうが向いていたのかなって、時々思うこともある。
目標に向かって力を合わせて『がんばるぞー、オー』って。結構、好きかもしれない。いや、水泳って個人競技だったけど。
そういう意味では、今の軽音部、居心地が悪いんだよな。
まぁ、練習場所を確保するための手段って、割り切るか。楽器触っていたら満足な、音楽馬鹿だし。
帰り道、駅前でバレー部の面々とは別れて。俺は由梨と二人でバスに乗る。終点まで乗ったら、今度は電車に乗り換えて。由梨の最寄り駅から、さらに三つほど向こうの駅が俺の降りる駅。結構遠いよなって思っていたら、ジンなんて市境を越えて笠嶺市から通っているらしい。さすが、全県学区の英語コース。
「文化祭の準備、すすんでる?」
席は埋まっているけど立っている乗客はまばらって感じに、微妙に混んでいるバスのつり革につかまって、由梨が尋ねる。
「まあ、ぼちぼちかな」
部活も、ジンたちとも。
「練習なんかも、してるの」
「当たり前だろ。ぶっつけ本番なんて、ゆうりちゃんじゃあるまいし」
むっとした表情が返ってくる。
おお。怒ってる怒ってる。
「怒るなよ」
「怒るわよ。大体、誰のせいで」
『音楽が出来なくなった』って、か。
「俺だって言いたいんだろ? 俺が何したよ?」
「まっくんが上手すぎるのが、悪い」
「お前……それ、完全に言いがかりだろう」
苦笑交じりに言うと、いつものように睨み付けてくる。
最近じゃ、そんな表情すら愛おしいものに思えてきた。
だって。バレー部の誰にもそんな表情をして見せないんだから。これは、俺だけに見せてくれているって思えば、特別扱いみたいで。
それに……いつの間にか、由梨が『まっくん』って、昔のように俺のことを呼ぶようになったし
「はいはい。わかったよ。俺が悪うございました」
降参。重症だよ。
そんな俺に、由梨は
「わかればいいのよ」
ふん、と腰に両手を当てて威張って見せる。
つり革から彼女が手を離したタイミングを狙ったように、バスが急にブレーキをかけた。
よろけて、たたらを踏む由梨にとっさに手を伸ばす。
右手につり革。左手に彼女の肩を抱き込む。ポニーテールの毛先が半袖の腕を撫でて、彼女の体重が腕にかかる。
なんだ、これ。
女の子って、こんなに軽いんだ。
女の子って、こんなに細い肩、してるんだ。
「大丈夫か? 由梨」
一瞬、奔った動悸を押し殺して、声をかける。
「ウン。アリガト」
片言で返ってくる返事。
いつものように俺を見上げてきた由梨は、目が合った途端にそそくさと顔を逸らした。
その頬が。
見たことのないほど、赤く血を上らせていた。
やばい。
今晩、夢に見そう。