入学
音楽教室で習う楽器を電子オルガンからギターに変えたとき、父さんとひとつ約束をした。
中学校では、運動部に入るって。
指を傷めそうに無い運動部、って考えて、俺は水泳部に入った。音楽教室と並行してスイミングにも通っていたから、人並み程度には泳げたし。
そして三年間、水泳とギターの練習を重ねて、俺は高校生になった。
これで、父さんとの約束は果たしたから。高校では思いっきりギターをするんだって、楽しみにしながら入学式を迎えた。
入学式の日、登校してクラスわけを見る。
一年三組。四階か、と思いながら階段を上がる。
教室に入って、”席は自由に”と書いてある黒板の文字に従って、窓際の一番後ろの机にかばんを置く。
「よう、中尾」
「ああ、黒木。同じクラスか」
同じ中学校だったやつが声をかけながら、近寄ってきた。そのまま、他愛の無い話をしながら、教室を眺める。今、登校してきているのが……十人ほどか。
「なあ、あれ。日本人かな?」
「はぁ?」
黒木の声に、教室の前の戸口に目をやる。一人の女子が入って来たところだった。
背が高くって、少し茶色がかったロングヘアをポニーテールに結っていて。
黒木の言うように、浅黒い肌のどこか日本人離れした顔立ちの女子。
あの顔は……
まさか。
ゆうりちゃん?
「中村さん、一緒だね。よろしく」
「こっちこそ。よろしく」
知り合いらしい女子同士で、声を掛け合っている。
”中村”。
やっぱり、”ゆうりちゃん”だよな。
「あ、日本人なんだ。言葉が通じなかったらどうしようかって思った」
彼女たちを眺めながら、黒木がそんなことを言っている。
「あのさ、黒木。柳原西って、英語コースがあるだろ? 日本語通じないような子なら、そっち行くんじゃないかな?」
「あぁ、そうか。俺、縁が無いから、考えもしなかった」
「いや、俺だって、縁は無いけど」
県下随一の偏差値の英語コースなんてものがある学校だけど。俺の英語の成績は、まあ、人並み? 小学校の頃に父さんに言われたように、どの教科も手を抜かないようにって勉強をしてきたから、音楽がずば抜けているくらいで、後はまあそこそこ、って成績だった。
「おーい、席に着け」
先生が教室に入ってきて、黒木との会話を中断する。
これから、入学式。
翌日はオリエンテーション。
校内案内とか、学級委員決めとか。それに伴って自己紹介も。
男子から五十音順に前に出て、名前と一言。
「じゃぁ、次は……中尾か」
出席簿を見ながらの先生の声に、教壇に上がる。
「中尾 正志です。高校では、軽音楽部に入ろうと思っています」
自己紹介をしながら、ゆうりちゃんを見る。
だるそうに頬杖をついていた姿勢から、顔を上げてじっと俺を見る。軽く目を見開いているように見える。
気づいた、かな?
ニヤけないように顔を引き締めながら、俺は席に戻った。
それからも順調に進んでいって、女子の半ば。
「中村 由梨です。どうぞよろしく」
そっけない自己紹介を終わらせて、彼女が席に戻る。
ちょっと、待て。
なんだよ。その自己紹介。
子供の頃とは体格が変わったせいだろう。天使の声が若干低くなったのは仕方が無いとして。
あの微妙な”う”の音。ギターでやっと再現できたラのフラットとソの丁度中間の音。
その音が消えた、平板な『ゆーり』。
『私の名前は”ゆ・う・り”なの!』
幼い日に、誇らしげに名乗った彼女はどこへ行った。
「中村?」
終礼を終えて、教室から出て行こうとする彼女を慌てて呼び止める。さすがに、高校生になって『ゆうりちゃん』は無かろうと、あえて苗字で呼んだ。
「なに?」
振り返った彼女は、目が合うなり嫌な顔をした。
俺、なんかしたっけ?
とりあえず、あの”まっくん”だって思い出してもらおうと、通っていた音楽教室の名前を出す。
「通って……いたよな?」
俺の問いかけに、彼女は仁王立ちって感じで腕組みをする。
「だったら、何?」
だから。なんで、けんか腰?
つい、俺のほうも口調が強くなってしまう。
「なんで、ちゃんと名前言わない?」
「は?」
「お前、『ゆうり』だろうが」
「いいでしょ、別に。あんたに迷惑かけたわけじゃなし」
「”う”の音がかわいそうだろう」
言っていて、自分でもなんだそれ、って思ったけど。
彼女はあごを上げるように、俺の顔を睨みつけると
「なにそれ。わけわかんない」
彼女はそう言って、スカートを翻して教室から出て行った。
入学から、一週間ほどが経ち。
そろそろ、部活動が始まる。
「中尾は、やっぱ軽音入るの?」
「ああ。中学からそのつもりだったし」
「楽器とか、弾けるんだ」
「一応な」
食堂からの帰り道、黒木とそんな会話を交わす。
「黒木は?」
「うーん。どうしよっかなぁ」
帰宅部、も虚しいし。剣道続けるのもなぁ。
ブツブツ言っている黒木を横目に、にぎやかに前を歩く女子の集団を見る。
背の高い ゆうりちゃんの、笑う横顔が目に入る。小学生の頃と変わらない彼女の笑顔。
あんな顔で、俺にも笑ってくれたらいいのに。
「中尾?」
黒木の声に、われに返る。
「なに?」
「部活見学、行った?」
「ああ。昨日、行って。一応入部届けも出した」
「俺も一回、軽音覗いてみたいんだけど」
「いいんじゃないか」
黒木も選択教科は音楽、だったよな。たしか。
「中尾、ついて来て」
「はぁ? 一人で行けよ」
「おねがい~」
野郎に拝み倒されてもな、うっとおしいだけだぞ。
「コロッケパン、奢るから」
「しょうがないな」
購買へと体の向きを変える。
「えぇ? 今?」
「じゃないのか?」
「入るのか? さっきカレー食ったところだろ?」
「コロッケパンくらい」
「おまえさ、そんだけ食って水泳やめたら、太るんじゃねぇ?」
太る、かなぁ?
「まぁ、いいや。なら、明日奢れよ」
了解、了解と軽く返事をする黒木と、改めて階段を上る。
ゆうりちゃんたちの姿は、いつの間にか視界から消えていた。
結局、黒木も軽音に入って。ドラムをやりたいとか言って、先輩について練習を始めた。
「中尾は、ギターやってたのか?」
部長が尋ねてくるのに、軽くうなずく。
すると副部長となにやら、コソコソ話し出して。
ちょっと来いと、廊下に連れ出された。
「あのな、練習。一年は、初心者ばっかりだろ?」
「はぁ」
一年生のうちで経験者は、俺くらい。
「一学期はまず、基礎練になるからさ。もし、ガッツリ弾きたかったら、始業前に音楽室で練習できるけど」
どうする? って、部長が聞いてくる。
学校で弾くなら。朝から弾いていても、遅刻、はない。
そう考えると、願ったりかなったりの環境じゃないか?
「はい。お願いします」
「じゃぁ」
そう言って、そのまま音楽室に連れて行かれた。
音楽の吉村先生は、一日のほとんどを音楽室で過ごしている主みたいな先生で。部長が言うには、朝も職員会議が始まるまでは、音楽室にいるらしい。
「先生。今年の一年にも、音楽室使わせてやって」
部長が音楽準備室の戸を、ノックもなしにガラガラッと引き開ける。
中では吉村先生が机から顔を上げた。
「ノックもせんやつに、貸す部屋は無い」
手に持ったペンで部長を指す。
慌てたように部長が、戸を叩く。
「それは、ノックとは言わんだろ?」
笑いながら吉村先生がペンにふたをする。
「で、それが一年か」
「一年三組の中尾です」
んー、と先生は唸りながら、手元のノートを捲る。
「ああ、選択で取っているやつだな」
「はい」
使い方の約束とか、そんな話を少し聞いて、俺の朝練参加が認められた。
期末試験が終わるのにあわせたように、秋の文化祭の要綱が発表になった。
俺たち文化部は、部活ごとに体育館で出し物をする。軽音部の一年は七人なので、ギターとベースとヴォーカルの三人ずつに別れて。唯一のドラムの黒木がどっちのグループにも出る。そんな形で演奏することになった。なったのはいいんだけど。ヴォーカルが、うーん。もうちょっと何とか……。って感じ。
だけど。ここ柳原西の名物とも言われているらしい”野外ステージ”が、今年も行われる。腕に覚えのある者はダンスでも演劇でも、とにかく、やりたいことを事前申し込みでやらせてもらえる。当然音楽も。
部活のほうが、もうひとつ、な分。こっちで、思いっきりやるのもいいかな、なんて考えたとき。
ゆうりちゃんの天使の声が俺の脳裏に浮かぶ。
ゆうりちゃんと、二人で組むのは……どうだろう?
実は、入学式の翌日に話して以来、ゆうりちゃんと口をきく機会は持てていない。
あんなに楽しそうに歌っていた、ゆうりちゃんだから。もしかしたら、これをきっかけに仲良く、なれたりしないだろうか。
そんな下心も含みながら、ある日の昼休み。食堂で彼女に声をかけてみた。
「中村、お前ステージで歌う気、ない?」
って。
「何で、私がそんなこと。嫌よ」
チラッと俺の顔を見ただけで、彼女はプイっとそっぽを向いた。
俺たちのやり取りとも言えないような会話を聞いていたらしい、後ろのテーブルから数人の男子が茶々を入れてくる。
「中尾は、知らないんだ。中村ってさ、お経みたいにボソボソ歌うんだぜ。ステージなんてムリムリ」
「そうそう。ステージ栄えしそうな派手な顔をしてっけど、客寄せにもなんねぇって」
お経?
お前らこそ、彼女のあの声を知らないなんてな。
外野の声を、さえぎるように言葉を重ねる。
「なぁ。客寄せとかじゃなくって、マジで。歌わないか?」
後ろからの視線も体で遮るように、テーブルに手をついて彼女を見下ろす。
彼女はオムライスに刺したままだったスプーンを皿に置いて、親の敵を見るような顔で睨んできた。
「しつこい。嫌ったら、嫌」
だから。俺、何をしたんだって。
彼女の視線に負けないように、睨みおろそうとしたけど。
負けたのは、俺のほうだった。
結局、野外ステージは、部長に誘われる形で学年を超えたバンドで参加することにした。